IMG_0047.jpg

〈保守性〉について考えたこと

クリスチャンや教会をカテゴライズする際、私たちはよく「リベラル」とか「保守」とかいう言葉を使います。

私は、聖書が神の霊感を受けた誤りのない言葉であることを信じています。また使徒信条に書いてあることも、イエスさまのなさった奇蹟も、ことごとく信じています。

そういう意味で、私は聖書信仰の「保守的」クリスチャンという範疇に入ると思います。

でも最近、私は信頼しているリーダーから、「形式主義にくれぐれも気をつけて。」と忠告を受け、改めて自分の信仰のあり方やものの考え方・見方を反省してみました。

(ところで、身近に自分の欠点や改善点を、愛をもって、しかも率直に言ってくださる霊的先輩がいることは大きな祝福です。)

また同じ時期に、私は、いわゆる宗教的に「保守的」といわれるイスラム教、およびキリスト教聖職者両方における、性的暴行スキャンダルのことを耳にしました。

特に、アメリカでも聖書信仰かつ保守的として有名な教団教派内で、少女わいせつや不品行がひそかに横行しているという記事を読んでショックを受けました。(記事

「えっ、リベラル派だけじゃなく、保守的な福音教会内でも、そのようなおぞましいことが起こっているの?」

そういった保守的な教会では、男性も女性も、慎み深い服装をし、世に妥協せず、敬虔に生きようとしているんだろうなあ、と憧れのまなざしでみていたのに、、、正直、かなり幻滅を感じてしまいました。

☆☆

たしかに慎み深い服装で身を包むことは、聖書的な教えです。

でも、もしある教会が、「姉妹たちは、一律、青色か茶色のロングスカートを着用しなければならない。」という規則を作ったとすると、聖書の掟の範囲を越えて、人間的な規則が加わることになります。

それ自体は害のないルールかもしれませんが、人間の弱さゆえ、私たちはいつしか、これを定規にして人の敬虔さを計るようになる危険性があるのです。

例えば、オレンジ色のちょっと派手目なロングスカートをはいている姉妹をみかけると、心の中で、「あの人は、世に染まった姉妹だ。」などと裁くようになるのです。

これが形式主義のはじまりであり、イエスさまの忌み嫌われたパリサイ主義の臭気が、その入り口からムンムンただようになるのです。

今、私は自戒を込め、祈りを込めて、これを書いています。

どうか主が、この弱きはしためを、パリサイ主義の落とし穴からも、世俗主義の落とし穴からも守ってくださいますように。

ただ、繰り返しになりますが、慎み深い服装やふるまい自体は、聖書のみことばに照らし合わせても、望ましいことであり、世俗主義の濁流に抗するためにも、私たちはこの点で勇気をもって声をあげるべきだと思います。

しかし、個人レベルであれ、教会レベルであれ、聖書に書いてあることを越えて、人々を一律、ある形式モードに押し込むことや、それでもって、人の霊性を判断したり、裁いたりすることは――リベラル派の妥協の悪にひけをとらない位――神さまを悲しませることになるのだということが分かりました。

☆☆

フランシス・シェーファーはこう言っています。

「私たちが、若い人たちに与えうる、最も不当な仕打ちは、彼らに『保守的になれ』と言うことだ。キリスト教というのは、保守的なものではなく、革命的なものなのだ。」

(Francis Schaeffer, The Church at the End of the Twentieth Century, second edition, Crossway, 1994, p.78)

革命的!――そうなのです。私たちは2000年以上前に書かれた古い書物に固着していながら(→その意味で、超保守的)、その時代、時代にあって、常に創造的かつユニークなやり方で、福音のいのちを伝えていく者なのです。

例えば、ジョン・ウェスレーは、18世紀のあの病んだ英国民衆に分かる言葉で、福音を伝えました。彼は彼の分を果たしたのです。

フランシス・シェーファーは、1960年代のヒッピー世代に分かる言葉で、福音の真理を証ししました。彼も自分の役割を立派に果たしました。

でも、私たちはウェスレー全集やシェーファー全集(やルター全集、スポルジョン全集等、、)をなでながら、懐古の情にひたっているようではいけないと思います。そういう意味での「保守主義」に陥ってはいけないと思います。

orange tree

私たちに課せられているフィールドは21世紀の世界です。

21世紀には21世紀特有の霊的病があり、福音に敵対する思想があり、その下で苦しむ人々がいます。その様は、あたかも燃える家屋のようです。

過去の信仰の先人たちがそうしたように、私たちも、同時代人を心からいとおしみ、同時代人に分かる言葉とメッセージでもって、福音の真理を証ししていく任務が課されていると思います。

そして場合によっては、自らがやけどをすることを覚悟して、燃える家屋の中に飛び込み、中で死にかかっている人を救出することも、敢行しなければならないかもしれません。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)

この永遠に変わらないイエスさまが、私たちにご自身の御霊を注いでくださったとは、なんと驚くべき神秘でしょうか。

生ける御霊の住まわれる宮として、私たちは常に新しくされ、思考においても保守・伝統主義に凝り固まることなく(かといって世俗主義に埋没することもなく)、真に創造的かつ自由な存在として、この世にメッセージを発していくことができるのだと思います。

IMG_0043.jpg
スポンサーサイト

反省と気づき――antinomianism

ご主人を励まし建て上げていますか?(聖書的女性像を求めて その2)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。