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前回の記事でお約束したように、私と同じような「旅路」を行く姉妹たちの証しをいくつかご紹介します。

プラット姉妹、パルナック姉妹、エープリル姉妹それぞれ快く翻訳の許可を与えてくださっただけでなく、あたたかい励ましの言葉をもいただきました。この場をかりて、感謝申し上げます。

クリスチャンのかぶり物についての私の証し(My Headcovering Testimony)(トッド・プラット婦人、米国在住)

イエスさまの御名によってごあいさつします。

どのようにしてかぶり物(headcovering)を着けるよう、主が私の心に働きかけてくださったのかをこれから皆さんにお分かち合いしようと思います。

私はかつてあまり霊的でない教会に通っていました。そんな中、教会の中のある女性が祈りのベール(かぶり物)を着け始めたのです。これだけたくさんの女性がいる教会の中で、彼女は勇敢にもたった一人でそれを始めたのです!

彼女は私の友人でした。私は最初、訳が分からず、〈彼女は日曜学校のスキットに出演していて、衣装のベールをぬぐのを忘れたのかなあ〉と思って、彼女に訊ねたところ、彼女は丁重に「いいえ、そうではないの。」と答えました。

それから何週間も経ちましたが、その間、私たちがそれを話題にすることはありませんでした。

でもついにある日、私は彼女をコーヒーに誘い、かぶり物について直接訊いてみたのです。そして一緒に聖書を開いていろいろ話し合いました。

そして彼女はどういう経過でかぶり物をつけるようになったか証ししてくれました。こうして私の心に神さまは種を植えてくださったのです!

その後、私はかぶり物をつけるべきだと確信するようになりました。でもそれを実行するまでにはそれからもう何か月かかりました。

最初は日曜日に、教会に行く時に、小さなかぶり物(髪のおだんご部分を覆うベール)をつけるだけでした。

しかしまもなく、私はスカーフ状の(髪全体を覆うタイプの)ベールに切り替えました。(これで、教会の中でかぶり物をつけているのは二人になったのです!)

やがて主はさらに私の心に働きかけてくださり、私はかぶり物をフルタイムでつけるようになりました。

これがどれだけ私の人生と結婚生活に変化をもたらしたか表現できないほどです!

従順な妻であることを思い出させる、この外面的なベールを着用するようになってから、私自身のものの感じ方、主人の振る舞い、周りにいる人々の行動等、いろんな変化が起こりました。

本当にすばらしい変化が起こったのです!主人は以前よりも私のことをいとおしんでくれるようになり、私は私で「もっと主人に従いたい」と願うようになりました。

でも周囲の反応すべてが肯定的だったかというとそうではありませんでした。

嘲られたり、ジロジロ見られたりしました。悲しみのほとんどは、自分と同年代の女性からの反応によるものでした。神さまの立てられた秩序に従っている私を見て、彼女たちは心に咎めのようなものを感じたのでしょうか。

その一方で、青年や年配の男性はもっと私に丁重でした。また年配の女性はベールをかぶっている私に親近感を持って近づいてきてくださり、会話をはじめたりしました。そしてそれがイエスさまのことを証しするすばらしいきっかけとなったのです。

ベールを着けていて、私はとても幸せです。主の御言葉を読み、それを実行する時、主イエス・キリストを知る知識と知恵において成長できるということを知りました。

ベールを着ける決心をしたことは、従順という面で、私にとって大きなステップでした。そしてそれを実行することができて本当によかったと思っています。

私のこの証しがみなさんにとって祝福となり、励ましとなりますようお祈りします。

(出典 http://www.christiancoverings.com/article_2/My-Headcovering-Testimony-by-Mrs.-Todd-Pratt.html)

head covering woman history

祈りのベールについての私の証し
(A.Parunak, The View from the Veil: My Journey into Full-Time Headcovering,Sep,2008)


「そう、それでね、、」 ホテルのベッドの端に腰かけていた私は、友に話し始めました。

「私、一大決心したの。実はね、私、フルタイムで頭にベールを着けることにしたんだ。」

私のことを知っている方は気づいていらっしゃると思いますが、私は頭にかぶり物(headcovering)を着けています。このことをいつかお話したいって思っていたんですが、どういう風に切り出せばいいのか分からずにいました。

クリスチャンは往々にして、こういったささいな違いをリトマス試験のようにして、誰が「聖いクラブ」にいて、誰がいないかといったような判断をしがちです。

もちろん、ベールを着けている他の姉妹のことを聞くと本当にうれしくなりますが、ここではっきりしておきたいことがあります。それは、かぶり物(祈りのベール)に関するあなたの立場がどのようなものであろうと、私は、キリストにある姉妹としてあなたを愛し、尊敬しているということです。

マタイ23:23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません

私のベールは、いわゆる、はっかの十分の一のようなものだといえます。

そしてこれが「はるかに重要なもの」の一つではないことも十分承知しています。朝、頭にかぶり物を着けることは、わが子に対してイライラせず接してあげることに比べれば、百万倍も容易なことです。

それにクリスチャン生活において、頭にベールを着けること以上に大切なことはたくさんあります。

もしあなたが、「いつも喜んでいること」、「イライラを克服すること」、「時間を有益に使うこと」等の秘訣をすでにご存じなら、あなたは聖潔の道において、私などよりずっと先を進んでいらっしゃると思います!

