Greek park 3

Ten Thousand Muslims Meet Christ, published by Iranian Christian International, Inc. Colorado, 2006.)

日本語訳の翻訳許可を与えてくださった本書の編集者イブラヒーム・ジャーファリー氏にお礼申し上げます。

尚、イブラヒーム兄は、1994年1月に殉教されたハイク牧師(アルメニア系イラン人)の愛弟子に当たる方です。(バックナンバーにハイク牧師の伝記『友のために命を捨てた牧師』を収録しています。お読みになりたい方はココをクリックしてください。)

今回ご紹介するのは、本書の7章に収録されている証しですが、その前に、イブラヒーム兄より日本の兄弟姉妹へのメッセージがあります。

日本の読者のみなさま

本書は12の証しで構成されています。それは全てイランのイスラム教徒だった人々による証しです。

本書が出版された2006年、こういった回心者の数は、実に6万5000人を超えました。それに加え、20万人余りのsecret believer(=信仰を公にしてはいないけれども、心の中でイエス様を救い主として信じている人)がいます。

つまり、こういった人々は、直接的にクリスチャンと連絡を取る機会がないにもかかわらず、夢や幻、キリスト教衛星テレビやラジオ、トラクト、インターネット等により、キリストの元に導かれているのです。

イランという――イスラム法下にあり、宗教の自由のない国において――これだけの数のムスリムがキリスト教を受け入れているというのは奇跡です。

歴史的にいえば、ムスリムは従来、キリスト教に反発し、その教えを受け入れることを恐れていました。その恐れは、イスラムの道を捨てた者に課されているイスラム法(死刑をも含めた極刑)への恐怖から来るものでした。

ですから、そういった状況の中であえてイエス様に信仰を持った人々は、聖霊によって真に強められ、そのような大胆なステップを踏んだのです。

本書を通して、日本のクリスチャンの皆さまが励ましを受けますようお祈りいたします。またこういった証しを読まれることで、十字架につけられしイエスによって表された神の愛の福音を、ムスリムに分かち合いたいという思いが与えられる方もおられることでしょう。

そうです、今、私たちはムスリムの人々にイエスの愛の伝えることのできる、黄金期を生きているのです。

編者イブラヒーム・ジャーファリー

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ファルザネ姉の救いの証し(イラン)

――私の天のお父さま――


子ども時代

私は非常に敬虔なイスラム教徒の家に生まれました。

私の家族のきずなは強く、皆、お互いを愛し、いたわっていました。こうして私はすばらしい両親のもとで、本当に何不自由ない子ども時代を過ごしました。

学校で、また両親を通して、私はイエスについて少し学んでいました。

イエスはイスラム教の聖典の中で「第四番目の大預言者」として言及されており、一方、イスラム教徒の創始者Mは第五番目にして最後の大預言者だと教わりました。

母に「イエスはどうして十字架につけられちゃったの?」と訊いた時のことを今でも鮮明に覚えています。

母は答えました。「それはね、イエスが自分は神の子だって言い張ったからですよ。でもね、神は結婚なんかされなかった。神に子どもはいないんですよ。」

クリスチャンは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という、三つの神を信じる人たちだと思っていました。こういう説明は私の頭を混乱させました。

それに比べ、ムスリムは唯一神のみに信仰を置いている。だからイスラム教は他の宗教よりもすぐれていると思っていました。

人生の過渡期

イランの高校を私が卒業すると、両親は私の今後について話し合っていました。――米国に留学させる方がいいのか、それともお見合い結婚をアレンジした方がいいのか、、、と。

結局、両親は、「まず、娘の結婚を準備する。その後、夫と共に娘をアメリカの大学に送り出す。」ということに決めました。

こうして私はお見合い結婚をし、1973年、夫と私は米国に発ちました。

私は両親から経済的サポートを受け、また政府の給付奨学金も受けていました。

学生ビザの資格で米国に来ていましたので、当初の予定では、4-5年、米国に滞在し、学位取得後、祖国に帰るつもりでした。

米国に来た当初、私は新しい環境になじめず、それに加えひどいホームシックにかかってしまいました。「一刻も早く学位を取得して、祖国に帰りたい」と、そればかり願っていました。

