第十三章
   ゾリコン・アナバプテスト教会 息を吹き返す


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3月8日水曜日は、早春の最もあたたかな日となる気配があった。

頭上にある二、三の淡黄色の雲を除いては、空はまっさおに澄み切っていた。太陽の光は、未だに丘の斜面に残っている、よごれた雪だまりに直接照り付けていた。南方からのやさしいそよ風により、日差しは一層強くなっていた。

この日は四旬節の初日(灰の水曜日)であった。朝食後すぐに、ゾリコンの通りは人でごったがえし始めた。人々は日曜日に着るようなよそ行きの身なりをしており、お祭り気分で湧いていた。

今日――つまり復活祭前四十日間の断食期間の初日――から受難節が始まるのであった。

群衆は特別ミサの執り行われる村の教会堂へ向かっていた。ビレター牧師は伝統的な様式に倣い、昨年のシュロの主日に燃やしたシュロの残りの灰を祝福するのであった。

それから牧師は灰を手に取り、「覚えておきなさい、人よ。汝はちりであり、やがてちりに帰っていく」と言いながら、その灰で会衆の額に十字架印をつけるのであった。

しかし村人の皆が皆、教会堂の方に向かっているわけではなかった。大ぜいの人が湖畔にあるハンス・ミューラーの家に向かって丘を下っていっていた。

今日もまた、ゾリコンで執り行われた礼拝は、ビレター牧師の所だけではなかったのだ。

マルクスとレグラは共に丘を下っていた。「君のお父さんのことでは、とっても失望したよ。」マルクスは言った。「今朝僕たちと一緒に来る気なぞ全くなかったね。お義父さんはビレター牧師の説教をききに行くんだろうか。」

レグラはため息をついた。「分からない。ここ最近、お父さんは、本来の自分を失っている感じだわ。」

「うん、確かにそうだ。僕が釈放されて以来、お義父さんは変わってしまった。」

「ブラウロックが日曜にここにいた時に、父も彼の説教を聞いていたらどんなに良かったかって思うの。父にとっても為になったでしょうに。」

「そうだね。」あの日の説教を思い出しながら、マルクスは同意した。

「ゲオルグがもっと長くいられたら良かったけど、彼は自分が新しい場所へ邁進していくよう、神の導きを受けているって話していた。実際、あの日一日の間だけでも、彼は僕たちのために多くのことをなしてくれたしね。」

「今日、誰が集会を導くのかしら。」

「うーん、誰だろう。ねえ、僕らはかなり置き去りにされている――そんな感じがしないかい?現に、ブロトゥリーは追放の身、ブラウロックは他の地域に行っていて、マンツは未だに牢獄にいる。だから今日はおそらく、爺さんが集会を導くことになるんじゃないかな。」

マルクスは丘下にあるミューラーの家をのぞき込んだ。家の前には人だかりができていた。「どうやら今日は大きな集まりになりそうだ。」

到着した二人は、見た目以上に、実際はもっと多くの男女が集まっていることに気付いた。家はすぐにいっぱいになった上、今も人がひっきりなしにやって来ていた。多くの人が外に立っていて、中に座る場所ができないかと待っていた。隣接する村々からも大勢の人が来ていて、その中にはマルクスの知らない顔もあった。

ボシャート夫妻は外で待っていた。

マルクスが再び見上げると、戸が開き、祖父が家から出てきた。祖父のすぐ後ろには、――教会を導く伝道者として選ばれた――ヨルグ・シャドとルドルフ・リッチマンの二人がつき従っていた。

まぶしかったのか、爺さんは一瞬、手をかざして太陽の光が目に入らないようにした。それから、外に立っている人々に向かって話し始めた。

「今日は家に十分なスペースがないため、暖かい日でもあるし、ミューラーの果樹園にて野外集会を開くことにした。」彼は告げ、湖畔にあるりんご園の方を手で指し示した。

人々がどっと家から出てきた。そして爺さんを先頭に、果樹園の方に向かった。マルクスとレグラは彼らの後に従った。

歩きながら、マルクスは自分のすぐ前を行く祖父の様子を観察した。

彼の幅広い背中は、あたかも教会を導くという責任の重さに押しつぶされるかのように、曲がっていた。陽光で彼の銀髪はきらきら輝いていた。それにもかかわらず、彼はきびきびと元気にかっ歩しており、後に続いている若い男たちが急いで足並みをそろえなければならない程であった。

hana yama

果樹園の真ん中には小さな円丘があり、ここに生えている丈の長い芝生は驚くほど乾燥していた。ここの土壌が粗い砂利であることをマルクスは知っていた。

爺さんは皆に半円形に座るよう指示し、それから話し出した。一語一語をいちいち吟味しているかのように、爺さんの話す言葉はゆっくりだった。

「野外で集うというのは、我々にとって新しい経験だ。」彼は切り出した。

「でも新約聖書を読めば分かるが、イエスはある日、五千人に向かって説教された。そして、この五千人もここにいる我々と同じように、芝生の上に座っていたのだ。神を礼拝するのにここはすばらしい場所だと思う。見渡す限り、主の創造物をみることができるからだ。」

