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このプログを読んでくださっている方はお気づきだと思いますが、私は、宣教師の伝記が好きです。

宣教師の手記や伝記をひもとくたびに、私は励ましを受けます。


彼らは、いったいどのような経過をたどって宣教師としての召しを受けたのだろう?

現地の人々にどのように福音を伝えていったのだろう?

苦難や試練にぶつかった時、それをどのように乗り越えていったのだろう?


信仰の先人たちは、そういった私の問いに生き生きと答えてくれます。

また彼らの力強い信仰によって、心が強められます。そして、全世界の人々に福音が届けられることをますます熱心に祈るよう駆り立てられます。


しかし、残念なことに、こういった伝記は、日本語ではあまり読むことができません。

それに、たとえあったとしても、その多くはすでに絶版になっていたり、値段が高かったりと、、こういった宣教師たちの声はなかなか私たちの元に届きません。

経済的に余裕のない学生さんにとっては、なおさらそうだと思います。


これから後、わたしたちの国の若い兄弟姉妹が、宣教のビジョンをもって、世界各地に遣わされていくことを私は信じています。

やがてハドソン・テイラーやエミー・カーマイケルのような勇ましい人材が日本からも起こされ、世界に祝福を与える器として用いられていくことでしょう。

そんなことに想いを馳せながら、私は宣教師の伝記を少しずつ日本語でつづっていくことにしました。

ネット上に公開するなら、どなたでも無償で読むことができますから。

こういった記録が、だれかの信仰の励ましになるなら、こんなうれしいことはありません。


さて、今日は、第二次世界大戦前に、旧オランダ領の東インド諸島(現パプア・ニューギニア)に遣わされた年若い婦人ダーリーン・ローズ宣教師(1917-2004)の生涯とその信仰をごいっしょにみていくことにしましょう。

生い立ちと結婚

ダーリーン・D・ローズは、1917年、米国のアイオア州に生まれました。

darlene rose 2

神にお仕えしたいという思いから、彼女は、高校を卒業後、聖パウロ聖書学校に進学しました。

1936年、地元で青年キリスト者大会が開かれます。当時、ダーリーンは19歳。

折しも、その大会にはニューギニアから一時帰国していたラッセル宣教師がメイン・スピーカーとして招かれていました。

ダーリーンの証しを聞いたラッセル宣教師は、「彼女こそ神が私にお与えになった女性だ」と感じ、彼女にプロポーズします。

ラッセル兄のプロポースにyesと答えることは、すなわち、共に宣教師として危険なニューギニアに行くことを意味しました。

二人はその後、文通を通して、さらにお互いのことをよく知るようになります。

ダーリーンは、その頃の心境を次のように書き記しています。

主のご臨在の前に上りつつ、私は祈りました。

すると神は、「主よ。あなたと共に私はどこへでも行きます。――たといどんな犠牲を払うことになっても」という、幼き少女の祈りを思い出させてくださったのです。


ラッセル31歳、ダーリーン19歳と、年の開きはありましたが、使命と信仰によって一つにされ、お互いに深く愛し合うようになっていた二人は、1937年8月結婚し、その後すぐに、宣教師としての備えのために6カ月、オランダに派遣されました。

daelene Rose


1938年8月18日、ラッセルとダーリーンはジャワ島のバタヴィアに到着します。そしてそこから蒸気船に乗って、セレベス島の中心地マカサール(Macassar)に向かいました。

当初の予定ではそこから最終目的地であるニューギニアにすぐにでも向かうことになっていましたが、いろいろと準備に時間がかかり、結局、2年後の1940年、ポスト夫妻と共に、バリエム渓谷を越え、カパウク族の住む、ニューギニアにたどり着くことができました。

その時の感動をダーリーンは次のように記しています。

山頂を登り切って、渓谷の下の方をみると、男性も女性も子どももみんな、庭や小屋から駆け出してくるではありませんか!