では、どうしてあえてこのトピックについて書こうとしているのでしょうか。もしくはそもそも、どうして頭にかぶり物を着けようなどと私は決心したのでしょうか。

なぜなら、「これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけない」からです。

神さまは今もなお、ご自身の民に「はっかの十分の一」を納めるよう言っており、聖書に対し正直に接するなら、やはり「かぶり物を着ける」という結論に導かれずにはいられないからです。

でもこれは今日、風変わりな慣習となっています。もちろん、近年、再び、かぶり物を着ける姉妹たちが増えてきているように見受けられますが、それでもやはり、依然として少数派です。

それゆえに、――これ自体は小さなトピックかもしれませんが――、ここに至るまでの私のストーリーおよび私のとっている立場について、お分かち合いしたいと思っています。

この証しを通して、私と同じような道をたどっている姉妹たちを励ますことができるなら、またそうではない姉妹の方々が、かぶり物を着けている姉妹たちのことをもっと理解くださるなら、とても幸いです。

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かぶり物についての私の「旅路」は、ミシガン州グランド・ラピッツにいる私の伯父夫婦の15人乗りバンの中で始まりました。

私の後ろの座席には、(後に私の夫となる)青年が座っていました。彼は当時16歳でした。私たちは前の晩、知り合ったばかりでした。

日曜の朝、バンで伯父さんたちの教会に向かう途中、伯母さんは後ろを振り向いて、祈りのベールの詰まった入れ物を手にこう言いました。「うちの教会の女性たちは、この小さなベールを着けているの、、、」


かぶり物(ベール)を着けるというクリスチャンの慣習は、Ⅰコリント11:3-16から来ています。

しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります、、、かぶり物を着けなさい(Ⅰコリント11:5a、6b)。

教会に到着した時、私はレースのスカーフを頭に着けました。そして車の窓を鏡にして自分自身を覗き込んでみました。

とっても不思議な気持ちでした。

なんというか、守られている安心感みたいなものを感じました。特別な気持ちでした。

そして出会ったばかりのあの青年は、これは聖書的な教えだと強く言っていました。うーん、じゃあ、私は今までどうしてこのことを学んでこなかったのかしら?


かぶり物に関する反論の中で一番多く聞くのが、「ここで言っているかぶり物というのは、実際には、長い髪のことを言っているのであって、ベールとか帽子のことを言っているのではない。」というものです。

(もしこの聖句に関する非常に学術的な説明文をお読みになりたい方は articleをクリックしてください。この論文の中で義父はどうしてこの反論が誤っているかということを説明しています。)

私が個人的に、前述の解釈(かぶり物=長い髪という説)を受け入れられない理由は、この読み方をすると、6節が全く意味をなさなくなってしまうからです。

「長い髪」ロジックに従うなら、あなたの髪が長ければ、頭は「おおわれている」ことになり、あなたの髪が短ければ、頭は「おおわれていない」ことになります。

6節では、かぶり物を着けないことについて言及がなされています。もし「かぶり物を着けない」のところが、「短い髪」と置き換えられるのだとしたら、ここの聖句はこうなります。「女が短い髪なら、髪も(also)切ってしまいなさい(短い髪にしなさい)。」 

もしすでにあなたの髪が短いなら、どうして(alsoという言葉を使い)、短い髪にしなさいなどということができましょう?

ここが、「長い髪」と「かぶり物(ベール)」という二つの物について言っていると理解してはじめて、この聖句はつじつまが合うように私には思われます。

この若いパルナック氏と私は一週間もしないうちに恋に落ちました。

私は休暇後、実家のあるオレゴン州に戻りましたが、求婚者である彼と私は手紙や電話でのやりとりを続けました。

自分にとっては斬新なアイディアであったかぶり物のことについても私は葛藤していて、彼ともよくそれについて話し合いました。


もう一つ、ひんぱんに出される反論として、「かぶり物は、コリントでの単なる文化的問題にすぎなかった。」というものです。

この線に沿ったありとあらゆる説明を私は耳にしてきました。

その中でも一番奇抜だったのは、次のような解釈でした。

「コリントの女性は実際、教会内で服をもろとも脱ぎ捨てていた。彼女たちの『脱ぎっぷり』はまずベールを脱ぎ捨てることから始まっていた。だから、パウロがここで言っている真意は、彼女たちに『ストリップはやめなさい』ということなのだ。」