当時、イランと米国の政治的関係は良好でした。なんら問題や衝突の兆しといったものもありませんでした。シャー(イランの国王)政権は非常に安定しているかのように思えました。

危機

しかしまもなくして、私たち夫婦は、イラン情勢が緊迫してきているように感じ始めました。

シャー(国王)は、大衆の支持を失いつつあるようでした。アヤトッラー・ホメイニー(イスラム高僧)は、国王がイランを離れるなら、亡命先のフランスから祖国に帰還しようと待機していました。

そしてそれは1979年初頭、まさに現実化したのです。

ホメイニーの承諾を得て、イラン人はテヘランにある米国大使館を襲撃し、そこにいた大使館員を人質にとりました。

その結果、米国に滞在していたイラン人はとんだしっぺ返しを食らうことになりました。

アメリカが、自国内にいるイラン人全ての資産を凍結すると、私たち夫婦は、イランから経済的援助を受ける道を失いました。それに加え、私は父が亡くなったという知らせを受けました。

主人と私は、自活するより方法がなくなりました。学生ビザでは働くことはできませんでした。

しかし生活のため、止むにやまれず私は大学をやめ、フルタイムの仕事に就きました。

祖国に帰ることも考えていましたが、イラン・イラク戦争勃発の知らせを聞き、思いとどまりました。

一方、(アメリカに住む)イラン人に対する米国人の嫌がらせはますます悪化していき、私たちは恐怖におののきながら生活していました。

米国入国管理局は不法労働しているイラン人を捜査していましたので、自分も入管に捕まり、強制送還されるんじゃないかとおびえていました。

うちには二人の幼い子どももいましたので、私の給与だけで四人を支えていくことはできませんでした。

それで主人も働き始めました。言うまでもなく、私たちの生活は、ストレスや不安、恐怖だらけでした。

この辛い時期にも、私はメッカの方向を向いて、一日に五回祈り続けていました。断食もよくしました。

でも時々自問していました。「神さまは、私の家族のことをかまってくれているのかしら?」と。

私は神さまの助けを必要としていました。でも、神さまは遠くにおられるようでした。

私は二人の子どもたちを、教会の運営する保育園に入れていました。というのも、そこでは嫌がらせを受けることが少ないんじゃないかと思ったからです。

感謝祭やクリスマスの時期には、「ファルザネさんも、教会の行事に参加しませんか?」と誘いを受けていましたが、私は一度も足を運びませんでした。

そういったイベントに参加するのは良くないといつも思っていました。やっぱりイスラム教徒として、クリスチャンの祝祭を共に祝うことはできないと考えていたからです。

逆に私は、保育園の先生たちを自分の家に招いて、イスラムの道を教えようとしたりしていました。

でも心の奥底では、「神さまはあまりにも遠いところにおられて、私の祈りなど聞いてくださっていない」と感じている自分がいました。

ですから、イスラムについても説得力ある議論はできないように感じていました。

私の毎日は仕事と子どもの世話に忙殺されていました。「どうしてこんな羽目になっているのでしょう?」と私は神さまに問い続けました。

状況があまりにも耐えがたくなってきて、私は精神安定剤に依存するようになっていました。

私の担当医は、「あなたはうつ病にかかっている。祖国に帰る必要があります。」とおっしゃいました。

私もそうしたかったのです。でも、国の状況および家族の安全のことを考えると、それはできない話でした。

うちの子たちが通っている保育園の教会は、園児のお母さん向けにエアロビクス教室を開いていました。

お医者さんから、不安発作を抑えるためにも適度な運動をした方がいいと薦められていましたので、私はこれに参加することにしました。

この教室はデボーションの時を持って始まり、祈りを持って締めくくられていました。

私はエアロビクスには参加していましたが、こうした祈りの時間は避けていました。自分の信仰と相いれなかったからです。

にもかかわらず、教室の女性たちは皆、私に親切でした。彼女たちの気遣いは真心からのものだと私は感じました。