こう言って、爺さんは一息ついた。

マルクスは自分たちを取り囲んでいる自然の音にしばし耳を澄ましていた。

クロウタドリが、頭上にある枝の上でさえずっており、遠くの方からはカラスがしきりにカーカー鳴いている声がきこえた。カラスの声は耳に心地よいものではなかったが、それでもたしかに春の訪れを告げてはいた。

村の方角からは、誰かの飼育場にいるめんどりのクワックワッと鳴く声、それに続いてガンのけたたましい鳴き声がした。マルクスはネーベルバッハのさざ波の音――溶けゆく雪だまりが、小さなクリークを通って転がるようにチューリッヒ湖に流れ込んでいた――を聞いた。

のどかだった。

そう、果樹園のこの光景を表現する言葉としてこれ以上にふさわしい言葉はなかった。マルクスは目を閉じた。

そしてこれが永遠に続くことを願った――神の御言葉を聞こうと芝生にしゃがんでいる村人たちの静かな集まり、そのすぐ下にある湖岸に打ち寄せる波の音、心地よく彼らの上に注ぎ込んでいる陽光。いつもこういう平和のうちにいることが、なぜ許されないのだろう。

牢獄で過ごした冷たい夜の記憶、参事会からの苛酷な脅し、ウルリヒ・ツヴィングリの甘言、、、によって、どうして平和な思いがかき乱されてしまうのだろう。なぜ将来がこうも不確かで、こうも恐怖で曇らされなければならないのか。

祈りましょうと呼びかける祖父の声でマルクスははっと我に返った。

祈るために静かに礼拝者たちはひざまずいたが、乾いた牧草のサラサラいう音以外、何の音もきこえなかった。ホッティンガー爺は、――知恵が与えられるよう、来るべき日々に備えて聖霊の導きがあるよう、たとえそれが迫害をもたらすことになったとしても信仰に固く踏みとどまる勇気が与えられるよう――祈った。彼の声は震えていた。

続いてルドルフ・リッチマンが新約聖書を朗読した。聴衆者の大半にとって御言葉は新鮮そのものだった。人々は皆飢え渇き、御言葉をもっとききたいと切望していた。朗読された箇所はマタイの福音書十八章であった。

マルクスはじっと耳を傾けた。

「、、、もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。

もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」

つまりこれはどういう意味なんだろう、とマルクスは思った。もし義父であるルディー・トーマンが今、新しい信仰に背を向けたなら、どうなるのだろう。

自分は、ルディーの誤りを指摘し、彼を教会にもう一度引き戻すために努めるべきなのだろうか。そしてもし彼が耳を貸さないようなら、その時はどうすればいいのか。その事について礼拝後に爺さんに相談してみようとマルクスは思い立った。

ヤコブ・ホッティンガー爺は話すためにもう一度立ち上がったが、彼のメッセージは簡潔だった。

「神の御心にそった純粋な教会であるためには、過ちを犯しているメンバーに対し、懲戒がなければならない。もし兄弟や姉妹のうち、信仰から逸脱し、あるいは罪に陥っている者がいるのなら、その者に誤りを指摘し、悔い改めるよう勧告すること――これが教会の兄弟たちの責務である。

もし誤りに陥っているメンバーが言うことを聞かないなら、その者は教会から追放されなければならない――つまり兄弟の交わりから除名されることになる。」

爺さんは咳払いをし、続けた。「これが耳触りのよい話題でないことは私も承知している。特に、自分たちの愛する誰かが関わっている場合はなおさらだ。しかし聖書は、それが必要だと言っている。我々が懲戒を用いない限り、そして悔い改めようとしない不適切なメンバーを除名しない限り、神の教会を建て上げることは無理だと私は思っている。

もしこの点で我々が責任を取らないなら、またたく間に教会は、罪であふれるようになるだろう――肉欲、お金への執着、ギャンブル、酒びたり、盗み、そしてついには殺人まで――そう、今まで通ってきた国教会と何ら変わらない状態に陥ってしまう。