私はこういう見方にも納得することができませんでした。

Ⅰコリント人への手紙は、コリントにある教会に宛てて書かれたものですが、同時に、「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々(Ⅰコリント1:2)」に対しても書かれています。

ですから、この教えは全ての人のためのものであり、そこに書かれてある掟は、地元の都市や文化うんぬんにかかわらず、全ての信者に適用されるものです。

でも私にとって、「コリントの文化」を持ち出したロジックを受け入れることができない最大の理由は、

「市場にいる人たちがあなたのことを売春婦だと思うといけないから、かぶり物を着けなさい。」とか「かぶり物を着けなさい。そうしたら、あなたの兄弟姉妹はあなたのことを誤解しないだろうから。」

――そんなこと、聖書は全く言っていないからです。

聖書には「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです(Ⅰコリント11:10)」と書かれてあります。

ここで取り扱われている文化というのはコリント文化ではないのです。そうです、これは御使いの文化のことを言っているのです。

私は御使いの文化がどんなものか知りません。ですから、主の御使いたちが見るために、主が私に何かをするように求められるのなら、いろいろと問いただすことをせず、単純にそれを実践すべきだと私は思います。

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手芸店で購入した円形のレースでアレンジし、細かい縁取りの入った帽子。

決心はしたものの、私の心臓はドックンドックン高鳴っていました。周りの人はどう思うだろう?かぶり物を着けて母教会に行ったら、みんな何と言うだろう?

周りの人と違っているというのは容易なことじゃない。

でも私には選択の余地がありませんでした。このことを信じ始めていたからです。

でも教会に行ってみると、自分の予想に反して、人々は何も言いませんでした。


かぶり物はとにかく「奇妙すぎる」と言う人もいます。クリスチャンの姉妹が変てこな布を頭に着けなければならないと聞いたら、世の女性たちはクリスチャンになりたがらなくなるんじゃないかと。

この主張はⅠコリント9:22「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」という聖句に基づいてなされています。

これは自分たちで考え出した何かについての事なら考慮してさしつかえないと思います。例えば、鼻の先にまがい物のサイの角をつけたりしないとか、そういう理由ならきわめて妥当など思います。

でも神さまが私たちにお与えになっている掟を捨て去る言い訳にするのなら、それは良い理由とはいえません。

クリスチャンは「奇妙に」見えるような多くのことを実践するように召されています。

例えば、結婚までは性行為をしない、飲酒をしない、自分たちを憎む人たちを愛すことなどです。

「私は売春婦の人たちに福音を伝えようとしている。だからそういった売春婦の人たちに違和感を覚えさせないために、私は売春を支援する必要がある。」とか、

「ゴシップ好きな、お茶仲間の女性たちに福音を伝えたい。彼女たちに、『あなたはクリスチャンになれるし、しかも今まで通り普通に生きていける』ということを分かってもらうために、私もゴシップを始める必要がある。」などという論理が通るでしょうか。

そんなことをあえて真剣に言う人がいるでしょうか。

何かを実践するように神さまが私たちにおっしゃっているのなら、たとえ奇妙な感じに見えても、私たちはそれを行なわなければならないのです。

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こうして次第に、私は「いつも帽子をかぶっている女の子」として知られるようになっていきました。

私は教会や大学でのキリスト者の集まりの時にかぶり物を着け、またデボーションの時を持つたびに着けました。

でも段々と、私はあることに気づきはじめたのです。デボーションの時を終えても、「はい、これで神さまとのデボーションの時は終わり!」といった風に割り切ることのできない自分がいました。

主とのこの親しい交わりの時をひきつづき持ちたい、祈りを通して主とずっとつながっていたい、そう願う自分がいたのです。

いちいちかぶり物を取ったり着けたりすることなしに、いつでも祈りたい時に主にお話することができたら――私の中でそういう思いが芽生えてきました。


デボーションの時が終わり、大学の教科書を取り出す時にも、かぶり物をそのまま着けていたいと願うようになりました。

そうこうするうちに、気がつくと、寮の部屋にいる間中、私はベールを着けているようになりました。

大学卒業後、私はパルナック兄と結婚しました。家に一人でいる時はかぶり物を着けていましたが、主人が帰ってくる音を聞くや、それをバサッと取り去りました。

というのも、主人は、教会にいない時や、共に祈っていない時には、私にかぶり物を脱いでほしいと思っていることを感じていたからです。


一方、Ⅰコリント11章の「男は祈る時、頭にかぶり物をつけてはならない。」という部分に関しては、どれだけ多くの男性が現在でも真剣にこの教えを守っているでしょうか!