みんな私たちを迎えようと一目散に山腹に向かってきていました。

集まった民の半分が、歌うように「ホー!」と声を響かせると、残りの半分が、一オクターブ低い音調で「ホー!」と答え、山々にその声がこだましました。

私は手を振ってみせました。そして山腹の方に走りだしました。涙が頬を伝って落ちました。そして私は大きな声で歌うように言ったのです。「ここが私の家!ただいま!」


カパウクの人々はすぐにダーリーンにとってかけがえのない存在となりました。またラッセル兄が新妻のためにこしらえてくれた、竹づくりの小さな家も、彼女は心からいとおしみました。

それは居間と寝室の二部屋から成る新居でした。

窓ガラスの代わりに、アイシングラス(ゼラチンの一種)が貼ってありました。これなら、寒さも防ぐことができる上に、外の景色をもみることができるのです。

パニアイ湖をみわたすわが家から、ダーリーンは夕暮れの空をながめました。黄金の太陽が、この上もなく美しく湖を照らしていました。

第二次世界大戦勃発

そんな幸せな日々を送る夫妻の元に、ある日、突如として知らせが届きました。――「オランダ陥落。今やナチス・ドイツの占領下に。」

当時、ニュー・ギニアはオランダ領でしたので、このニュースは当地に住むオランダ人や外国人にとって深刻な意味を持っていました。

続く1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃。その後、3ー4カ月の間に、日本軍は、次々と東南アジア地域を占領下に置いていきました。

そして翌3月、その支配はついにニューギニアにも及び、3月5日、宣教師たちは自宅監禁となります。

それから8日後の3月13日。この日はダーリーンにとって、生涯忘れられない日となりました。

突如、日本軍のトラックがやって来たのです。そしてラッセル兄を始めとする男性宣教師を戦争捕虜として収容所に連行するというのです。

ダーリーンは家に入ると、枕カバーを取り、無我夢中でその中に夫の服、聖書、筆記用具、ひげ剃りなどを詰め込みました。

表に出ると、ラッセルはすでにトラックに乗り込まされていました。ダーリーンは枕カバーを渡し、夫の顔を食い入るように見つめました。

トラックはエンジンをかけ始めました。

夫はダーリーンの方に身を乗り出し、静かにこう言いました。

「いいかい、僕の愛しい人。これを覚えていてほしい。『主は決して私たちを離れず、私たちを見捨てない』っておっしゃられたことを。」

トラックは砂埃を上げて動き出し、やがて見えなくなりました。

ダーリーンが愛する夫を見たのはこれが最後でした。

この時の心境を彼女は後にこう記しています。

すべてのことがあまりにも早く、唐突に起こりました。夫は「主は決して私たちを離れず、私たちを捨てない」と言い遺しました。

でも今どうなんですか、主よ?――実際、この時ほど主に見捨てられたように感じた時はありませんでした。

でもその時私はみたのです。今自分を圧倒しているこの状況、自分ではどうすることもできないこの状況から目を離し、こうべを上げた時、そこに私の主はおられました。

主は天の胸壁から私を見ておられました。そして心の深いところで私にこう語られたのです。

「わたしはここにいる。わたしが見えない時にも、わたしはここにいる。どんな瞬間にも、わたしの目はあなたに注がれている」と。


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ダーリーン、戦争捕虜になる

その後、2カ月して、ダーリーンたち残りの宣教師は、カンピリにある収容所に連行されました。

収容されていたのはほとんどがオランダ人でしたが、ダーリーンのような外国人もその中に含まれていました。彼女はバラック8号に入れられました。ダーリーンは、毎晩、そこで聖書を朗読し、祈り会を持ち、収容されている女性たちを慰めました。

