第十一章
 釈放 そして良心の呵責


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釈放!

マルクス・ボシャートは深く息をつき、ゾリコンに顔を向けていた。彼は村への一番の近道を探しながら、チューリッヒの狭く急な坂道をすばやく上っていった。そして実際、村への近道にさしかかり、好奇な目の届かない所に来たのを知るや、彼は一目散に走りだした。

ハンス・ホッティンガーが牢獄にこっそり忍びこみ、囚人たちの安否を問いに来た日から一週間が経過していた。その週ずっとゾリコンからは何の音沙汰もなかった。マルクスは家に帰りたくてたまらなかった。

彼は雪道を駆け下りながら、腕を振った。マルクスは走るのが好きだったが、今彼はかなり無理してここまで走ってきていた。間もなく彼の息は切れ、速度を落とさざるを得なくなった。

自由の身であるというのはなんとすばらしいことだろう!あの四方を囲まれた壁、鍵のかかった戸や看守たち、日々の尋問といったものからも自由なのだ。

マルクスは釈放され幸せだったが、一方で、彼は不安だった。

入り混じった思いが頭を駆け巡っていた。僕たち囚人が、ツヴィングリの提供した条件を飲んだことは、はたして正しかったのか。マルクスは心にある疑いをかき消すことができないでいた。彼は罪意識を感じていた。そして落ち着かなかった。

家に着いたら、それについてレグラに、そしてルディー・トーマンに話してみよう。

でも今となっては遅すぎるのだ、、、
遅すぎる、、、遅すぎる、、、遅すぎる、、、遅すぎる、、、

付きまとって離れない良心の声が駆け足の音と拍子を合わせている感じだった。

自分と共に牢獄にいた他の兄弟たちは、本当のところ、心の奥底ではどう感じていたのだろうかとマルクスは思った。彼らも僕と同じような消えることのない不安を抱えているのだろうか。

それからフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロック。あの二人は、僕たちの下した選択についてどう思うだろうか。

――でも実際、マルクスには分かっていた。現に、マンツとブラウロックは未だに牢獄にいる。彼らは釈放されなかったのだ。マルクスにはその理由が分かっていた。そしてその事を考えた彼は耳が風の中で赤くほてるのを感じた。

彼はもうゾリコンの近くまで来ており、さらに速く走り始めた。もっと速度を落とさなくちゃ。そうしないと家に着いた時、息が切れて話せなくなってしまう。彼は強いて速度を落とし、早歩きを始めた。

最初の家々を大股で過ぎ去り、家へとつながるグスタード通りを上っていった。この九日間で特に何か変わったことはないように見えたが、それにもかかわらず、村は異様な感じだった。

本当に牢獄にいたのはたったの九日間だけだったのか。チューリッヒに囚人として連行されていってから、たったの九日しか経っていないのだった。マルクスには長く感じられた。

マルクスは玄関口でほとんどつまずきそうになった。彼は戸を大きく開け、大声で呼んだ。「レグラ!」

「マルクス!」レグラは息をのみ、急いで彼のもとに駆けこんできた。

二人はしばしの間、しかと抱き合った。それからレグラは疑問をたたえた目で夫の方をみた。「どうやって、、、、どうやって出てきたの?」心配になってきたレグラは尋ねた。

「いや、僕の身は安全だよ。」マルクスは彼女を安心させようと笑った。「僕たち25名は皆、釈放されたんだ。でも一番先に村に帰ってきたのは僕だと思う。」マルクスは彼女にニコッと笑ってみせた。

ルディー・トーマンは家屋で働いていたのだが、婿の声を聞き付けて急いで駆け込んできた。
彼は小さな手でマルクスの大きな手をしっかり握り絞めた。「息子よ、お帰り。」彼は言った。

