Green park 2


私たちがどこかの宣教地に遣わされると、そこにはいくつかの文化が存在することに気づきます。

まずは1)現地の人々の文化です。そして次には、2)宣教師コミュニティの文化があります。そして最後に、3)自分の生まれ育った文化があります。

私の場合だと、1)は、難民コミュニティーの中東文化、および地元のヨーロッパ地中海文化、2)は(圧倒的多数が北米出身の宣教師なので)アメリカ・カナダ文化、そして3)は、日本文化です。

私は宣教師としてこういった多様な人々に接し共に働く中で、この文化理解が、福音促進(あるいは妨害)に少なからぬ影響を及ぼしていることに気づきました。

今回は、男女間のマナーという点で私が学んできたことをお分かち合いしようと思います。

☆☆

私はギリシアに来た当初、比較的カジュアルに難民に接していました。しかし、いくつか失敗をしでかしてしまい悔い改める中で、自分のアプローチ方法に問題があることを示されました。

またハドソン・テーラーやエミー・カーマイケルといった、現地の人々に大きな霊的インパクトを与えた宣教師たちの回想記や伝記を熟読しました。

そうする中で分かったのが、現地の人々の文化を学び、その文化の枠組みの中で共に生き、福音を語る時に、そのメッセージはもっとも深く人々の心に伝わるということでした。

男女間のマナーという点でいえば、中東文化は、欧米文化に比べ、もっとフォーマルかつ線引きがきっちりなされています。

何年か前、私は次のような光景を目撃しました。

中東出身の男性(既婚者/求道者)が病院の中で、北米出身のある女性宣教師(独身)にばったり出会いました。

この宣教師は、「Hi,~~,how are you?」とこの男性をファーストネームで呼びながらハグし、ギリシア式に、彼の両頬にキスをしました。

私はこの瞬間、この男性の顔がひきつるのをまざまざと見てしまいました。

そして実際、この宣教師が去った後、この方は、仲間の男性にとまどいの気持ちを打ち明けていました。

また、言葉遣いにおいても、中東文化は、日本文化と似ていて、家族や同性の友人以外の人が、誰かを呼び捨てにすることはほとんどないことにも気づきました。

それ以降、私は、親しい同性の友人を除き、人々を呼ぶ際、「Agha(=氏/男性)」,「Khanom(=さん/婦人)」, 「Baradar(=兄/クリスチャン)」, 「Khahar(=姉/クリスチャン)」と必ず敬称をつけて呼ぶことにしました。

また、60代以降の男性に対しては、さらに尊敬の念を込めて、(ファーストネームではなく)「苗字+氏」とお呼びすることがよりふさわしいことにも気づき、それを実行しました。

またインド・ヨーロッパ諸語では、「あなた」と呼ぶ際、単数形と複数形がありますが、この複数形は、たとえ話しかけている相手が一人であっても、これを用いることで尊敬の意を表すことができます。つまり敬語表現になるのです。

それで、私は、子どもたちに話す時以外は、すべて複数形の敬語表現で周りの人々に話すようにしました。

また、この文化の中で望ましいとされている男女間の健全な距離をしっかり保つよう、細心の注意を払うようにしました。

そうすると、周りの人々の私に対する接し方が変わってきました。特に男性の方々においてその変化には著しいものがありました。

例えば、最初の頃、男性の方々は、教会で会うと、「Hi!」と言いながら、私に手を差し出し握手してきました。

しかし、私が彼らの文化から学び、その規範を尊重しはじめると、次第に握手を求めてくる人はいなくなりました。

その代わりに、彼らは自らの胸に手を当てつつ、深々とおじぎをするようになっていったのです。

(ちなみに、胸に手を当て、おじぎをするという仕草には、「あなたを非常に尊敬しております」という厳粛な意味が込められています。)

男性の中には、中世の騎士を思わせるほどに礼儀正しく、こちらが恐縮するほど丁重に接してくださる方も少なくありません。特にクリスチャンの男性はそうです。

また、たとえ厳格なイスラム教徒のご主人であっても、私が彼の奥さんや子どもたちと接触することを許可してくれるようになりました。

なかには、「妻は家でひとりぼっちです。どうか時々、うちにいらして、彼女の話し相手になってあげてください。」と頼んでこられる方もでてきました。

ああでも当初、私の取っていた言動・服装・マナーは、かえすがえすも、まことに恥ずべきものでした。

私はあまりにも無神経でした。これに関して私はまったく言い訳の言葉をもちません。

その時は愚かにも全く自覚していませんでしたが、今、私は自分の罪を悔いています。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。詩篇51:3,4


祈り)
主よ、男女間のマナーという点で、かつて私は愚かな間違いを犯し、あなたの聖い御名に傷をつけるような言動をとっていたことを告白します。

私は本当に自分の罪を悔いています。異文化の人々に福音を伝える上での配慮にも欠けていました。

今、私がここで奉仕することが許されているのは、ただあなたの大いなる赦しと憐れみがあったからこそです。どうか私を赦してください。

☆☆

さまざまな国から、毎年、短期宣教チームがアテネにやって来ます。彼ら若者の情熱と信仰はすばらしいです。

しかし、私はかつての自分に対する批判を込めて言いますが、一部のクリスチャンのモラルの低さ、異文化に対する理解のなさ、そして男女間の節度のなさは、こちらにいる難民の人々のひんしゅくを買っています。

多くのまじめな求道者が、「○○宣教チームのあの人たちは、あんなことをしていますが、クリスチャンとはこういう(性的・倫理的に)だらしのない人々なのですか?」と私たちに問いかけます。

そしてこういう軽率な振る舞いは、「あわよくば、外国人クリスチャンの女性に交際を申し込んで、配偶者ビザをゲットして、先進国に移民したい」というような、いやしい下心を持った男性たちを多く教会に誘引することにもなります。

私たちクリスチャンのルーズな言動によって、真摯な求道者が教会から離れていくなら、それは災いです。

主よ、どうか赦してください。教会を聖め、そして私たちを聖めてください。

☆☆

最高の文化をめざして

最初に私は、自分のまわりに3つの文化があると書きました(現地の文化、宣教師コミュニティーの文化、日本文化)。

でも実は4番目の文化があるのです。――それはキリストの文化です。

キリストの文化は、前の3つの文化を凌ぐ最高の文化です。

それぞれ地上の文化には、キリストの文化の美しさをほのかに映し出している部分もありますが、いずれにしても完全からはほど遠いといえます。

キリストの文化は、聖さ、天的な輝きに満ちた文化であり、そこには退廃の影もありません。

今回、中東文化圏における男女間のマナーについて書きましたが、彼らに福音を伝える上でつまずきとなるようなものは何であっても避けるべきだと思います。

そして、私たちの倫理基準(の低さ)によって、彼らが天の門から遠ざかることのないよう、十分に気をつける必要があると思います。

しかし、「相手につまずきを与えない」というのは、あくまで消極的な取り組みだといえます。

私たちは、そこからさらに一歩進んで、聖さにおいても、正直さにおいても、日常の言動においても、私たちの愛するイエス様のすばらしさを反映していく器として整えられていくよう積極的に求めていくべきだと思います。

私たちがそれぞれ置かれた場において、こういったキリストの文化―神の国―を日々築いていくことができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。




たましいへの情熱

ニコとロスィ―タ(南米ホンジュラスの人々を助けよう!)