祈る時、兄弟たちは、たとえ嵐のような雨の中であろうとも、ギラギラ太陽の照りつける炎天下であっても、帽子をぬいで祈りますし、説教者の男性が、帽子をかぶったまま会衆の前で祈ることなど、彼らは絶対に許しません。

でもそうしている当の男性たちが、こと自分の妻のことになると、妻がかぶり物を着けずに祈っていることなどちっとも気にしていないのです。

「Ⅰコリント11章は髪のことを言っているんだ。」とそういった兄弟の方々は言うのかもしれません。

でも不思議でならないのは、もしそれが本当ならなぜ、彼らは今も祈る時に帽子を取らなければならないと感じているのでしょうか。

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また話を戻します。私たち夫婦はある時、教会から家に戻る車中にありました。

私は主人に正直にこう話しました。

「お友だちにね、『私、いつもベールを着けていたいなってすごく思うの。でも主人がそれを嫌うって分かっているから、やらないの』って話したの。」

すると主人はこう言いました。「いつもかぶり物を着けるっていう考えを誰に吹き込まれたの?」 

その晩、私たちはもう一度、一緒にⅠコリント11章を読みました。女性が祈る時にはかぶり物を着けるべきであると言っているように確かに私たちには思われました。

それに加え、私たちは「絶えず祈る(Ⅰテサ5:17)」ことが求められています。

私たち夫婦はこれらの御言葉に励まされ、主人は私がフルタイムでかぶり物を着けることを許してくれたのです。私はとってもうれしくなりました。


現在、私は長いスカーフタイプのベールを着けています。そしてそのベールを愛用しています。他の人と違っていることで、今でも時々しんどい思いをすることはあります。

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それに、、、ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、世の中の人よりも、クリスチャンの間にいる時の方がずっと精神的に大変なのです。

一方で、通りがかりの人は、目に見えるほどに私にやさしく接してくれます。私が公の場でもっと「フツー」に見られようとしていた時にはほとんどみることのできなかったような、やさしさと敬意を多くの人々から感じるようになりました。

またそれは公の場における私の証しの機会を増やすことにもなりました。なぜなら、人々はみているからです。

私と同じような理解の仕方でⅠコリント11章を信じている姉妹にとって、フルタイムでのベールは、「ぜいたくなやすらぎ」といえましょう。

なぜなら、自分の手が生肉やらパン生地やら、庭の土やらで汚れていることを心配することなく、もしくは、洗濯や赤ちゃんの世話で、祈りたい瞬間にベールを着けることのできない状況を憂うことなく、一日中いつでも祈りたい時に祈ることができるからです。

これが私の証しです。ありがとうございました。

(出典http://pursuingtitus2.com/2008/09/06/the-view-from-the-veil-my-journey-into-full-time-headcovering/)

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エープリル・カスィディ姉妹の証し(米国在住)
(April Cassidy, A long lost secret of God to strengthen our prayer lives and marriages


2010年3月16日―その日、神さまと私はがっぷり四つで対話をしていました。

その頃、私は第一コリント人への手紙を通読していたのですが、その日は11章でした。

そしてはたと止まりました。今まで何度も読んだことのあった章なのに、あたかも初めて読んでいるかのように感じたのです。

それまで私はいつもこの章の最初の16節はすすっーと読み飛ばして、それについて少しも良心の呵責を感じていませんでした。

でも今回、なぜだか私はそれを無視することが全くできなかったのです。神さまが私の目をそこに向けさせたのです。

神さまに押され、私はここの聖句に取り掛かり始めました。これに解決をつけない限りは神さまは私をこの先一歩も進ませてくれない、そんな感じでした。

1コリント11章に取り組む前、私は主人を敬うことについて、そしていかに神さまが夫を私の権威としてお立てになったのかということについて学んでいました。

そしてその学びを通して、神さまが「霊的権威」について語っておられる時にはいつでも注意を向けなければならないことに気づいていました。霊的権威というのは、とてもとても大切なテーマです。

Ⅰコリント11章には、結婚について、そして神のデザインされたものついての深奥な真理が語られています。

みなさん、どうかこの箇所を敬虔な思いを持って、そして御霊に満ちた斬新な目でもって読んでみてください。

そして祈りつつ、神さまがあなたの心に語ろうとしておられることは何でも受け入れますといった、開かれしスピリットを持って読んでみてください。

Ⅰコリント11章1-16節

しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

女がかぶり物を着けないなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、

また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。

女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。

あなたがたは自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、

女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。

たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。 
 

でも、この箇所は現在もう適用されない、、、そうですよね?