三人は腰をおろし、マルクスは質問に答え、牢獄での日々について語り始めた。「僕たちは丁重に取り扱われたよ。」彼は説明した。

「僕の予想していた過酷な囚人生活とは違っていたんだ。食事もよかったし、看守たちも僕たちの便宜をいろいろ取り計らってくれたんだ。」

「でも、、、どうやって、、、どうやって。」ルディーは一番念頭にあったこの質問を終いまで言う必要はなかった。

マルクスはため息をついた。

「ツヴィングリは初めての日、憤慨していた。おそらく洗礼に関する話の中で、彼が袋小路に追い詰められたからだろうと思う。しかしその後、彼はしごく友好的だった。彼はまるで僕たちが彼の同輩ででもあるかのように、さっくばらんに僕たちと話をし、話しかけてきたんだ。本当に彼はそれほど悪い奴じゃなかった。」

「もちろん、そうだ。」ルディーは言った。

「もしかしたら、、、もしかしたら、彼も私たちの群れに加わるかもしれないっていうのは本当なのかしら?」レグラは尋ねた。

マルクスは目を伏せた。苦しげな表情が彼の顔を横切った。

「僕は、、、僕自身は、あまり話さなかった」と彼は言った。「年長の兄弟たちが群れを代表して話した。ツヴィングリ曰く、僕たちはもう少し忍耐し、待つ必要があるって。そうしたらいずれ、ツヴィングリの教会は、僕たちの望んでいるような教会になるだろうって。神の民が分裂するのは恥ずかしいことだから、僕たちは立ち帰り、彼の元に再び加わるべきだとツヴィングリは言った。」

「そ、それに同意したの。まさか、しなかったわよね。」レグラは尋ねた。
「まあ、、、」とマルクスとためらった。「もうああいう事をしないって約束しなきゃならなかったんだ。」

「ああいう事って、何?」
「洗礼を授けること。」

ルディー・トーマンはほっとしたように見えた。「そしたら、彼らは簡単にお前たちを釈放したってわけか。お前たちが約束しなきゃならなかったのはそれだけだったのか。」

「それだけでもう十分じゃありませんか。」マルクスは問うた。「礼拝に集まることや、洗礼を授けることが禁止されたのなら、いったいどうやって教会を建て上げることができるというんです。」

ルディーは立ち上がり、部屋を行きつ戻りつしていた。それから彼は再び腰を下ろした。

「時々思うんだが、、、」彼は口を開いた。「時々思うんだが、結局のところ、全て間違っていたんじゃないか、ってな。」彼は咳払いをし、ゴホンと言った。

「我々皆を牢にぶち込むことになっても、ツヴィングリはあきらめるようなことはしない。何より賢明なのは、じっと静かにし、忍耐をもって、来年か、さ来年あたりのツヴィングリの動向を見守ることではないかと思う。

もしかしたら、彼は良い教会を建て上げてくれるかもしれん。そしてたといそうじゃないとしても、その時はその時で我々は再挑戦することだってできるだろう。」

マルクスは義父を見つめた。彼は本気で言ったのだろうか。

ルディー・トーマンは続けて言った。「我々は自分たちの思想や考えを内に隠しておくことができる。そうしたら、もうこれ以上問題、、、もう牢獄の日々はなくなる。」

「でも、、、でも、、、」とマルクスは反論した。「もし何かが正しいと信じていながら、それに従って生きることをしないのなら、僕たちはツヴィングリの二の舞になってしまいます。

僕はまだあきらめようとは思っていません。ツヴィングリが決して手に入れることのできない何か――つまり、彼が参事会と手を切って、自分の信仰を生きるようにならない限り持てないもの――を、僕たちは持っているんです。」

ルディー・トーマンは婿を厳しい目で見やりながら冷ややかに言った。「私に理解できんのは、どうして彼らがお前を釈放してやったのかってことだ。お前の話す様を見ていると、どうもそれが理解できん。」

マルクスはもじもじした。自分でも不思議だった。人はこんなに混乱しえるものだろうか。

自分の心の中では何が正しいか、彼は分かっているつもりだった。でも、それに従って生きる力がなかった。牢獄の中でした約束は、重圧に押される中でしたものだった。

「自分たちがすべきことは分かっています。」しばらくしてマルクスは言った。彼の口調はほとんど激しいといってもよかった。「人に従うより、神に従うべきです。しかし、それを実践するのは難しい。」

