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かぶり物?祈りのベール??

何のこと?あなた、もしかしてカトリック?

いいえ、私はカトリックではありません。私は聖書信仰のクリスチャンです。

そして、今回、お証ししようと思っているのは、Ⅰコリント11章に書いてあるかぶり物(headcovering)についてです。

表題に、My headcovering journeyと書いたのには理由があります。

それは私にとってまさしく「旅路」と表現することのできるものです。

この旅は完成したわけでも、終わったわけでもありません。私は、自分の臆病さ、弱さによろめいたりしながらも、現在進行形で前に進んでいこうとしています。

これから書くのは、葛藤も恥も含めた、私の精神の歩みの記録です。

☆☆
ことの始まり

7、8年前にさかのぼりますが、私は新約聖書を通読していました。Ⅰコリント11章にさしかかり、

しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります、、、(11:5)。

の節を読んだ時、突然、「えっ?ちょっと待って。」と思いました。

〈私、祈る時、頭に何も着けていないけど、これって、どうなんだろう?〉

今まで何十回もこの箇所を読んだことがあったはずなのに、その疑問が湧いたのはその時がはじめてでした。

〈でも、私の尊敬する姉妹たちは誰もかぶり物とかベールなんて着けていない。おそらく、この節の背景には、私みたいな若者が知らないような深い事情があるんだろう。うん、きっとそうにちがいない。〉

それで、その後は特に考えず、次の12章に移っていきました。

でも、数カ月して、通読の箇所が再び1コリント11章に巡ってきた時、今度は、前回にも増してすっきりしないものを感じました。

普通に読めば、この箇所でパウロは、「姉妹たち。祈る時や預言をする時は、頭にかぶり物を着けなさい。」と言っているように確かに思えるのです。

でも、そうであるはずがないのです。

だって、こんなにたくさん聖書に通じた牧師先生やクリスチャンがいるのです。その人たちがかぶり物のことを教えていないのだから、やっぱり、そうであるはずがない、、、のです。

でも、パウロの言っていることはなぜかストレートに聞こえる、、、、

そう思うと、だんだん不安になってきました。それで、注解書の先生方は何と言っておられるか、それを読んでみようと思いました。

そうして注解書をひもといてみると、

「当時のコリントでは、売春婦だけがベールをかぶらずに外を行き来していた。パウロはコリントの姉妹たちがこういった売春婦たちに間違われることを懸念し、かぶり物を着けるように指導していた。」

というような説明がしてありました。

〈あっ、そうなんだ。じゃあ、これはコリントの姉妹たちだけに向けられた掟で、私はこの御言葉には従わなくていいってことなんだ。ああ、安心した。〉

そうして私の良心はとりあえずなだめられました。

☆☆

その後、ある時期、私は、どのような論法で人々が、聖書が×(バツ)と言っていることを○(マル)とあえて主張しているのか(例えば、ジェンダー問題)調べていました。

調べていくと、そこには共通したパターンがあることに気が付きました。そのパターンとは、

1)原典のギリシア語をいじる。(つまり再解釈する。)

2)「当時の文化は、、、」と言って、聖書の原理を「文化論」に切り替える手法でした。

実際、さらに調べていくと、「当時の文化は、、」という説明には、史実に乏しいフィクションがかったものが多くあることに気づきました。

〈えっ、じゃあ、Ⅰコリント11章のあの文化背景の説明はどうなんだろう?鵜呑みにしちゃったけど、あれは果たして信ぴょう性のあるものだったんだろうか?〉

一応、おさまっていた心の波が再び荒れ始めました。

探究はじまる

こうして再び私は1コリント11章をじっくり読み始めました。

しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(3節)

男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。(7節)、、、


〈ちょっと待って。やっぱりこれって、コリント文化うんぬんの問題じゃないよね。パウロは、創造の秩序のことを言っている。その最大の証拠に、10節では、

ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです

って書いてあるじゃない。それにこのセクションには一言だって『文化』という言葉が書かれていない。うーん、どうやらここも文化論で片づけることのできない箇所らしい。。。〉

また、「コリントの売春婦云々」説も、いったい何を源泉資料に主張されているのか、掘り下げてみました。

そして、19世紀の注解者アダム・クラーク氏が、最初にこの説を唱えはじめたということを突き止めました。(Adam Clarke’s Bible Commentary, http://www.godrules.net/library/clarke/clarke1cor11.htm.)。

でも、不思議なことにアダム・クラークはその説をどんな一次資料から導きだしたのか明らかにしていませんでした。

さらに探究していく中で分かったのは、神殿娼婦制度のあった古代のコリント市は、紀元前146年に破壊されていたということでした。(Shipley,G. The Greek World After Alexander 323-30BC. London:Rontledge, p.384-385)

ユリウス・カエサルがその後、100年後に、コリントをローマ帝国の都市として再建しましたが、Ⅰコリント人への手紙が書かれた時期は、すでに神殿娼婦制度が廃止されて200年余り経っていたのです。

