18 Novem

私は多くの姉妹がこう言うのを聞いてきました。「私だって結婚したいんです。でもほら、日本のクリスチャン男性って頼りがいがないじゃないですか?」

これは本当なのでしょうか。なぜ、姉妹たちはこういう風に感じているのでしょうか。

「日本のクリスチャン男性=世の男性より男らしくない、頼りがいがない」という評価はいったいどこから来ているのでしょうか。

この問題は深刻だと思います。なぜなら、そういう発言をしている姉妹の多くが、結局、クリスチャン男性ではなく、世の男性と交際を始め結婚していっているからです。

そして未信者と「つり合わぬくびき(Ⅱコリント6:14)」をつけるという人生の選択をすることにより、神様を悲しませてしまっているからです。

☆☆

これまで私は「クリスチャン女性の生き方・価値観」というテーマでいくつかエッセーを書いてきました。

しかし今日は、上記のような理由もあり、男性らしさ(masculinity)ということについて少し考えてみたいと思います。

「クリスチャン男性は脆弱だ、頼りない」と嘆いている姉妹たちのお話を聞いていて、私はその根底に二つの問題があるように思いました。

まず一つ目は、何をもって男らしいと考えるかについてです。

ある姉妹は、信仰を持ち教会に通っていても、依然として心の奥深いところで世的な価値観の詰まったボックスを大切にしまっています。

そのため、財力や世的な肩書きのない男性は彼女にとってどうしても「頼りなく」思えてしまいます。

しかし真にキリストのものとされ、主の御国のために生きようとしている男性の多くは、通常、世の富・栄えを捨て献身しているため、この世的なスタンダードでは、みすぼらしくshabbyな感じにみえるかもしれません。

鎧で身を固めたゴリヤテを男らしいとみるか、それとも、石ころを持ち「万軍の主の御名によって」戦いに挑んだ少年ダビデを男らしいとみるか。

あるいはらくだの毛で織った物を着、いなごと野蜜を食べていた住所不定の男性、バプテスマのヨハネを男らしいとみるか、それとも、宮廷に住み、経済的にもがっしりしていたヘロデを男らしいとみるか――。

これは私たち姉妹の価値観に関わる問題だと思います。

私たちの心の目が開かれ、この世の富や地位や名誉ではなく、キリストにある天の富にすべての関心が向けられる時、私たちは、目の前にいる敬虔なクリスチャン男性のうちにひそむ真の男らしさ、力強さを発見するにちがいありません。

そしてそういう男性の助け手となりたい、貧に苦しむことがあっても、世の人にあなどられても、この人と共に十字架の道を歩んでいきたいと願うようになると思います。

☆☆

さて二つ目ですが、頼りないと思われている男性はもしかしたら、これまで家庭でも教会でも「男らしさ」について学んでくることができなかったのかもしれません。

私は以前、姉妹の立場から「フェミニズムからの回復」という記事を書きましたが、フェミニズムからの回復は現在、女性だけでなく、男性にも必要なものかもしれません。

というのも、フェミニズムが浸透するところではどこでも、真の男らしさが歪められるからです。

それは、まっすぐ伸びようにも上に柵があって、いびつな形でしか成長できない若木のようなものです。

それでは真の男らしさとはどういうものなのでしょうか。

私はそれを(夫を含めた)自分の身近にいる敬虔なクリスチャン男性のうちに多く見出していますが、今日はそのうちのいくつかを書こうと思います。

まずは、なんといっても力強く守ってくれる男性に、私は男らしさを感じます。

ギリシアの役所は日本のように丁重ではなく、ひどく乱暴な応対を受けることがしばしばあります。私の夫は婚約時代も今も、私をそういうつらい目にあわせないようにと、いつも私をエスコートし守ってくれます。

またリーダーシップのある男性に、私は男らしさを感じます。

さらに少々のことには動じない、がっしりした信仰のある男性に、私は男らしさを感じます。頼もしいなと思います。

それからお年寄りや子ども、小さな者にやさしい気配りをし、手荒なことをしない男性に、私は男らしさを感じます。

☆☆
おわりに

最初の問いに戻ります。はたして日本のクリスチャン男性は、頼りがいがないのでしょうか。

でもこういう表現自体、私はなにか肌寒いものを感じてしまいます。

そこで私は表現を変えてこういう風に言い直したいと思います。

「私たち日本の姉妹は、どのようにしてもっとクリスチャン男性のうちに男らしさを見い出していくことができるのでしょうか」と。

私たちは病んだ時代に生きています。それは男性も女性も変わりありません。

聖書的な意味での真の男らしさ・女らしさを歪めよう、亡きものにしようという動きが、教育現場でも、メディアを通しても、法律の場でもしたたかに進められています。

こういった時だからこそなおさら、私たちクリスチャンは、反聖書的な流れに抗し、男女共に心を合わせ、失われつつある聖書的男性像・女性像(Biblical manhood & womanhood)を求めていくことが望まれていないでしょうか。

そしてー教会であれ、家庭であれー、男性が男性らしく、女性が女性らしく生きていく真摯な決意がなされるところで、私たちは今後すばらしい回復を目の当たりにしていくことでしょう。


(↓♪賛美歌 The Sands of Time are Sinking, Annie R.Cousin, 1857. Sung by Altar of Praise Chorale)










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