これはこれで置いといて、次の17節から始まる主の晩餐の話題に移っちゃいけませんか?

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私は神さまと格闘しました。

なんだかんだ理屈をつけて主を納得させようとしました。

「ほら、イエスさま、見てください。私、長く髪を伸ばしているじゃないですか。長い髪―これが私の女性としての光栄ですよね。それで十分じゃないですか?」 

そしてなんとか理由を見つけて、神さまが私に求めておられるらしいことから逃れようとあがいていました。

私はこれまで多くの牧師が、かぶり物というのは「文化的なこと」であり、現在、もはや適用されないと言っているのを聞いてきました。

でも私はそういう理由付けに納得できませんでした。

というのも、パウロはここで霊的権威そして神>キリスト>男>女という「かしら観headship」について、創造における男女の秩序について言及しているからです。

また、パウロは女性がかぶり物を着けなければならない理由として御使い、ならびに夫の霊的権威が彼女の上にあるというしるしのことを挙げています。

こういった理由は、どう考えても「文化的」だとは私には思えませんでした。

またこのテーマを学んでいく中で、教会の女性は1900年以上に渡り、祈りや預言をする時、かぶり物を着けていたことにも気づきました。

さらに多くのクリスチャン女性は、常時(つまりフルタイムで)、かぶり物を着けていました――それにより、家の「かしら」である夫にまっとうな敬意を払いつつ、いつでも「適切に祈る」ことができたからです。

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しかし1960年代になりフェミニズム運動の高揚にともない、女性たちは祈る時や教会に行く時、もはやかぶり物を着けなくなっていったのです。

かぶり物の象徴がもはや私たちにとって「文化的に今日的意味を帯びていない」理由は、私たちが、神より与えられし夫の権威を捨て去ってしまったことにあるのです。

私たちは権威に関する神のシステムを捨て去ってしまったため、もはや夫の権威の象徴などをもはや「必要」としなくなったのです。そうです、もう神のやり方は御免だと私たちは結論づけたのです。

こうして神のやり方は現代女性にとって「抑圧的」「性差別的」「家父長的」「旧式」「不適切」だとみなされるようになりました。

(でもことわっておきますが、男性が全権を持ち、妻たちを支配していた時分、男性たちによって虐待されひどい扱われ方をしてきた女性たちがいた(いる)ことを私は全くもって認めます。

それは女性に対するむごい不正義であり、そういった夫たちは権威を乱用したことに関し、義にして聖い神の前に申し開きをしなければならないと思います。

虐待や暴虐は神が私たちに望んでおられることではありません。エペソ5:22-33では、結婚に関する神の美しいご計画が言及されています。)

ですから、1960年代、私たちの文化は――教会内でさえも――夫や教師、牧師、政府のリーダーといった人々に対する敬意、そして親に対する敬意を投げやってしまったのです。

60年代、70年代のフェミニズム運動、ヒッピー、反戦運動により、私たちは「権威からの自由」を得ました。でもその権威というのは、私たちを保護し、益を与え、供給し、主の方法でもって私たちを導くべく、神が私たちの上に置かれたものだったのです。

Feminist demonstration

そういう物が取り去られた後、残るは全て、「私」に関することのみ、となりました。私がほしいもの。私が一番いいと思うもの。誰が金輪際、権威のことなんか考えるものですか!私たちがほしいのは「自由」と「独立」なの!

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義憤

そのうち私は内に義憤を覚えました。

私たちの世代がどれほど女性としてのアイデンティティをはく奪されてしまったか、どれだけのものを私たちは失ってしまったのかー神の知恵、結婚に関する神のご計画、女性らしさ、育児、、、こういったものはことごとく私たちの世代には無縁のものです。

私たちの前の世代がボールを落としてしまったのです。そして私たちは今その代価を払っており、しかもその代価というのは天文学的に高いものです。今日、結婚の実態をみてくださいーそして私たちの教会の実態を。

(私自身の結婚も、非常に高い代価を払いました。

それは、私がかつて神より与えられし権威につばを吐きかけ、

「私は夫よりもよく知っている!私は神よりよく知っている!私がここの責任者なの!神よ、あなたにきく必要なんてない!私はわが道を行くんだから!」

と世的で不敬虔な態度を受け入れてしまっていたことに原因がありました。)


私の従順はどれほど深いものか?