そして我々はそうなってほしくないのだ。神はご自身の民に、それ以上のことを求めておられる。神が望んでおられるのは、聖い教会、つまり罪を罰する教会なのである。」

ホッティンガー爺は腰を下ろした。信仰から落ちてしまった者たちのことを話していた時、爺さんはルディー・トーマンのことが念頭にあったのだろうかとマルクスは考えた。

ヨルグ・シャドが説教をするため立ち上がった。彼は爺さんよりも早口で、しかも、より小さな穏やかな声で話していた。――あたかも風が彼の口から言葉をかっさらっているかのようだった。

マルクスはもっとよく聞こえるように身を前の方に乗り出した。見ると、他の人々も同じように身を乗り出していた。

メッセージに熱が入り、この若い説教者の声は次第に大きくなっていった。彼の声は切実かつ感情がこもっていた。ヨルグ・シャドは農夫であり、農民の子だったので、聴衆の多くは彼の見事な説教に驚いていた。

しかしマルクスを驚かせたのは、ヨルグが説教できるということではなく、彼が主によって変えられた人間になっているということだった。

説教の後、会衆は静かに芝生の上に座っていた。その間、主の聖餐にあずかる準備がなされていた。ハンス・ミューラーと息子が家から小さなテーブルを運んできて、座っている人々の真ん中にそれを設けた。

ハンスの奥さんがそれに続いてパンを二つと葡萄酒の盃を持ってきて、テーブルの上に置いた。日の光が葡萄酒の盃を斜めに透過し、その濃厚な赤い色を浮き彫りにしていた。

ヤコブ・ホッティンガーが式を導いた。彼はパンの塊が皆に見えるように持ちあげ言った。

「これは、、、他のパンと何の変りもないパンだ。カトリック教会が教えているようにこれが変じてキリストのからだになるわけではない。これはあくまでゾリコン村の焼き立てパンにすぎない。

「しかしそれ自体としては、十字架上でのキリストの砕かれしみからだを象徴するのにふさわしいものである。そしてそれは天より来たりし生きたパンを象徴するものである。このパンにあずかる際、我々はキリストが我々のためになしてくださった犠牲を厳粛に覚えるのだ。」

そう言いながら、ヤコブ爺はパンを一かけちぎり、それを食べた。それから彼はテーブルの周りに集まった兄弟姉妹たちに裂いたパンを配った。

「同じように」と彼は盃を持ち上げて言った。

「この葡萄酒は変じて血になるわけではない。これはありきたりの葡萄酒にすぎない。しかしこれにより、我々は自分たちのために流されし、イエスの血潮を覚えるのであり、その犠牲を覚えてこれを飲むのである。」

盃が皆に回され、それぞれが一口ずつ飲んだ。

りんごの木々の下で、芝生の上に座った百人もの男女が白昼堂々と、聖餐にあずかった

――これは夢じゃないだろうかとマルクスは思った。ヨハン・ブロトゥリーは「ゾリコン教会は死んだ」と思っていた。「ああ、ヨハンが今日ここにいたらなあ。」マルクスは一人物思いにふけった。

まもなく集会は終わり、兄弟たちは帰路につくべく、あらゆる方向に散っていった。隣接の地域から来ていた者たちは、それぞれ群れをなして帰っていった。そして道すがら、興奮して話を交わしていた。マルクスとレグラは爺さんが行く支度ができるまで待っていた。

三人は家路につこうと丘を上り始めた。爺さんは疲れているようにみえたが、満ち足りていた。「群れがこれほど大きくなったので、ちと困ることがでてきた」と彼は言った。「天気が良くない時には我々は外に集うことはできない。その時はどうしたらよいものか。」

☆☆☆

1 flower in the rain


爺さんの思惑は的を射たものだった。というのも次の日曜日、早速その答えが必要とされたからだ。朝早くから、丘陵を越えて村人たちがゾリコンに押しかけて来始めたのだった。彼らは湖畔にあるハンス・ミューラーの家に向かっていた。

ハンスの家が小さすぎるのは目に見えて明らかだった。それに追い打ちをかけるかのように、今度は冷たい雨が降り始めた。北東からの霧雨をみれば、この雨が一日中降り続くことは確かだった。

教会の指導者たちは早くに集まり、どうすべきかを話し合った。そしてついに決定がなされた。午前中二つの集会を開くことにしたのだった。

ヤコブ・ホッティンガーと仕立屋の助手ハンス・ビフターがミューラーの家にとどまる一方、ヨルグ・シャドとルドルフ・リッチマンは第二群と共に、ウリ・ホッティンガーの家に集まることにした。しかしこの日の計画はこれだけではなく、その後もあちこちでささやきや意味ありげなうなずきが交わされていた。