ルディー・トーマンは何も言わなかった。彼は指をいじりながらそわそわした様子で座っていたが、最後に彼は尋ねた。「それで罰金はいくらだったのか。釈放されるのにいくらかかったんだ。」

「グループ全体で、一千ギルダー貨です。」
「一千ギルダーだと!」とルディーは叫んだ。「そりゃ、大金だ。」

「分かってます」とマルクスは同意した。「しかしそれは25人に分割されますから。」

「いくら村全体が罰金の支払いに協力するからといって、一千ギルダーは、依然として一千ギルダーだ。お前一人当たりの支払いは四十ギルダーで、それはおおよそ三カ月分の報酬に当たる。そのことも知っているか。」

「知っています。」マルクスは答えた。「しかしこれまでのところ、金銭の事が自分の心配事ではないんです。」

「私にとっては大いに心配事だとも!」とルディーは再び立ち上がった。

「あと数回も投獄が続いた暁には、我々は皆、物乞いになるだろうさ。チューリッヒは村から金という金を吸い上げるだろう。そういう意味でも、しばらくじっとしておいて、これ以上問題を起こさないようにしようって私は言っているんだ。皆も同意することを望むよ。」

義父がもうこれ以上家族の者を牢獄送りにはさせないぞと腹をくくっていることがマルクスには分かった。

ある意味、そういうルディーを責める事はできなかった。マルクスにしても、牢獄生活はもうこりごりだったし、罰金の支払いも楽ではないことを知っていた。最悪の場合、彼らは牛も売らなければならなくなる可能性だってあった。

事態がどうであれ、もう話し合いは十分されたとマルクスは確信した。今は事を荒立てず、何も言わないのはベストだと思った。おそらく後になって、もう一度話し合えるかもしれない。

マルクスはレグラと二人きりになりたかった。そして二人で問題を話し合い、次に何をすべきかを決めたかった。

☆☆☆
家々

夕暮れまでには、囚人たちは皆家に戻って来ていた。そしてゾリコン村は喜びに湧いた。

しかしその歓喜も長くは続かなかった。というのも、巨額の罰金の支払いという問題がのしかかってきて、喜びを奪い取っていったからだ。それに加え、将来への不安もあった。今後、この村にふたたび平和と静けさが訪れるのだろうか。

一週間が過ぎたが、ゾリコンはどこも静かだった。集会もなく、洗礼式もなく、聖餐式もなかった。

冬になり、いつもの単調な日々がまた始まり、再洗礼や牢獄でのことなど、ほとんど夢だったかのように思われた。

しかしそれは到底忘れられない夢だった。今でも村人たちの間では、多くの興奮に満ちた会話がなされていた。通りの隅の方に、人々が固まって、話し合いながら、互いにうなずき合っている光景がみられた。

そんなある日のこと、フリードリー・シュマッヘル宛ての手紙を携えた配達人が村にやって来た。配達人は靴屋の店先に手紙を置くと、再びチューリッヒに発った。

マルクスは急いで義兄の家に向かった。いったいどこの遠隔地から手紙が届いたのだろう。誰がフリードリーに手紙を書くだろうか。そう、それは一人しかいなかった。ヨハン・ブロトゥリーだった。

マルクスは靴工の店に入った。店に入った瞬間にはいつもそうなのだが、革と油の匂いが鼻孔をくすぐった。部屋には誰もいなかった。

そこに、誰が戸を開けて入ってきたのだろうと、フリードリーの妻が入ってきた。「台所の方へいらっしゃいな」と彼女は手招きした。「フリードリーは喜ぶでしょうよ。彼はヨハンから手紙をもらって、誰かそれを読んでくれる人を必要としているのよ。」

マルクスは皮革の山を押しのけて進み、シュマッヘルの奥さんの後に続いて隣の部屋に入っていった。

そこでフリードリーは窓際に腰掛け、手紙の字句を一生懸命追っていた。彼はすぐさま、それをマルクスに手渡した。

「これだ、読んでくれ。」彼の手は震えていた。
マルクスは便せんをしかとつかみ、思い切った、流れるような筆跡の手紙を見つめた。彼は読み始めた。

神のみこころによりイエス・キリストのしもべとされたヨハンより、ゾリコンに住む、忠実なるキリストにある兄弟たちへ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