今や私は神の御言葉を受け入れ、神に従おうと考えるようになっていました。

なんといっても、神は私の主なのですから!天が地よりも高いように、主の知恵は私の知恵よりすぐれているのです。主であり王である、私の愛の対象である神さまに「No!」などと言えるでしょうか。

それで、今、このトピックに関する私の歩みについてみなさんにお分かち合いしているのです。なぜなら、この証しによって神さまに栄光を帰すことができると思うからです。

私は人からの称賛を求めていません。もし人からの称賛がほしいのだったら、このトピックについてなどぜったい書かなかったでしょう。

私はかぶり物についての議論を、賛成側/反対側、両サイドから検証してきましたが、これは多くの女性にとって、かなり物議をかもしだしている問題だということに気づきました。

でも私にとって問題は結局のところ、「主が私に何かをするように求められた時、私はそれに従うのだろうか、それともあえて自分の思う通りにやっていこうとするのか?」というところにありました。

結婚しても自分の思うがままに振る舞っていた頃、夫を尊敬することなんてちっとも理解せず、結婚の舵とりを自分がしていた頃――私は自分たちの結婚生活をめちゃくちゃにしていました!

その結果、自分があれだけ求めていた親密感は得られず、私はさみしく、ストレスだらけの女性でした。

私は心配ばかりし、批判的で、マイナス思考で、ゆううつ、かつイライラした女性でした。いろんな面で、私は敬虔な女性とはいえない存在でした。

私の人生、態度、言葉や行ないは神に栄光を帰すものではありませんでした。

主人はというと、彼は無気力で消極的な人でした。私たちの結婚生活は、キリストと教会の奥義を表すものからは程遠いものでした。

だからⅠコリント11章で、権威の秩序のことを読んだ時、私は苛立ちませんでした。

いやむしろ、自分の人生に、神さまの立てた権威の秩序を喜んで受け入れたいと思ったほどでした。というのも、これまでの過程で、主のやり方に従う時、自分の心に深い平安が訪れることをすでに発見していたからです。

私をカバーし、養い、権威となり、守る者として神さまが主人をお立てになったことを受け入れました。

すでに一年前に、敬意を示すことや聖書的服従(submission)について学んでいたので、このこと自体は難しいことではありませんでした。

でも私にとってしんどかったのは、祈る時に、頭の上に何かをのせるよう、神さまが私に求めていらっしゃるということでした。

そんなのイヤ、したくないって思いました。だってそれって変じゃないですか。周りにいる人だって誰もそんな事してないし。

(そういえば、うちの教会には2、3人、帽子をかぶって礼拝に参加する姉妹たちがいましたが、それでも2000人以上の教会の中にあってはほんの一握りの人でした。)

とにかく、人に変って思われたくありませんでした。それに不便だし。

今の世じゃ、文化を逆行するようなものです。エー、いやだー。「神さま、本当にしなくちゃならないんですか?そんなことし始めたら、大恥かくことになります!」

恥ずかしい、、、

でもその時、私の発言が、神さまの耳に、どんなに浅はかに聞こえているだろうということに気づきました。

キリストは私に代わって、非常に屈辱的でむごたらしい死を死んでくださったのです。

私が帽子やベールなどを頭につけて祈ることで、キリストに栄光を帰すことができ、主人に敬意を示すことができるのなら、そしてそれが御使いや主のためなのなら、

――それなら、「そんな犠牲なんてあなたのために払いませんよ。あなたは、私にとってそこまで価値ある方ではないんです。あなたが望んでおられることを進んでするほどの信仰は私にはありません。そう、たとえそれが自分の頭に帽子やベールを着けるといったシンプルなことであっても、です。」

などと神さまに言う私って何様なんでしょう?
あぁー!

決心

それで神さまが私にこれを実践するよう求めておられるなら、私は主に従おうって決心しました。私はその事に関して祈り、主人の同意を得ることができますように、と祈りました。

そして主人に打ち明けたのです。

あのー、、、ベールで頭をおおってもいい?家で祈る時、それから教会で祈る時、私の上に立てられたあなたの(夫としての)権威に敬意を示すために、、

それを聞いた夫は答えました。「うん、いいよ。」

えっ???何?ほんとに?

こんなにあっさり同意してくれた夫の反応に私はびっくり仰天してしまいました。

私は、ここに神さまが働いておられることをみました。

「分かりました、神さま。あなたに従います。他の誰も、そんなことしてなくても、とにかく私は従います。」

親愛なる奥さん、神さまに愛されている姉妹のみなさん。私はここでみなさんに、「あなたもかぶり物を着けなさい」と言っているのでしょうか。

いいえ、これは私とあなたとの間のことではないのです。

これはあくまであなたと神さまとの関係にかかわることなのです。

あなたにどうしなさい、こうしなさいという資格は私にはありません。

ただ神さまがあなたの目を開いてくださいますようお祈りします。

私たち女性が失ってしまった霊的慣習について、あなたの目が開かれますように。

そして神さまの御言葉にさらされ、主に従うことのすばらしい益について、あなたの目が開かれますように。

決断はあなた自身にかかっています!

