IMG_0070.jpg

Ⅰコリント13章は「愛の章」とも呼ばれています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

、、、こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

この章を読んでいつも思い出す人がいます。ロバート・チャップマン(Robert Chapman,1803-1902)です。

チャップマンは19世紀のイギリスに生きた牧師であり、その無私の愛に貫かれた人生は、ジョージ・ミュラー、ハドソン・テーラー、チャールズ・スポルジョンといった同時代の信仰者たちに大いなる感化を及ぼしました。

スポルジョンは彼のことを「自分が知る限りもっとも聖なる人物」と評しています。

この謙遜な神の人の生涯からは、どの側面からも、かぐわしいキリストの香りが漂ってきます。

それでは、ご一緒にチャップマンの生い立ちからみていくことにしましょう。

生い立ち

ロバート・チャップマンは、1803年4月1日、デンマークで貿易を営む裕福なイギリス商人の家に生まれました。

Chapman big picture

彼はその後ヨークシャーの寄宿学校に行き、法律を学びました。そして5年間の見習い期間を経て、1823年弁護士となりました。

劇的な回心

23歳になったチャップマンがジョン・ストリート教会の前を歩いていると、長老の一人が彼を呼びとめ、中に入るよう招きました。

中に入ると、ジェームス・H・エヴァンズという非国教会派の伝道者が熱心に語っていました。エヴァンスの語る御言葉は若いチャップマンの心に強く語りかけ、彼は劇的な回心へと導かれたのです。

すべてをキリストに

キリストにあって新生したチャップマンの変化には目まぐるしいものがありました。

幼児洗礼しか受けていなかった彼はエヴァンズに洗礼を志願し、すぐさまバプテスマを受け、ジョン・ストリート教会のメンバーになりました。

またそれ以前、有能な若手弁護士として社交界にも出入りしていましたが、回心後、彼はそういった世界から離れ、貧民街に行って、貧しい人々に熱心に奉仕するようになりました。

彼のこういった変化は、親戚や友人の反感を買い、時を経ると共に、彼は数多くの友人を失いました。

しかし貧しい人々に奉仕を続ける彼の姿は、いとこの夫であり同僚の弁護士でもあったパグスリーの心に回心をもたらし、その結果、パグスリーも貧民街で奉仕するようになりました。

社会の出世階段を下りて

こうしてキリストとの関係が深まっていくにつれ、チャップマンは弁護士としての自分の仕事とキリストの教えとの間にいくつかの葛藤を覚えるようになっていきました。

例えば、ある時彼は、原告と被告が共にクリスチャンであることを知りました。

「これは明らかに1コリント6章の御言葉に反している。クリスチャンがお互いに訴え合うことは御心ではないのだ。はたして私はこういう裁判に関わっていいのだろうか。」彼の葛藤は深まっていきました。

1832年、チャップマンが29歳の時ですが、彼は自分がみことばの奉仕に専念するよう神の召しを受けていることを確信するようになりました。

折しもバーンズタプル地区から牧師としての招きを受けた彼は、持ち物をすべて売り払い、下層民の住むバーンズタブルに移り住みました。

こうしてニュー・ビルディング通りの6番地は、その後70年に渡って、バーンズタブルのオアシスとなり、人生に疲れし旅人たちの憩いの場となりました。

彼のアパートは「どんなクリスチャンでも、どんなに貧しい人でも、気後れすることなく入ってくることのできる」きわめて簡素な住まいでした。

チャップマンは常々こう言っていました。

「招待されてうちにいらっしゃった方、あなたを歓迎します。そして招待されずにいらっしゃった方、あなたを二重に歓迎いたします。」

こうしてありとあらゆる人がチャップマンを慕って、ニュー・ビルディング6番地にやって来るようになりました。

また、チャップマンの住まいは、ハドソン・テーラー(中国)、アンソニー・グローブズ(イラク・インド)といった現役の宣教師たちが一時帰国して、ほっと息をつくことのできる癒しの場ともなりました。

彼の遣わされた教会は厳格なバプテスト教会でしたが、この教会からの招きに応じるにあたり、チャップマンはただ一つの条件を挙げました。

それは、「聖書に記されていることで私が見い出したすべての真理を、はばかることなく自由に教えることを承認してください」ということでした。

また、ここの教会員は、「浸礼以外のバプテスマを受けた人と共にパン裂きにあずかるべきではない」という立場に立っていました。そしてこれはチャップマンとは異なる見解でした。