マルクスとレグラはミューラーの家にとどまった。爺さんは聖書を読み上げ、兄弟たちに勧告を与えた。その後ハンス・ビフターが説教した。

指定された時間に、様子をさぐりに一人の使いが出された。彼はすぐに戻り、二人の伝道者の方に急いで歩み寄った。「はい、彼はもう帰りました。」使いの者が言うのをマルクスは聞いた。

この言葉をきくや、皆一同、外套を着、帽子をかぶって雨の中を外に出る支度を始めた。伝道者が皆を先導し、グスタッド通りに達すると、第二群を待つようにとしばしの間、立ち止った。

第二群はヨルグ・シャドに率いられて、ホッティンガー家の方向から丘を下ってやって来た。こうして合流した一行は、村のもう一方のはずれに向かって歩みを進めていった。

数分もしないうちに、彼らは村の教会堂に到着した。ビレター牧師は確かにもうチューリッヒに発っていたが、数人の教会員はまだ教会に居残っていて、互いにおしゃべりをしていた。

入口の戸が、突然入ってくる人で一杯になったのをみると、彼らは驚いて目を上げた。何人かは早々に退散したが、中には好奇心にかられ、これらの説教者たちがどんな事を言うのか聞いてみようと座り直す者もいた。

マルクスは緊張していた。そして他の人々もそうであることを彼はみてとった。やがて伝道者たちは説教壇に上がり、礼拝が始まった。この教会堂には、余分なスペースがあった。しかしこれは通常の礼拝ではなかった。兄弟たちは、特別な目的のため――そう洗礼を授けるために――集まっていたのである。

一時間後、礼拝は終りの方にさしかかっていた。すでに正午を過ぎていた。聴衆の間には、驚嘆ともいうべき感情がうずまいていた。マルクスもそれを感じた。誰一人として集会を妨害しに来ることなく、ヨルグ・シャドは四十名余りの人々に洗礼を授けたのである!それも村の教会堂で!

兄弟たちを解散させる前に、ヤコブ・ホッティンガーは短くお知らせをした。

「皆さんご存知のように」と彼は話し出した。

「われらが愛する兄弟ヨハン・ブロトゥリーが先日、我々に手紙を書き送ってくれた。そして我々に、『フリードリー・シュマッヘルの店に残してきた自分の所持品のいくつかを持ってきてほしい』と頼んできた。我々奉仕者たちは、この件について話し合ったのだが、一人か二人の兄弟をヨハンのいるハラウに送り出すべきではないかと感じている。

もちろんヨハンに所持品を届けるためではあるが、それだけではなく、ここゾリコンで教会が成長している様子を彼に知らせる目的も兼ねて、送り出そうと思っている。」

爺さんは腰を下ろした。一体誰がこの旅に遣わされるんだろう、村の教会堂で洗礼を授けたことを聞いたらヨハンは何と言うだろうとマルクスは思った。

爺さんは再び口を開いた。「実際、誰が行こうと構わないのだが、我々としては、キーナストとマルクス・ボシャートの二人を考えている。ただし、もし二人に行く気があればの話だが。」

マルクスは首の後ろがほてるのを感じた。ブロトゥリーに会いにハラウへ行くだって。そう考えるとワクワクしたが、同時に恐ろしくも感じた。何と言っても彼は生まれてこのかた、一度も地元の町を出たことがなかったのだ。行けるだろうか。でももし教会がそう望むなら、、、

数分後、マルクスは妻と並んで、霧雨の中を家に向かっていたが、彼は未だに茫然としていた。「ねえ、ど、、、どう思う?」と彼はレグラに尋ねた。彼は妻の表情をみようと彼女の顔をのぞいた。

彼女はまばたいて涙をおさえようとしていた。「それって、それって、危険じゃないのかしら。」彼女は尋ねた。

危険かって。旅人が道中、強盗に遭ったり、殴られたりする話は聞いたことがあった。しかしその時、彼はある別の事に思いが至り、すぐさま、決意が固まった。

「ほら、レグラ。今日の教会で行った洗礼式のことで、おそらくチューリッヒ参事会から何らかの応答があると思う。明日ハラウに発つことは、おそらく今僕にできる一番の安全策かもしれない。」

レグラは何とも答えなかった。おそらく、彼女は今、マルクスが牢獄にいる間、苦しみ耐えたあの九日間のことを考えているのだろうと彼は思った。

ようやく彼女は言った。「そうね、たぶん、あなたの言う通りかも。」

第14章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第12章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』