ホオジロ

私がはじめてリチャード・ウルムブランド(1909 – 2001)というユダヤ系のルーマニア人牧師のことを知ったのは、ペルシャ語に翻訳されたリチャード牧師の自伝Tortured for Christ(1967年初版)を通してでした。

その後、リチャードおよび妻サビナの歩んできた果敢な生涯を知るにつけ、いつの日か、二人の証を文章にしたいと願うようになりました。

20世紀の東欧に生きたユダヤ人クリスチャンは、ナチスによる大量虐殺、およびその後のコミュニズム独裁政権という相次ぐ火の試練をくぐってきました。

さあ、これからごいっしょに、リチャードとサビナの生涯をみていくことにしましょう。

生い立ち

richard 3

リチャード・ウルムブランドは、1909年3月24日、ルーマニアのブカレスト市のユダヤ人家庭に生を受けました。4人兄弟の末っ子でした。

しばらく一家はイスタンブールに住んでいましたが、リチャードが9歳の時、父が死に、その後一家はルーマニアに戻りました。当時、リチャードは15歳でした。

青年期、リチャードはモスクワに派遣され、そこでマルクス思想を勉強します。

母国に帰ってきた頃には、彼はコミンテルンの重鎮となっており、モスクワから給与が支払われていました。

一方のサビナは、1913年7月10日、オーストリア・ハンガリー帝国のチェルノヴィッツ市(Czernowitz)に生まれました。(この都市は、第一次世界大戦後ルーマニア領となり、第二次世界大戦後はウクライナ領となりました。)

サビナもまたユダヤ人の家に生まれ、高校卒業後、パリのソルボンヌで語学を学びました。

1936年、23歳のサビナはリチャードに出会い、二人は結婚しました。

richard family

老大工の祈り

ルーマニアの山奥にWolfkesという名の年老いた大工が住んでいました。この老人は神を畏れる敬虔なクリスチャンでした。
そして長年、ひとつの祈りを神に捧げていました。

「神さま、私はユダヤ人にあなたの御子の愛を伝えたいのです。しかし、私はもう年で村の外に出ることができません。みこころでしたら、どうかこの村に一人のユダヤ人を送ってください。」と。

結婚後、一時、体調を崩したリチャードは、療養のため、サビナと共に空気のいい田舎に滞在することにしました。

そしてくすしき神の御手の中で、ウルムブランド夫妻は、この老クリスチャンのいる村にやってきたのです。

老人から福音を聞いたリチャードは深く心を打たれ、イエス・キリストを救い主として信じました。リチャードに続いてサビナも信じました。

その後、ブカレスト市に戻った二人は、アングリカン宣教教会に加わりました。(その後ルター教会に)。

ナチ占領下のルーマニアにて

第二次世界大戦中、サビナの両親、二人の姉、そして兄は共に、ナチスの強制収容所で命を失いました。

生き延びたウルムブランド夫妻は、ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人の子どもたちを救出するために奔走しました。