しかし彼は自分の内的確信を性急に教会員に押しつけることはせず、御言葉からその問題について忍耐深く教え、むしろすべての教会員が一つ心となれるよう労しました。

また分派を起こした一部の人々は、チャップマンをはじめとする教会員が礼拝堂を使わないよう、ある意味不当な要求をしてきました。

それに対しても、彼は争うことをせず、会堂を分派を起こした者たちに明け渡しました。

「上着を求める人には与えるのです。」と彼は文字通り、山上の垂訓を生きていたのです。

チャップマンの人格

ここで彼の人となりを表すエピソードをご紹介しましょう。

チャップマンは陰口・中傷というものを何よりも避けていました。

もし誰かが彼に第三者の悪口を言おうものなら、彼はすぐさま、「その兄弟の元へ一刻も早く行って、そのことを直接彼に言いましょう。」と答えました。

そうするとたいがいの人は恥じ入って、口をつぐんでしまうのが常でした。

ある時、一人の姉妹がチャップマンの元に来てこう言いました。

「先生。○○姉妹が私にこんなことをしたのです。」

チャップマンはじっと彼女の話に耳を傾け、彼女の訴えがひととおり終わると尋ねました。

「おっしゃりたいことはそれだけですか?」

「いえ。実はもう一つあって。」

「では、それも全部お話ください。」

こうして話が終わると、チャップマンは言いました。「ちょっと失礼します。」

そして部屋を出て行きました。

そうしてコートを着て再び部屋に入ってきました。そして聖書を片手に彼は言いました。「私はこれから出かけます。」

「でも、先生。私、先生に相談をしにうかがったんですけど!」

「ええ、アドヴァイスしますとも。」彼は答えました。

「これからあなたは私と一緒にその姉妹の所に行くんですよ。私はうわべで判断せず、いつも両方の言い分を聞くことにしているんです。」

彼女はしぶっていましたが、チャップマンに説得され一緒に行くことにしました。

こうしてその女性の家を訪れると、すばらしい変化が生じたのです。

文句を言っていた姉妹は聖霊により、自らのクリスチャンらしくない言動を示され、くずおれるように悔い改めたのです。

こうして二人の姉妹の間に和解が生じました。

また別のエピソードですが、ある兄弟が、あまり冴えない説教を聞いた後、隣りに座っていたチャップマンにこう語りかけました。

「大した説教じゃありませんでしたね。ねっ、そうじゃありませんでしたか?」

「じゃあ、そのことをぜひ説教者に直接言いに行きましょう。」とチャップマンは立ち上がり、すぐにも説教者の所に行かんばかりの様子でした。

しかし全く茫然となった批判者の姿をみた彼は、説教者の陰でこのような否定的なコメントをすることの害毒について、この人に指摘しました。

My aim is to live Christ

愛と赦し

チャップマンはどの教団からも給料を受け取ることを拒否し、すべての必要が満たされることをただひたすら主に委ねていました。

ここでチャップマンの愛と赦しを力強く物語るもう一つのエピソードをご紹介したいと思います。

ある時、いとこのヘンリー大佐が、「ロバートはこんな界隈で何をしているんだろう?」と好奇心にかられ、彼の元にやって来ました。

いろんな泊り客がいる大世帯なのに、食糧室をのぞくと、ほとんど何も食べ物がありません。

ヘンリー大佐は、「ぜひ食料品の差し入れをさせてくれ。」とチャップマンに申し出ました。

それを聞いたチャップマンは喜んでその申し出を受けましたが、その際、「必ず○○食料品店に行って、買い出しをしておくれ。」と大佐に念を押しました。

こうして大佐は○○食料品店に向かったのですが、そこの主人は、届け先が「ロバート・チャップマン」となっているのを見ると、顔色を変え、「お客様。おそらく届け先をお間違えになっていると思いますが、、、」と言いました。

「いや。確かにここだ。というのも、いとこがわざわざここに来て買うように僕に念を押していたから。」

それを聞いた店主の目からは涙があふれ始めました。

「あの方がそういうことをする人だって聞いたことはありましたけど、まさか本当だとは思っていませんでした。

実はこの前の土曜日、野外伝道集会の席で、私はチャップマン氏の顔に唾を吐きかけたばかりなのです!」

何年にも渡り、チャップマンに嫌がらせをし続けてきたこの男はこうして完全にくずおれました。

そしてすぐさまニュー・ビルディング6番地に行くと、泣きながらチャップマンの前にひざまずき許しを乞いました。

そしてその日、彼はキリストを救い主として受け入れたのです。

チャップマンの霊的生活

チャップマンは生涯を独身で通し、きわめて規則正しい生活を送りました。

彼は朝3時半か4時に起床し、しばらく周囲を散歩し、冷水でシャワーを浴びた後、デボーションの時を持ちました。

御言葉を読んだ後には、何時間もの間、彼は近くにいる人々、遠くにいる人々のためにとりなしの祈りを捧げました。こうして彼のデボーションと祈りの時は午前中いっぱい続くこともありました。

