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宣教師としてギリシアに来たばかりのある日、私は、某国出身の宣教師の教会を訪れ、彼の奥さんとお話する時間をいただきました。

「もう15年近くギリシアにいらっしゃるんですよね。これまでどのように過ごしてこられましたか?」と新米の私は、この先輩に質問してみました。

するとこの宣教師の奥さまは、こう言われました。

「ええ、実に苦しい年月でした。あまりに苦しすぎて、どんな風に過ごしてきたのか正直分かりません。時には下着を買うお金さえありませんでした。」

そして私を見つめ、「この歳月の間に、私が流した涙を量るなら、この建物いっぱいに溢れるでしょう。」と付け加えられました。

これを聞いた私は茫然となりました。

そして6階建ての建物が、彼女の涙で洪水のようになっている状態がなまなましく脳裏に描き出されるや、私自身、悲しみでいっぱいになってしまいました。

〈それにしても、下着を買うお金がないとは、なんときびしい状況だろう。宣教師生活とはこれほどまでに困窮したものなのか。私はこんな状態に耐えていくことができるのだろうか。〉

彼女への同情心と共に、将来への不安や心配が私の心を黒雲のように覆い始めました。

☆☆

さて、その後、10年余りが経ちました。

これまでのことを振り返ってみた時、確かにこの先輩婦人のいう経済的苦しさを私もそれなりに味わってきたこと――それは否定しません。

でも、私はそれをもひっくるめて、「楽しかった」と証することができます。

そこにはたくさんの気づきがあり、発見があり、冒険がありました。

これから私がお証しするのは、「聖書的な経済原則」とか、「宣教師のための経済生活講座」とか、そんなものでは全くありません。

ただ、私がギリシアの片隅でこれまで経験してきたこと、そして、そこから自分なりに学んできたことをお分かち合いするだけです。

神さまは、百人いれば、百通りの方法で、私たちにご自身の原則を教えてくださる方だと思います。

また、お金の証しは、私たちの実生活に密着したものなので、これから宣教師として未知の世界に踏み出そうとしていらっしゃる方々にとっても何らかの力添えになるなら幸いです。

☆☆

まずこの10年間、経済生活という面で、私の支えとなった聖句はこれでした。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道を知っており、豊かさの中にいる道を知っています。

また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:11-13)。


私は、経済サポートもろくにないまま、主に示されるままに、ギリシアに来ましたので、私の宣教師ライフは常に「未知の未来に向かっての信仰の奮闘」という感じでした。

☆☆

はじめにことわっておきますが、私は高度経済成長期の日本に生まれ、愛情深い両親の庇護のもと何不自由のない生活を送ってきた、いわゆる「温室育ち」の娘です。

ですから、貧に処する道というのは、もともと私に備わっていたものではなく、クリスチャンになってから私が後天的に体得していったものです。

冷蔵庫のない生活

アテネ市内の新しいアパートに移った時のことですが、その頃、私の経済状態はきびしく、冷蔵庫を買うお金がありませんでした。

それでその後、半年ほど冷蔵庫なしで生活をしたのですが、これがなかなか得がたい経験でした。

まず「冷蔵庫は生活必需品であって、これがなければ人間生活は成り立たない」という私の固定観念が打ち破られました。

思えば、『赤毛のアン』の時代も、冷蔵庫はなく、人々は地下の貯蔵室に食べ物を保存していました。そしてそれなりにみんな明るく楽しく生きていたのです。

それに最近では、さまざまな種類の缶詰も発売されており、野采・果物などに関しても、こまめにスーパーに行きさえすれば、特に生活に支障はないことも発見しました。

つまり、冷蔵庫というのはあればもちろん便利だけれども、なかったらなかったでそれなりにちゃんと生活は成り立つということに気づいたのです。

また洗濯機についても同じことがいえました。

私はこちらに来て、3年余り、バケツに水を溜めてゴシゴシ手洗いしました。もちろん日本では服を手洗いしたことはありませんでした。

地中海のあたたかい日差しを背に浴びながら、裏庭にしゃがみこんで無心に服を洗っていると、なにかこう内側に生命力がみなぎるのを感じました。

現在、私の住まいには冷蔵庫も洗濯機もあり、ありがたくそれらを使用していますが、また何かの事情でそれらを売却しなければならなくなったとしても、それはそれでOKです。