また、アレクサンドリアのクレメンスやテルトゥリアヌスといった初代クリスチャンの著作を読みはじめると、さらにいろいろなことが分かってきました。

一番目に、かぶり物の慣習は、コリントに限定された地域的なものではなく、ヨーロッパ、北アフリカ、中東にまたがった初代教会全体で守られていたものだったということ。

二番目に、「コリントでは当時、売春婦が、、、」という説を唱えている人は初代クリスチャン著作家の中に誰もいないこと。

(興味のある方は、このエッセーの終わりに、かぶり物に関する初代クリスチャン著作の出典を挙げておきますので、直接、オンラインで読んでみてください。)

発見したのはそれだけではありませんでした。

クリスチャン女性は、1世紀からつい最近(1960年頃)まで、実に1900年以上に渡って、御言葉通りにかぶり物を着けていたのです。(ココをクリックすると歴代のクリスチャン女性の絵や写真をみることができます。)

しかしフェミニズム運動の勃興と共に、かぶり物の慣習も消えていきました。そしてⅠコリント11章はいわゆるpolitically incorrectな章として敬遠されるようになっていったのです。

葛藤のはじまり

でも、こういうことが明らかになっていけばいくほど、私の心は複雑になっていきました。

聖書の真理を探究することはいいことです。

でも、発見した真理を実際に生きなければ、その真理は頭だけの知識で終わってしまいます。そして頭だけの聖書知識は、人を高慢にし、偽善者にします。

〈え、、でも、私が、教会でかぶり物?そんなことできない、、、人の目がこわいし、恥ずかしい。〉

〈右を向いても、左を向いても、かぶり物を着けている姉妹なんていない。たった一人で始めるなんてそんな勇気、私にはない。神さま、どうかこれだけは勘弁してください。〉

でも、歴史小説「チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱」を翻訳しながら、私は主人公のボシャート青年の内的葛藤がわが事のように感じました。

彼は当時、バプテスマの問題で決断の岐路に立たされていました。

自分の信じることを公にすることは勇気がいります。16世紀のあの当時、信仰によるバプテスマを受けた人は、拷問や死刑を覚悟しなければなりませんでした。

それに比べれば、私の葛藤など小さなものです。火あぶりにされるわけでもありません。ただ祈る時に頭をスカーフか帽子でおおうだけの話です。

それなのに、情けない話ですが、私は人目が気になって仕方がありませんでした。

互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。ヨハネ5:44

決心

でもついに、ある時点で、私は神さまの前に一人で立ちました。

〈主よ。あなたは私が人一倍、臆病者だということをご存知です。正直、今この瞬間にも、私の肉は、いやだー、と叫んでいます。

私は、あなたの御言葉に従うよりも、自分の安全ゾーンで、ぬくぬくと生きていきたいと思う時が多々あることを告白します。

でも私はあなたの恵みにより、Ⅰコリント11章のすばらしい真理を垣間見ることが許されました。そして、この60年余り、この聖書的真理がないがしろにされている事実にも気がつきました。

ただ私にはそれを実行する勇気がありません。でも、このままだと私は偽善者になります。

主よ、あなたの御言葉に従い、今後、かぶり物を着けたいと願っています。どうか、私の意志が揺らぐことのないよう私を支えてください。〉

「人の目によく映りたい」という願望が十字架につけられる体験

礼拝の時や祈りの時に、かぶり物を着け始めてしばらく経った後、私はある姉妹から、「P宣教師の奥さんが、あなたがベールを着け始めたとか何とか言って陰口を叩いていたよ。」と聞き、私は縮みあがってしまいました。

〈ああ、やっぱり、今どき、かぶり物を着けるなんて変なのかな?私は頭がおかしくなったのだろうか。〉

また、ある晩、某国出身の牧師夫妻の家に招かれました。

帰る前に、皆で祈りましょうと牧師がおっしゃったので、私は誰にも見えないようにコソコソとバッグからベールを取り出し、皆が目をつぶった頃合いを見計らって、ひそかにベールを着けようと思っていました。

ところが、この牧師はめざとく私の手に握られていたベールを発見し、「はっ?ベール?!」とすっとんきょうな声を挙げました。

そして、「変な姉妹だね、この人は。」というような目つきで、隣りに座っていた奥さんと目配せを交わしました。

私の顔は恥ずかしさで火のように真っ赤になり、どっと涙がこみ上げてきました。

とてもこの道を一人で進んで行けそうにありませんでした。

かといって、他の場所で祈る時に人を恐れてかぶり物を着けないのは、証し人として一貫性に欠けており、自分の良心にかけてもそういった日和見的行為はできませんでした。

祈りのベールが私の人生にもたらした祝福

その後も4年以上、私は一人でかぶり物を着けて祈っていました。一人でしたが、でも、私は今までよりもずっと、祈りの中で主を近くに感じることができるようになりました。

ベールを着けて祈ると、神>キリスト>男>女(Ⅰコリ11:3)という天において定められた美しい創造の秩序の中に自分が置かれていることをもっとリアルに感じ、その認識は私の魂に深い落ち着きと安心感をもたらしました。