ハドソン・テーラーが七年ぶりにイギリスに一時帰国した際、チャップマンは彼にこう言いました。

「私はこの七年間、毎日、あなたの元を訪れていましたよ。」

中国奥地宣教団(China Inland Mission)のあの力強い働きの背後には、このしもべの誠実な祈りがあったのです。

またジョージ・ミュラーの記録によると、チャップマンは、毎週土曜日を神様だけと共に過ごす日と聖別していました。

この日だけはすべての面会を謝絶し、昼食もとらず、彼は一人、神の前に座っていました。

彼は小さな部屋にこもり、台の上に広げた聖書を置き、ろくろで陶器を作っていきました。ろくろを回すという行為は彼にとって精神を集中する助けとなっていたようです。

そして主に示されることがあると、彼はその場にひざまずき祈りました。

プリマス・ブラザレンの悲しい分裂に直面して

1840年代に入ると、神の御言葉を愛するしもべたちの間に悲しい分裂が生じました。

次第にセクト主義の傾向を強めていったJ・N・ダービーおよび彼のグループは、チャップマンやジョージ・ミュラーの教会との交わりを拒絶し、やがて、こういったダービーの群れは、「エクスクルースィブ(閉鎖的)・ブラザレン」と呼ばれるようになっていきました。

そして「エクスクルースィブ」と「オープン」ブラザレンの亀裂は年を追うごとに深くなっていきました。

しかしそんな最中にあっても、ロバート・チャップマンは、自分たちとの交わりを断った教会を「エクスクルースィブ」という否定的な名前で呼ぶことを避け、「いとしい、最愛の兄弟たち」と呼び続けました。

さらに、彼らのことを「彼らの良心が私との交わりを拒絶し、私を遠ざけた兄弟たち」と表現しています。

私は彼のこういった姿勢に心底感動しました。

実は、ロバート・チャップマンの伝記をブログに書こうと思った一番の動機も、彼のこの言葉によるところが大でした。

自分を拒絶し、同胞クリスチャンとしての交わりをかたくなに拒むグループの人々に対するこの愛、そしてこのこまやかな配慮。

「それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」ヨハネ17:21

チャップマンは、こう祈られたイエス様の心を真に理解していたしもべだったと思います。

そしてチャンプマンと同様、このような心を抱くクリスチャンは、たとえ多少、互いに意見や解釈の相違があったとしても、教団教派を超えて、熱く愛し合うことができると思うのです。

おわりに

ロバート・チャップマンは100歳で召されるまで、絶え間なく奉仕し、祈り、神の召命に生きました。

また彼は当時、禁教下にあったスペイン宣教にも重荷があり、三時期に渡り、スペインの地で福音の種を蒔きました。

彼は栄光はすべてイエス様に帰せられるべきとの信念から、あらゆる自己宣伝の場を避け続け、できるだけ隠れた所にいるよう努めていました。

しかし彼の愛と無私の奉仕は、多くの人々の人生に深甚な影響を及ぼし、その名声は世界中にひろがっていきました。

そのことを裏付ける一つのエピソードがあります。

ある海外からのエアメールがイギリスの郵便局に届きました。宛名のところにはただ、

英国 
愛の大学 
R・C・チャップマン様


とだけ書き記されていたにも関わらず、この手紙はちゃんと受け取り主の元に届いたのです!

「人に知られないようでも、よく知られ、、、」(Ⅱコリント6:9)

私は時を超えて、このような主のしもべに出会うことができたことを神様に感謝しています。

そして、彼の生涯を記事にすることができたことを感謝しています。

彼の生き方と信仰が私に大きな感銘を与えたように、この記事を読んでくださった兄弟姉妹にとっても恵みを与えるものとなりますように。アーメン。

Chapman word








スポンサーサイト

涙の谷―原理主義者からキリスト教伝道者へ/T兄の救いの証し(エジプト)

ホンジュラスの未亡人カルメンさんの話のつづき

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。