その間にも、主人と私は多くの弁護士の所へ行き、労働許可を得ることができるよう奔走していました。

そうしてついに一人の弁護士を見つけました。その弁護士によれば、夫が雇用先の会社から推薦状を得ることができれば、米国労働省からの許可がおりるだろうというのです。

私たちはすぐにそういった推薦状をもらい、弁護士を通して、労働省に提出しました。

その当時、イランの政治状況ゆえ、私たちは祖国の家族から、ほとんど消息をきくことができずにいました。

ほんの時たま電話が通じる時もありましたが、母はただ「ここは安全じゃない。アメリカにいなさい。」と繰り返すだけでした。

近所の人たちからの嫌がらせを受け続け、私はストレスと怒りでいっぱいになっていました。

私は、「このイラン野郎、とっとと国に帰れ!」と言われるためにこの国に来たわけじゃなかった。下積み仕事をするためにこの国に来たわけじゃなかった。

そして何より腹が立ったのは、なぜ私の神は、祈りに答えてくれないのかということでした。それが理解できませんでした。

私は、労働省が主人に許可を出してくれることに、ただただ望みをかけていました。そうしたらもう恐怖と不安の中で生活しなくてもよくなるのです。

ある晩、電話がなりました。弁護士からでした。「労働省から不許可の知らせがきた」と。

私たちは打ちのめされました!もうこれで全ての希望の綱は断たれたのです。

私は主人に、「イランに帰ろう。」と言いました。私は不法就労にも、嫌がらせにも、疲れ果てていました。

でも子どもたちの安全を考えると不安でした。毎日、爆弾の落ちているような国にこの子たちを連れて帰ることができるのかしらと。

その晩、私は今までの人生を振り返ってみました。

アメリカに来てからわが身に起こったことを一つ一つ考えました。

自分たちの問題を解決しようと私たちは万策を尽くしてきました。

私は、ベビーシッター、介護ヘルパー、家事代行、ウエーター、コインランドリーのヘルパー、看護師の補助員など、いろんな仕事をしてきました。

私は思いました。「今、自分はどん底にいる。こんな状況に陥るためにアメリカに来たんじゃなかったのに、、、何度も断食した。神に祈り、叫び求めた。でも神は私の祈りをきいてくれたためしなんてなかった。

もう外国人として生きていくのに疲れた。もし今もお父さんが生きていたら、実家に戻って、もうこんな生活とおさらばしていたろうに。」

でもその晩、床に就いた時、ふと思い出したのです。「そうだ、明日の朝はエアロビクスだ。」

そうすると、なんだか少し元気が出たように感じました。

翌朝、私は早々とエアロビクス教室に足を運びました。そしてデボーションの時に語られる言葉に熱心に聴き入りました。それはこれまで決してしなかったことです。

エアロビクスの間中、私は家族のこれからのことを考え続け、教室が終わって、祈りのセッションが始まっても、そこにとどまりました。

そして、女性の一人が、「みなさん、何か祈り課題、ありますか?」と訊ねると、私は口を開き、自分の抱えている問題を何もかも吐露しました。

みんな、私の話を聞いてくださいました。そして私と私の抱えている全ての問題を神さまの前に差し出して、祈ってくださいました。

祈りの中で、女性たちは神さまのことを「御父」と言っており、イエス・キリストのことを「救い主」と言っていました。

ある方が、聖書を開き、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)と読み上げてくれました。

彼女たちはイエスの約束を自分たちのものとして祈り、「これをイエス様の御名によって祈ります。」というフレーズでもって、御父に祈りをささげました。

さらに女性たちは、今後も私のために祈りますと言ってくれました。

教室を出てからも、この「イエス」という名前は私の脳裏を離れませんでした。

家への帰り道、私はこのイエスに語りかけたのですが、そうすると涙が出てきました。

私はイエスに言いました。「もしあなたが本当に神なら、それなら、、、これまでずっと私は間違っていたということになります。私は間違った神に祈っていたことになります。」