あなたは私に申し開きをするわけじゃないのです。私たちは皆、神さまに申し開きをするのです。

もしここの聖句が、1世紀のクリスチャンのためだけに書かれたものであり、私たちのためではなかったとしたら、どうなるんですか?

では、祈る時にかぶり物を着けるのが、どういうわけか「間違い」だったと仮定しましょう。

そしてある日、私は召され、天で主に会い、主は私にこんなことをおっしゃったとします。

「ああ、あのⅠコリント11章の聖句ね?あれはね、わたしがうっかり間違って、聖書に入れてしまっていたものなんだよ。あれは間違いだった。かぶり物を着けなさいという意図はわたしにはなかったんだよ」と。

そう、それで私は何を失いますか?

唯一、失ったものとして追憶できるのは、おそらく、祈っていた私の外観が他の人とは違っていて、ちょっぴり変に見えていた――それくらいだと思います。

でもそれって大きな損害ではありません!それほど大きな損害ではないのです。

それに仮に、この聖句が2013年においては文化的に意味をなさないものだと主が考えておられたとしても、聖書の言っていることに従順に従おうとした私の姿勢によって、主に栄光が帰されないでしょうか。

そして神より与えられし主人の権威を私が認め、それに敬意を示していることで、主人に光栄が帰されないでしょうか。

神さまは私の従順そして主に従いたいと願う心を理解し、いとおしんでくださると思います。

私の側からのそういった従順な態度、それがかぶり物そのもの以上に、神さまにとって意味があるのだと思います。

一方、Ⅰコリント11章を含めた神の御言葉が、現代を生きる私に実際、適用されるのだとしたら、いったいどうなるのでしょうか。

もし神が実際に、聖書の中にこの聖句を入れてくださったのだとしたら?

もし主がご自身の主権のうちに、ある明確な意図をもって、この聖句を入れてくださったのだとしたら?――そして私がそういう主のおっしゃることにあえて従わないのだとしたら?

もしくは、「えっ、だって、今じゃ、誰もかぶり物なんか着けてませんよ。だからこの掟には従わなくたっていいに決まっている。」と言い訳をしながら、神の掟をないがしろにするのだとしたら?

こんなに小さいことを実践することを拒む自分は、どうやって主に申し開きをすることができるのでしょうか。

どうやって自分を弁護することができるのでしょう。

王の王、主の主にどんな言い訳ができるというのでしょう。

私はどんなにしても言い訳を打ち立てることができませんでした。

なぜ主が私にそれを求めておられるのか、その意味が分からないとしても、主に対する私の従順を神は祝福してくださると思います。

たとえ、それが不人気なことであっても。たとえ、ひとりぼっちでそれに従うことになったとしても。

garland of grace

かぶり物(ベール)を着けて祈ることによって受けているたくさんの祝福

私は一人で祈る時、また教会で祈る時、かぶり物を着けていますが、こうやって神さまに従ったことで、思いもかけない祝福がたくさん与えられたのです。

主人の権威に対してふさわしい態度をとることが前よりもずっと容易になりました。自分の頭に彼の権威のしるしがあることを自覚しているからです。

また、祈ることに対して、主人に対して、また神さまに対して、どのような態度でのぞんだらいいのか、そういうことが以前より分かるようになりました。

• かぶり物を着て祈る中で、神さまが、私を守り導くために主人を私の上に置いてくださったことを知り、主人に対して、以前よりも、もっと謙遜になり、感謝するようになりました

• 祈る中で以前よりもっと主人を尊敬するようになりました。

そしてそうやって尊敬の念をもって神さまに近づく時、その時に、力強く奇跡的な方法で祈りが答えられるのを体験しています。それは不遜な態度で神さまや主人に接し、祈っていた時には決して見ることのできなかったものでした。

• かぶり物は、効果ある力強い祈りの生活の大きな鍵だと思います!

頭の上の小さな布切れにマジカルパワーがあるとか、「かぶり物を着けないのなら神さまは私の祈りを聞いてくださらない」とか、そういうことではありません。

でも、かぶり物は、祈る上での私の態度、心の姿勢に確実に影響を与えています。

また、私を高ぶりから守ってくれてもいます。神さまにとって一番大切なのは、祈る時の私の心の態度であり、主人に対する態度なのです。

外面的な象徴は、主として私自身の益のためであり、また主人の益でもあり、御使いのためでもあるのです。

• ベールや帽子をかぶって家で一人で祈る時、私は以前よりもずっと霊的に主人とつながっていること、そして主人と近いことを感じるようになりました

かぶり物という象徴は、主人の権威や私に対する守りを思い出させるものですが、それによって、主人の愛の中で、そして神さまの愛の中で、(前よりもずっと)「守られている」という安心感を得るようになりました。