「愛する兄弟たち。私はあなたがたに何を書くべきか、もしくは私が去った時のようにあなたがたが今も変わらず信仰に忠実であるのかどうか分からないでいる。

二週間前にあなたがたに手紙を書き送ったのだが、返事がなかった。もしかしたら手紙そのものが届かなかったのかもしれない、、、


「彼はもう一通手紙を書いていたのか。」フリードリーが口をはさんだ。「おかしいな。一通目の手紙はどうなってしまったのだろう。」

「分からない。」
マルクスは続けて読み始めた。

「、、、もしすでに手紙を受け取っていたのなら、あなたがたには神の愛が少ししかないといえる。しかしもし受け取っていなかったのなら、どうか私のせっかちさを堪忍していただきたい。

前の手紙に多くの事を書いたのだが、今回、その内容を簡潔に繰り返そうと思う。何と言おうか、私の心はキリストにあって、あなたがたに対する懸念と悲しみでいっぱいである。

あなたがたのうちの多くが、――以前には受け入れ、洗礼を受けたところの――聖い信仰と神の御言葉から離れてしまったと聞き、私の心は非常に痛んでいる。また、投獄された者たちが信仰を否定し、明らかに神の御言葉に反するやり方に自分を封じ込めてしまっていることを聞いた。

この真偽はあなたがたが知っているはずだ。ああ、わざわいなるかな、あなたがたのお金と財産よ。こういった物があなたの妨げになっているのだ。キリストは聖なる福音書の中でこのことを明確にしておられる、、、」


マルクスは再び口をつぐんだ。彼の目には涙が浮かんでおり、恥ずかしさに頭をうなだれた。

「まだ続きがあるのか」とフリードリーは尋ねた。
「ああ、まだある」とマルクスは言った。

「あなたがたに嘆願する。もしあなたがたがキリスト者であるなら、堅く立ってほしい、、、あなたの意見をきかせてほしい。そして兄弟の間で今事態がどのようになっているのかを手紙に書いてほしい。

何人かの者は十字架から逃げ、身を隠してしまったという報告も入ってきているが、その信ぴょう性についても知る必要があるだろう。

ヴィルヘルムはここにいたのだが、またどこかに発っていった。今彼がどこにいるのか分からない。あなたがたのことでヴィルヘルムも心を痛めていた。

この手紙の使信があなたがたの益とならんことを願う。信仰に固く立ち、誰をも恐れてはならない。そうすれば、全能の神があなたに力を与えてくださるであろう。

私の兄弟フェリクス・マンツならびにゲオルグ、特にフェリクス・マンツはいかに強いことであろう!コンラート・グレーベルは悲しんでいるが、キリストの内にいる。ヴィルヘルムはつい最近までここにいた。

あなたがたがかつて受けた御言葉と信仰によって勧告する。

もしあなたが今も忠実ならば、誠実な兄弟を一人私の元に遣わしてほしい。もし誰も来られないなら、手紙を送ってほしい。しかしいずれにしても必ずあなたがたの状況を知らせてほしい。

平安の口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。
神と神の恵みがあなたがたと共にあるように。

ヨハン・ブロトゥリーが手ずからこの手紙を書いている。キリストにあるあなたがたの兄弟より。
        フリードリー・シュマッヘルおよびゾリコンの兄弟たちへ。」


マルクスは手紙を義兄に手渡した。フリードリーの目も赤かった。

「僕たちが牢獄にいる時にこの手紙を読んでいるべきだった。」マルクスは言った。「そしたら、もしかしたら泣き寝入りしなかったかもしれない。」

「でもツヴィングリが説明した時は、何もかも理にかなっているように思えたんだがなあ。」フリードリーは反論した。

「たしかにそういう節はあった。」マルクスは認めた。「でも僕は良心の呵責にさいなまされ続けていたし、もっとよく知っているべきだったと思っている。」

「済んでしまったことは仕方がない。」フリードリーの頬は高揚して赤くほてっていた。「僕が心配しているのはこれからのことだ。」

二人の男は考えにふけりながら、無言のうちに座っていた。





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第12章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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