その晩、食事の前にも私は再びイエスに語りかけました。「イエス様、もしあなたがまことの神様なら、うちの家族の問題をどうしたらいいのか私に教えてくれませんか?」



その晩、私は夢をみました。

夢の中で、私と子どもたちはイエスに会いに、エルサレムに行こうと旅じたくをしていました。

私はイエスの所へ行って、イエスに私の問題を打ち明けようと思っていました。そうして私たちは道を歩き始めました。

道はとても険しく、果てしがないように思えました。

くたくたに疲れ切った私たち家族は、エルサレムに入る一歩手前の場所に到着しました。

見ると、道は古いれんがでできた壁でふさがれていました。

私はあちこち探しましたが、そこには戸口がなく、イエスの所にたどり着くすべがないように思えました。

私は泣き出し、言いました。

「イエス様、私ははるばる遠いところからあなたに会いにここまでやって来たのです。これがあなたの家ですか?でもどこにもドアがありません。あなたの所にたどり着くすべはないのでしょうか?」

すると(夢の中で)、私はエアロビクス教室の女性たちが私のために祈ってくれた時にくれた約束のことを思い出しました。

私は再びイエスにたずねました。「イエス様、ここが私の旅の終着点ですか?」

すると一つの声が答えました。「いや、ここが終わりではない。」

その瞬間、子どもたちと私は、ドアのないれんが壁の上を上昇し始め、高く高く昇っていきました。

そしてついに御国の門の前に来たのです。

門が開き、子どもたちと私は中に入って行きました。そのなんと美しかったこと!

中に入るとすぐに、ある人が両手を広げて私を迎えようとしているのに気づきました。

この方は両手にそれぞれろうそくを持ち、白い衣とサンダルと履いていました。

私はこの方の目を見ることができませんでした。なぜならそこからまばゆい光が輝いていて、その場所全体を照らしていたからです。

その時分かったのです。私は今、イエスとご対面しているのだと!

私は、イエスに全ての問題を打ち明けました。私は子どもの時からの事を何もかも、イエスに打ち明けました。

問題をイエス様に打ち明けるたびに、心が軽くなっていくのを覚えました。

うつと不安が次第に消えていきました。あまりに早口にお話したため、私は息が切れてしまいました。

もう疲れて言葉が出なくなってしまってからも、イエスは引き続き、私の思いの中にある問いに答えてくださいました。

周りをみわたすと、そこにはたくさんの部屋がありました。

そして各部屋は庭につながっており、そこには人々が輝く白い衣を着て、立っていました。

イエスは言いました。「この人々は過去に生きた預言者たちです。」

そして私は気づきました。自分はこれまでいつも自分の宗教の神を礼拝してきたけれども、この神は私の祈りに答えてくれなかった。でもイエスは答えてくれた、と。

天使の群が現れ、王冠をかぶったイエスを取り囲み、歌いました。「この方こそ主なり。主の御名をほめたたえよ。」

私も天使と共に歌いました。「主を賛美せよ。主の御名をほめたたえよ!」

イエス様は私が必要なだけ時間を割いてくださり、私の問いに答えてくださいました。その後、もはや何も私を妨害するものはありませんでした。

私は自分が羽のように軽くなった気がしました。

イエス様は、「何もかもうまくいく、大丈夫。」と約束してくださいました。私にとっては、イエスの約束、これだけでもう十分でした。私はまことの神を見い出したのです!

そこで私は目を覚ましました。

自由

最高にいい気分でした。うつとストレス感が消えていました。

その日の夕方、また弁護士から電話が入りました。――労働省は主人の提出した証明書を受け入れ、永住許可のカードナンバーを発行したということでした!永住許可証の発行もそれに続きました。

私はイエスに水を一口求めましたが、主はカップ一杯の水を与えてくださったのです。

主は私を養ってくださる方であること、またイエスさえいてくだされば十分であることを、主は私に示してくださいました。

主は私に力を与えてくださいました。それにより、私はもう心配や気遣いの重圧に押し倒されることがなくなったのです。

涙のさなかにも、主は私に喜びを与えてくださいました。

「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」とイエス様は約束してくださったのです!

今、神様は私にとって、どこか遠くにいる存在ではなく、沈黙の神でもありません。

私には天のお父さまがいるのです。そしてこの御父は私を娘にしてくださったのです。

―おわり―
green park tree


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A heartfelt thank-you letter from a Japanese veiled sister to my overseas brothers and sisters in Christ

祈りのベール Q&A ならびに親愛なる兄弟のみなさん、牧師先生、神学校の先生にささげるお手紙

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