また彼らは防空壕の中で、福音を説き、そういった地下活動ゆえに幾度も逮捕されました。

戦後の共産党支配下にて

communist romania

1945年、ルーマニアの共産党員は権力を掌握し、その結果、百万ものロシア兵が国になだれ込んできました。

リチャード牧師は虐げられている同胞を助けると共に、ロシア人兵士にも大胆に福音を伝えました。

あの統制下にあって実に百万部もの新約聖書を彼ら兵士に配ったのです。
また危険を冒して、聖書配布の禁じられているロシアへ聖書を持ち込むこともしました。

同年、ウルムブランド夫妻は、ルーマニア共産党政権の主催する宗教者会議に出席しました。

多くの聖職者たちが前に進み出て、共産主義をほめ称え、新政権に忠誠を誓いました。

サビナは夫に言いました。「リチャード。キリストの御顔に泥がぬられている。立ち上がって、この恥辱を晴らして。おねがい。」

こうしてリチャードは意を決して立ち上がり、4000人の参席者を前に、「私たち聖職者の任務は、神とキリストのみに栄光を帰すことである。」と宣言しました。

彼のこういった勇姿は、時の権力者イゼベルにおもねる450人のバアル預言者を前に、一人、果敢に挑んでいった主の預言者エリヤを髣髴させます(Ⅰ列王記18章)。

投獄

しかし、この発言によってリチャードは共産党政権ににらまれる存在となり、1948年2月29日、礼拝に行く途中、彼は秘密警察によって拉致され、独房に監禁されました。

秘密警察は、偽名によりリチャードを監禁していたため、彼の家族や友人は、何年も本人の行方をつかむことができずにいました。

彼は、1956年まで8年半もの間、獄に入れられますが、そのうち3年間は、光も窓もない地下牢に入れられました。そこには何の音もありませんでした。(看守でさえも靴の裏にフェルトをつけて歩くという徹底さでした。)

こうした環境の中、リチャードは精神を正常に保つため、日中は休み、夜間目を覚ましていました。そして毎晩、真っ暗闇の中で、説教案を作っては、それを一人説いていました。

(彼はその驚くべき記憶力により、出獄後、獄中で作った説教を350以上書き記し、それを元に1969年、『独房で神と共に(“With God in Solitary Confinement”)』という本を出版しました。)

またこの間、モールス信号を使い、壁をコツコツ叩くことで、隣の独房にいる囚人たちともコミュニケーションを取り、暗闇の中で彼らを励まし続けました。

richard in prison

一方、1950年には、妻のサビナも投獄され、3年間、各地の収容所で強制労働を強いられました。夫妻にはミハイという9歳になる息子がいましたが、かわいそうに、この期間、ミハイは孤児同様になっていました。

投獄後二年目に、サビナは、数分間、遠くから息子を見ることが許されました。

サビナは息子に呼びかけました。

「ミハイ、イエスさまを愛してね。」 

母親のこの言葉は、幼い息子の心に深く植え付けられました。

収容所にいる期間、サビナは、クリスチャンの女性囚人たちが信仰ゆえに、拷問を受け、暴行を受ける様を目の当たりにみてきました。

出獄後、サビナ(およびリチャード)が、このうえもない大きな愛をもって、獄中で苦しむクリスチャンたちに手を差し伸べつづけたのは、こうした実体験が背景にあったといっていいでしょう。

牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。ヘブル13:3

1953年にサビナは釈放されました。そして3年後の1956年、リチャードも一般恩赦を受け釈放されました。

釈放される際、「今後、一切、伝道してはならない」と言い渡されましたが、リチャードは、そういった脅迫にも屈せず、すぐに地下教会で福音伝道を始めたのです(使徒4:17~20参照)。

こうして1959年、彼は再逮捕され、懲役25年の刑を言い渡されました。投獄中、彼は筆舌に尽くしがたい拷問を受けました。

その間、サビナは、兄弟姉妹と共に、夫のことを祈りつづけました。

一回目の投獄中、釈放された囚人仲間を装った秘密警察が、サビナの元を訪れ、「獄内で、リチャードの葬式に出席した。」と偽りの報告をしました。

また、二回目の投獄中には、政府が、リチャードの死亡を公式に発表しました。

しかし、サビナは頑としてそういった情報を受け入れず、「夫はきっと生きている」と信じつづけ、祈りつづけたのです。なんという強い信仰でしょうか。

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14年余りも、この夫婦はお互いに離れ離れになっていました。そしてサタンはあの手この手で、二人の間を裂こうと攻撃してきました。

自宅監禁されていた時期に、政府の指導者はサビナに対し、「もし夫を離縁し、キリスト信仰を否むなら、あなたを自由の身にする」と言い渡しましたが、サビナはそれを拒みました。

祈りと信仰によって堅くつながっていた二人の信頼と愛は、なにものによっても崩れされることはなかったのです。

実際に、サビナは、たった一人独房にいた期間、「私は夫のために祈っていましたが、その間、本当にリチャードを近くに感じていました」と証言しています。

その後、西洋諸国のクリスチャンのとりなしもあり、ついに1964年、リチャードは恩赦を受け、釈放されました。

さらに翌年の12月には、ノルウェーの宣教団体(「ユダヤ人へのミッション」)とヘブライ・クリスチャン連盟が共産党政権に対し、一万ドルの身代金を払い、ウルムブランド一家をルーマニアから出国させる許可を得ました。