そしてその愛の中に安心して憩うことができるようになりました。

• 祈る前にかぶり物を着けるという行為によって、日々、私は自分の上に立てられた主人の権威の大切さを認識するようになり、それによって夫婦関係をふさわしい形でみることができるようになりました。

そして主人にもっと敬意を払うことができるようになりました。

• 私が夫の権威を認めるしるしである、かぶり物を着けはじめたことで、主人は、わが家の霊的リーダーとしての自信を回復し、「自分は神さまの方法で、妻や子どもたちを導くという深遠な責任があるんだ」ということを自覚するようになったそうです。

男の人は視覚に強い存在です。神の前に、私がこのような形で夫を敬おうとしているという事を夫が「見る」時、それは力強く、彼の魂に語りかけるのです。

こういった神さまの深い奥義は、あまりにもすばらしく私の理解を越えています。

上に挙げた祝福の他にも、パウロ自身、次のようなことを挙げています。

• 主人のリーダーシップおよび権威を認めていることを示すべく、かぶり物を着けるという私の行為は、天にいる御使いたちにインパクトを与えているというのです(Ⅰコリント11:10)。

• 私がみずから進んでかぶり物を着けることは、かしらと霊的権威という神さまの秩序に対して敬意を示すことであり、それは主にとって大切なことです。

ASIAN HEADCOVERING

かぶり物は私の光栄である私の髪(15節)をおおうものです。

それゆえ、「私」の光栄は、祈りの間、見えなくされているのです。一方、主人はキリストの栄光の現われであるため、主人の頭はおおわれていません。女性は男性の栄光の現われです(7節)。

男性の栄光は祈りの間、おおわれていなければなりません。主の御目的に仕え、主に栄光を帰すべく、このような形での礼拝や祈りを神さまは望んでおられるのです。

かぶり物を着けるという私の行為は、男性がまず造られ、その後、(男性が女性のためではなく)女性が男性のために造られた(9節)という創造の秩序に関係するものです。

それは神と人間の関係を髣髴させるものです。

神ははじめからおられ、(神が人のためではなく)人が神のために造られました。そこには神さまの深い奥義があって、謙遜に告白しますが、それは私の理解を越えています。

私にはこういった一片の布きれが、正確にどういう重要性をもっているのか、それも分かりません。

ただ分かるのは、主人の権威のしるしを頭に着けようという私の意思によって、霊的および天的な領域で起こっている事に、何らかの影響が及んでいるということです。

ですから、たとえ全部の意味は分からなくても、神さまのくださった処方に従うのが賢明だと思います。

患者さんは、たとえ処方箋が自分の体内で薬学的に生化学的にどのように働いているのか全く知らなくても、お医者さんの指示に素直に従うことで、薬が効き、いやされるのです。

私たちがお薬を飲むなら、自分の理解とは関係なく、処方箋はちゃんと効を為すのです。

神さまの掟もそんな感じだと思います。主より恩恵を受け、また神さまに栄誉を帰すために、私たちに求められているのは理解ではなく、あくまで従順なのです。

これって律法主義的?

祈り、聖書朗読、教会に行くこと、夫を敬うこと、人を愛すること、十一献金をすること、慎み深く身をつつむこと、、、神さまに対するどんな従順の行為であっても、それを律法主義的なレベルにおとしめることは可能です。

鍵は、私の動機にあります

もしキリストに栄光を帰し、キリストを喜ばせたいというのが私の願いなら、それは律法主義ではなく、喜びに満ちた自発的な従順です。神さまは、私が正しい動機でもって、正しいことをするよう望んでおられるのです。

ネモフィラ

(2014年4月9日更新追記)。これまで家や教会で祈る時は、スカーフを頭にかけていました。数ヶ月前、グレッグ(主人)が「帽子をかぶって教会に行ってもいいかもね。」と言いました。帽子も、すごくいい感じです!家で祈る時は、今でもスカーフを使っています。

私は個人的に、フルタイムではかぶり物を着けていません。でも、もしグレッグがそうしてほしいって望むなら、もちろん、喜んでそうするつもりです。この聖句を文字通り生きることで、私は主人に敬意を示そうと努めているのです。

この証しを読んでくださって、ありがとうございました。

http://peacefulwife.com/2012/05/24/a-long-lost-secret-of-god-to-strengthen-our-prayer-lives-and-marriages/


付録)さらに祈りのベールについて知りたい方へ(Youtubeでの姉妹による証しと同胞姉妹への励ましメッセージ:英語)









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祈りのベール Q&A ならびに親愛なる兄弟のみなさん、牧師先生、神学校の先生にささげるお手紙

かぶり物(祈りのベール)についての私の証し My Head covering Journey

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