また同じ頃、男性収容所においても、夫ラッセルは仲間の宣教師と共に、福音を伝え、多くの魂をキリストの元に導いていました。

山路司令官

当時、捕虜収容所を総括していたのは、山路司令官でした。

この司令官は、男性収容所で捕虜を殴り死に至らしめたとか、女性捕虜にも手を上げる等のうわさが立つほど、その凶暴な気性で知られた人でした。

収容所内では日本兵の食糧用にブタが飼育されていたため、ハエが大量に発生し大問題になっていました。

山路司令官は、捕虜女性に対し、一日一人当たり、100匹のハエを殺して持って来るよう命令を出しました。

理にかなわない命令でしたが、皆、司令官を恐れていたので、従いました。こうして一日6万匹以上の死んだハエが司令官の元に持ってこられました。

ハエの数を数えるのに疲れてしまった司令官はやがてこの命令を取りやめますが、ダーリーンはこのような環境にあっても主を見上げ続けました。

ラッセルを最後に見た日から約1年後、彼女は、夫が収容所内で赤痢菌にやられ3か月前に死亡していたことを知らされます。その時、ダーリーンは26歳でした。

ラッセルの死の知らせが収容所内に流れると、さすがの司令官も彼女のことを憐れに思ったのか、ダーリーンをオフィスに呼びました。

以下はその時交わされた二人の会話です。

山路:「今は戦時中だ。」

ダ:「はい、山路司令官、承知しております。」

山路:「今日あんたが聞いたこと(=夫の訃報)は、日本にいる女たちもそれぞれ同じように聞いてきたことだ。」

ダ:「はい、司令官。それも承知しております。」

山路:「あんたはまだ若い。いつか戦争は終わる。

そしたらあんたはアメリカに戻れる。ダンスに行ったり、芝居をみにいったり、いい人を見つけて再婚するがいい。そしてこんなひどい時代のことなんか忘れてしまいなさい。

うちの収容所の中であんたはよくがんばってくれている。他の女たちも大いに助けられているようだ。辛いだろうが、今、へこたれたらいかんぞ。」

ダ:「山路司令官。一言申し上げてもよろしいでしょうか。」彼はうなずき、彼女にイスに腰掛けるよう指図しました。

ダ:「山路司令官。望みをもたない他の人々のように私は悲しんでいません(Ⅰテサ4:13)。私は司令官、あなたに今日、《ある方》についてお話申し上げたいのです。

まだ幼い頃、アイオア州にいた私は、日曜学校でこのお方について聞いたのです。この方の名前はイエスといいます。イエスは天地の創造主、全能の神の御子です。」

目を上げると、山路の頬を涙がつたっていました。

「そしてイエスはあなたのために死んでくださったのです、山路司令官。そしてイエスは私たちの心に愛を植えてくださいました。その愛は敵をも包むものです。

だから、司令官、私はあなたを憎んでいないのです。

私が今この時、この場所に置かれているのは、イエスがあなたを愛しているということをお伝えするためだったのかもしれません。」

山路司令官は、涙で頬をぬらしながら、部屋を出てゆきました。

そしてその日を境に、山路司令官は彼女に信頼を置くようになりました。ダーリーンは、司令官の救いのために祈りました。

独房へ

1944年5月12日、軍の公安部がダーリーンをスパイ容疑で拘束しました。そして彼女を独房に入れました。

ドア越しにきこえる看守たちの会話から、ここが死刑囚監房であることを彼女は知ったのです。

彼女は監房の床にくずおれるように座りました。今までに感じたことのない恐怖が襲ってきました。

しかしその時突如として、幼い頃、日曜学校で歌っていた《こどもさんびか》の一節が口をついて出てきたのです。

♪おそれちゃいけない、ちいさな群れよ
きみがどこにいようと
主はすべての部屋に入ってきてくださる
、、主はけっしてきみを見捨てない


この間、しょっちゅう、彼女は尋問室に連れていかれました。

二人の尋問官は、ダーリーンが米国人スパイとして諜報活動を行なっていたこと、ラジオを隠し持っていたこと、アメリカ側に情報を提供していたこと、モールス信号を知っていたことなど罪状をあげました。

それら全てを彼女が否認すると、二人は、彼女の顔面や後ろ首を殴りました。

尋問官たちの前では決して泣きませんでしたが、独房に戻るや、彼女はわっと泣き崩れ、主の前に心を注ぎ出して祈りました。

「またこの期間、聖句を暗唱するよう、主は私の心に働きかけてくださいました。」とダーリーンは書いています。

「適度な運動も必要だったので、私は、独房の中をぐるぐる歩きまわりながら、静かに聖句を暗唱し、賛美歌を歌っていました。」

バナナ

ある日、ダーリーンは、鉄格子から外をみていました。と、ある女性囚が、看守の見ていない隙に、フェンス近くのバナナをもぎ取っているのが目に入りました。

常に栄養失調の状態にあったダーリーンは、神さまにこう祈りました。

「主よ、私はお粥に感謝していないのではありませんし、あの女性がもぎ取ったようにバナナ一房まるごと欲しいわけでもありません。

でも、ただ一本でいいです、私にもバナナを食べさせてくださいますか。

でも私のために持ってきてくれる人は誰もいないし、あなたといえども、こればかりはどうしようもないと思います、、、」

翌朝、ダーリーンの元を思いがけない人が訪れてきました。――なんと、山路司令官がやって来たのです。

やけこけた手をたたいて、彼女は子どものように無邪気に喜びを表現しました。

「山路司令官、なんだか古いお友だちに再会しているような気持ちです!」

そんな彼女を見る司令官の目には涙がたまっていました。山路は何も言わず、中庭に入ると、そこで役人たちと長い事話し合いをしていました。

それからまた独房の方に戻ってくると、山路は同情にかられ尋ねました。「かなり病気のようだな。」

「はい、司令官。」

「今から収容所に戻るところだが、向こうの女たちに何か言づてはあるか。」

「はい。『私は大丈夫、今も主を信頼し続けている』と彼女たちに伝えてもらえますか?