ベール自体は象徴にすぎません。ですが、それが従順を伴う信仰と結びついた時に、神さまは私たち姉妹の魂にすばらしい霊的祝福を与えてくださるのです。

例えばそれは、神さまに(そして夫に)愛され、守られているというしあわせ感です。

☆☆

2年前、主は一人の姉妹を他の大陸から数日アテネに遣わしてくださいました。

この姉妹は、御霊に満ち、輝いていました。もう20年以上もかぶり物を着けて祈っていると聞きました。また、この姉妹が夫を心から尊敬し、夫が姉妹を愛するその姿に深く感動しました。

またそれ以後、世界各地にいる、いろんな教団教派の姉妹たちに主は私を出会わせてくださいました。

かぶり物に関する彼女たちの証しをたくさん読みましたが、自分と同じような経緯をたどった人が多いことに驚きました。

人種、年齢、教派を超え、世界各地で同じ御言葉が、人々の心に働きかけ、現在、多くの姉妹が、同じような「旅路」を歩み始めていることを知り感動を覚えました。(次号では、その中の三人の姉妹の証しをご紹介します。)

日本にも、その「旅路」へと導かれている(あるいは導かれつつある)姉妹がいるかと思います。私はそういう姉妹の方々に言いたいです。「あなたは一人じゃない」と。

神さまはあなたと共におられます。そしてこの旅を共に歩む同志をも、時にかなって与えてくださいます。

ひるまず、くじけず、ご一緒にこの道を歩んでいきましょう。


付録1)
(↓マルティン・ルターの奥さん:Snood式のかぶり物を着けています。)
Katerica Luther Snood

(↓ジョン・ウェスレーのお母さんスザンナ:ボンネットのかぶり物)
SUSANNA.jpg

(↓モラヴィア教会の姉妹)
moravian woman

(↓アメリカ植民地時代のクリスチャン女性:ボンネットのかぶり物)
colonial american woman 2

(↓救世軍のキャサリン・ブース婦人:ボンネットのかぶり物)
Catharine Booth

(↓クウェーカ―の姉妹:ボンネット)
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(↓インドのクリスチャン姉妹:サリーによるかぶり物)
Indian Christian sisters

(↓東ヨーロッパのクリスチャン姉妹:ベール)
eastern europe

(↓1943年 ルター派教会の姉妹:帽子のかぶり物)
1943-Lutherans (1)

(↓1940年代 オランダ改革派教会の姉妹:帽子のかぶり物)
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(↓アフリカ系アメリカ人教会の姉妹)
african church

(↓メノナイト教会の姉妹たち)
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(↓ペンテコステ教会の姉妹たち)
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(↓サビナ・ウルムブランド、ルーマニア/ルター派:スカーフのかぶり物)
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(↓ロシア正教会の姉妹たち)
RUSSIAN ORTHODOX


付録2)かぶり物についてのクリスチャン・サイト

The Headcovering Directory(←教えや、証し、かぶり物オンラインショップなど、有益な情報もりだくさん。)
The Headcovering Movement(←改革派のクリスチャンが中心ですが、他の教派の方々もたくさんいます。このサイトの特徴は、20-30代の若い姉妹たちの参加が非常に多いという点にあるように思います。教え、証し、リンク集、ブログなどなど。)
祈りのためのかぶり物 1コリント11:1-16 (日本語で分かりやすく説明してあります。)
Let Her Be Veiled(←かぶり物に関する電子書籍です。無料で読めます!)
Headcovering book by K.P.Yohannan(宣教団体Gospel for Asiaの創始者ヨハナン氏による電子書籍です。この本も最近、無料で読めるようになりました!)
Is the Headcovering for Today?(←若いアメリカ人の兄弟がとっても分かりやすく説明してくださっています。)
Headcovering Customs in the Ancient World
Images of Head Covering During Worship
Woman Will You Cover Your Head?

付録3)かぶり物についての、初代クリスチャン著述家の文章
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①ヘルマス, Ante Nicene Fathers(=ANF), vol.2.p18.
②アレクサンドリアのクレメンス, ANF, vol.2. p264-266,290,578.
③テルトゥリアヌス ANF,vol.3.p95-96, 102,687-689, 286,445/ vol.4.p27-29, 33-35,37.
Apostolic Constitution ANF, vol.7, p395, Vol.3.p687-689.

headcovering and piano

付録4)文献案内
Warren Henderson, Glories Seen&Unseen, A Study of Head Covering, 2007
David Bercot, What the Early Christians Believed About the Head Covering (CD), Scroll Publishing Co.
David Phillips, Headcovering Throughout Christian History: The Church's Response to 1 Corinthians 11:2-16 (Covered Glory) [Kindle Edition]














ベールを着けるよう導かれた姉妹たちの証し(前回の記事のつづき)

どんな状況の中でも主を信頼しつづけて(難民留置所でのR兄の証し)