以前のように、こまめにスーパーに足を運び、またバケツに水を溜めればいいだけの話です。

それで分かったのですが、「何かがあったらあったでいいけど、なくてもOK」というのを知るのは一種の解放だということです。

そして神様は私にこの解放感、この自由を味わわせたいがために、私を時々、経済的貧の道に導かれるのだと思いました。

プライドがくだかれて

また、「受けるにも、与えるにも自由になってほしい」と、神様は私を経済的貧の道に導かれました。

私はそれまで貧しい人に施しや献金をしたことはありましたが、人から施しをされたことはありませんでした。

でも人からの経済的・物質的援助をぜひとも必要とする状況に導かれて気づいたのは、私には隠れたプライドがある、ということでした。

「人から施し物を受けるほど私はおちぶれていない」というプライドが、祝福の道を妨げていることに気づいたのです。

「新品ではないけど、あの姉妹にサイズの合わない自分の服をあげたい。でも、そんなことをしたら、彼女は気を悪くするかな?」と人に感じさせるもの――その隠れたプライド――が砕かれるまで、神様は私を砕き続けました。

そしてプライドが打ち砕かれると共に、どっと私の人生に祝福が入ってきました。

いろんな人が、100%の善意から、私にいろんな物を持ってきてくれるようになりました。

中古のお皿、古着、テーブル、ランプなどなど、、、私はそれら一つ一つをありがたく受け取りました。

そして自分がすでに持っている物は、自分よりももっと貧しい人々へ施していきました。

でもここで注意しなければならないことは、私たちは人に「あわれっぽく」見せる必要はないということです。

また媚びるような態度を取ってはならないということです。

私たちはたとえ物質的に貧しい時期があったとしても、依然として王の王であるイエス様の弟子であり、選ばれた種族です(Ⅰペテロ2:9)。

見栄をはったり、やせ我慢することは間違っているけれども、だからといって貧しさに心いじけるのも御心ではないと思います。

だからどんな状況にあったとしても、私たちはまっすぐ前を向き、堂々と生きてゆくことができるのです。

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シンプルライフへの道

また神様が私を経済的貧の道に導かれた三番目の理由は、「自己矛盾のない生き方」を追求させるためだったと思います。

先日、ある宣教団体で通訳者として雇われている難民の女性(40代)が、私にこう言いました。

「ちょっと聞いてください。私は週に三回フルで働いて、月給は300ユーロです。夫は無職で、私には二人の子どもがいます。

一方、同じ団体の宣教師の月給は独身の人でも月2000ユーロ以上です。

もちろん、私だって神様のために奉仕しているのですから、お金のことで文句を言いたくありません。

でも、この差はいったい何なのでしょうか。同じような奉仕をしていて、なぜこれほど月給に差があるのでしょうか?」

彼女の問いはもっともだと思います。残念ながら、南北問題・経済の不均衡は、キリスト教界にもびっしり根を張っているのです。

現在、ギリシアでは多くの人が失職中であり、たとえ職があっても、月給は安いです。

店の一般従業員が月に800~1000ユーロ、国立大学の教授でも月給1800ユーロといったところでしょうか。

ですから月給2000ユーロ以上というのは、ここギリシアでは破格の給料なのです。

でも先進国の生活水準を維持しようと思えば、2000ユーロというのは必要不可欠な額だということになります。

以前、こうした不公平さを何とかしようと、ある宣教団体は、英語の達者な難民の某兄弟を牧師として昇格させ、宣教師と同じ額の給料をあげ始めました。

しかしこの決定は、「教会の働き人になる=お金持ちになる」というメッセージを難民に発する結果となり、この牧師職をねらって、みにくい争奪戦まで起きてしまいました。

ですから、この問題に正面から向き合うなら、結局、「私たち宣教師が現地でどのような経済生活を送るのか」というところに焦点がしぼられてくると思います。

そしてそこから私が導きだした結論は、「私なりに最大限、簡素な生活を送ろう。シンプルライフに努めよう。」ということでした。

宣教師と現地人との間における経済的格差の克服という点で、私に大きな感化を与えたのは、18世紀のモラヴィア兄弟団の宣教師たちの生き方でした。

彼らは経済面を含めて、現地人と溶け合い、質素な生活を心がけていました。

私が郊外の大学街から難民街(外国人街)に移り住んだのも、こういった点で自己矛盾なく生きていきたいと思ったからです。

おわりに

宣教師というのは、聖なる乞食のようであり、貧しい貴族のようでもあります。

私には蓄えも何もありませんが、主はこれまで誠実に私の必要を満たしてくださいました。

そして私の隠れたプライドを砕くことで、新しい祝福の道を開いてくださいました。

経済的な貧の道を行く中でつらかったことの一つは、本を買うお金がないということでした。私のように本好きな人は、このつらさを分かってくださると思います。

しかし、この点でも主は私に驚くべき恵みを与えてくださいました。

誰にもそのことを打ち明けたことはなかったのに、日本やアメリカの兄弟姉妹が良書を無償で郵送してくれるようになったのです!

またいろいろな人から施し物をいただいたり、私の方から誰かに施しをする中で、私は自分が実に満ち足りていることに気づきました。

そして愛され、愛しながら、そのただ中にイエス様がおられることを実感するようになっていきました。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)。

アーメン。

この証しを読んでくださって、ありがとうございました。







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