しかしリチャード本人はルーマニアでの伝道に重荷があったため、最後まで出国をためらっていました。

が、地下教会の兄弟姉妹から、「リチャード、どうか私たち地下教会の〈声〉となって、世界にメッセージを発信してほしい」と懇願され、彼はついに亡命を決意します。

《殉教者の声》ミニストリーの誕生

こうして米国に亡命したウルムブランド一家の証しは、全世界に衝撃を与えました。

そしてそれまで実態がよくつかめていなかった、鉄のカーテンの向こう側のことがようやく明らかになってきたのです。

またリチャードの自伝Torture for Christは、何十カ国語に訳され、これらの著述を読んだ多くの人が、東ヨーロッパの共産圏のクリスチャンのために祈り始めました。

夫妻のはじめたミニストリーは、最初、共産圏で迫害に遭っているクリスチャンを中心とするものでしたが、その後、主はそのビジョンを拡大され、対象は、世界規模にひろがっていきました。

サビナは2000年8月11日に87歳で召され、それに続くようにリチャードは翌年の2月17日、92歳で召されましたが、二人は、最後の最後まで、迫害に苦しむクリスチャンたちに寄り添い、彼らを助け、彼らのために祈りつづけました。

richard family 2

おわりに

二人の話を終える前に、ひとつのエピソードをご紹介したいと思います。

1989年、チャウシェスク独裁政権が崩壊した翌年、リチャードとサビナは実に25年ぶりに、祖国ルーマニアの地に戻ってきました。

多くの兄弟姉妹に歓迎されるなか、二人はブカレスト市に《殉教者の声》のオフィスを開きました。

そのニュースを聞いた、ブカレスト市の役人たちは、リチャードに何を提供したと思いますか?

そうです、かつての独裁者チャウシェスク宮殿の地下倉庫を、聖書やトラクトを保管する場所として提供してくれたのです!そこは、かつてリチャードが閉じ込められていた独房があった場所でもありました。

時の政権は、無神論を標榜し、キリスト教を滅ぼそうとしました。

人々から聖書を取り上げ、教会を封鎖し、神のしもべたちを地下の牢にぶちこみました。

しかしコミュニズム政権は、結局、神のことばを抹消することはできませんでした。そして人びとの心から、神に対する愛と信仰を取り去ることはできませんでした。

18世紀の独裁者ナポレオンは、戦に敗れた後、こう言いました。

「私は人間というものを知っている。

それで君に言うが、イエス・キリストは単なる人間ではない。この人に匹敵する人はだれもいない。

アレクサンダー大王、カエサル、カール大帝、そして私は、帝国を築いた。でもそういった帝国は何によって建てられたか?――そう、暴力によってだ。

しかしイエスはその帝国を愛によって打ち建てた。

そして今、この瞬間にも、何百万という人が、この方のために立ち上がり、死んでいっているのだ。」


国の情勢は変わり、時の権力者もイデオロギーも、興っては、やがて泡のように消えていきます。

しかし神のことばは永遠に変わりません。そしてイエス・キリストは今も生きておられます。

Bible and light

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。1ペテロ1:24,25


リチャードとサビナは、艱難に耐え、立派に信仰のレースを走り抜きました。

さあ、今、バトンは私たちの手に置かれています。

私たちも、それぞれ置かれた場で、せいいっぱい主のご栄光をあらわしていこうではありませんか。

アーメン。

【文献あんない】

殉教者の声(Voice of the Martyrs)の公式サイト(ココ

サビナ・ウルムブランドの生涯を追ったドキュメンタリー (ココ

リチャード・ウルムブランドの著書Tortured for Christ (ココ)

サビナ・ウルムブランドの回想録Pastor’s Wife(ココ
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