彼女たちは私の言わんとしていることを理解してくれるはずです。そしておそらくは司令官、あなたも。」

「了解した。」と山路は答え、去っていきました。

山路や役人たちが去った後、ダーリーンは、自分が彼らにおじぎをするのを忘れていたことに気が付きました。

「ああ、どうしよう。彼らはきっと戻ってきて、私をぶつことでしょう。」看守が独房に近づいてくる足音がきこえてきました。

彼女は尋問室に連れて行かれる覚悟を決めて、立っていました。

しかし、看守は錠を開け、中に入ってくると、何かをドサッと床に置いたのです。

「あっ、バナナ!」

「山路司令官からの差し入れだ。」そういうと看守は出て行きました。

彼女はバナナを数えました。なんと92本のバナナが贈られてきたのです!

ダーリーンは、主の前に泣きながら祈りました。

「ああ、主よ。私を赦してください。私はただの一本のバナナでさえも、あなたに信頼できずにいました。見てください――今ここに100本近いバナナが贈られてきたのです!」

「その時、私は、神にとって不可能なことは何一つないことを悟りました。」と彼女は記しています。

ダーリーンと愛するニューギニアの民

主は、この間、ダーリーンを力強い御手で守られました。

死刑があと少しで執行されるという間一髪のところで、彼女は突如カンピリの一般収容所に戻されたのです。

これは私の想像するところですが、この背後には、彼女を通して心に主を受け入れた山路司令官の、公安局側へのとりなしと働きかけがあったのではないかと思います。

こうして終戦まで生きながらえたダーリーンは釈放後、一時アメリカに帰国します。

その後、ジェリー・ローズ宣教師と再婚し、二人は志を新しく、1949年、ニューギニア(現パプア・ニューギニア)に戻って行きました。

ダーリーンは、激動の当時を回想し、次のように語っています。

「あの8年を遠くから見つめた時、私はひたすら神さまの知恵と愛に驚かされます。

神さまは舞台のカーテンをつかさどっておられ、私たちの人生ドラマはそこで繰り広げられているのです。

主の御手は、《人生に起こる出来事》というカーテンを脇に寄せるのですが、それは一回に一コマだけが視界に入るよう配慮されているのです。」


おわりに

7 はな


かつて夫のラッセルといっしょに初めて住んだ、バリエム渓谷の竹づくりの家。

そこにはアイモパイという母のない小さなカパウク族の子がいて、ダーリーンのことを「ママ、ママ」と呼び、なついていました。

オランダ陥落により退去を余儀なくされたラッセル夫妻の後を、男の子はどこまでもついてきました。

橋のところまで来ると、ダーリーンは涙をこらえて、男の子に村に戻るよう言います。

すると男の子は、涙で顔をくしゃくしゃにして、後ろから大きな声で叫びました。「ママ、egaa kedaa! はやく戻ってきて!」


その後、戦争が勃発し、最愛の夫ラッセルを失い、自らもいつ殺されるか分からない状況にありながら、この年若い女性は、けなげに主を見上げ続けました。

そして戦後、愛してやまないカパウク族のもとへ、ニューギニアの民のもとへ戻っていったのです。


ダーリーン・ローズはもうこの世にいませんが、彼女の蒔いた愛の種を育てていく次なる世代の宣教師が起こされますように。

パプア・ニューギニアでは、現在でも主イエスを知らない何百という部族が、暗闇の中に置かれています。

誰が行って、彼らに愛を伝えるのでしょうか。

誰が、御父のこころを彼らに伝えに行くのでしょうか。

もしも、この伝記を読んでくださった方の中で、なにか主の示しを感じた人がいましたら、どうか世のしがらみに引きずられず、ご自分の行くべき道について引き続き主に祈ってください。


その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
            黙7:9-10


アーメン。


【文献案内】
Darlene Deibler Rose, Evidence Not Seen: A Woman’s Mraculous Faith in the Jungle of World WarⅡ

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↓ダーリーン自身による証しを聴くことができます。(英語)
www.youtube.com/watch?v=y9k5WuqIuSQ

宣教師に召されている若い兄弟姉妹に送る応援レター(その2)

なんのために書くのか