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(↑トルコ・ギリシアの特製パン:チュレキ

愛する同胞姉妹のみなさん、こんにちは。まずはじめに、なぜ私がこういう記事を書こうと思ったのかそのことをお話したいと思います。

先日、主人が一人で賛美を歌っていた時、私は心の中で一瞬、〈主人は音痴なのではないか〉と彼を評定してしまいました。そしてそのように裁いてしまった自分を恥じました。

主人は私が奏楽でしくじってもいつも、「大丈夫だよ。神様にとって大切なのは、あなたの技巧ではなく、賛美するあなたの心なんだから」と励ましてくれます。

でももし誰かが、私の奏楽をききながら「なんてひどい演奏だろう。こんなに下手くそなのに彼女はよくも人前で奏楽しようなんて思ったものだ。。」と裁いたとしたら、私はきっと相当落ち込んでしまうと思います。

「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(エペソ5:24)という御言葉があります。

私は思うのですが、夫に従うことを妨げる要素として、この「裁く思い」というのは無視することのできないクセモノです。

なぜなら、人を裁くというのは、自分を神の裁きの高台にのしあげる行為だからです。つまり、意識的にしろそうでないにしろ、裁く瞬間、私は相手を自分より下に見ているのです。

そして相手を自分より下に見る時、私は相手を尊敬していません。

そして尊敬していない相手に従わなければならない――これほど難しいことはないと思います。

ですから、従順な妻として日々成長していく過程において、私たちはこの「裁く思い」に宣戦布告する必要があると思います。

1 flower in the rain

それでは具体的にどのようにして私たちは「裁き」というこの罪から解放されるのでしょうか。

以下は私自身がこの罪と戦う中で祈り、実行していることです。

1)主イエス様に「どうか私の心を照らし、罪人としての私の本当の姿を示してください」と祈る。

自分の罪に鈍感で、自分のことを「ましな人間」と思っている人ほど、いとも簡単に人を裁く傾向があります。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と祈ったあの高慢なパリサイ人がその典型です(ルカ18:11)。

自分の醜い罪が主の光によって一つ一つ明るみに出され、悔い改めに導かれるのは二重の意味で祝福だと思います。

なぜなら、これにより、私のこの罪のために死んでくださったイエス様の贖いが私の人生の中でよりリアルのものとなり、イエス様への愛がいっそう増し加わるからです(ルカ7:47)。

さらに、罪人としての自分のリアリティーが明らかになればなるほど、私たちは謙遜にさせられ、そうすると、不遜にも神の裁きの高台にのぼろうなどと思わなくなるからです(詩51:3、17)。

2)思想生活の「大そうじ」をする

これは「裁く思い」に対する信仰の戦いを含め、従順な妻として成長していくために私が重要視していることです。

現代のこの世は、聖書的従順を忌み嫌い、これに真っ向から(あるいはひそかに巧妙に)逆らっています。

メディアを通し、娯楽産業を通し、私たちは「従順というのは抑圧的。さあ、のびのびと自由に生きようじゃないか。自分の欲望に正直になろうじゃないか。それこそ人間らしいありのままの生き方じゃない?」というメッセージを刷り込まれています。

また悪があたかも善であるかのように描かれることにより、罪に対する私たちの感覚は麻痺させられようとしています。

ですから、このような状況の中で、あえて従順な妻であろうとしている姉妹は、日々の思想生活をよくよく見張る必要があると思います。

たとえば、テレビドラマや映画のことを考えてみてください。ドラマや映画は、映像や音響の効果もあって、私たちの思想生活に大きな影響を及ぼします。

たとえば、非聖書的なメッセージを含むドラマシリーズは、日曜の礼拝説教の100倍くらいのパワーでもって、私たちを良からぬ方向へ引っ張っていきます。

私たちはテレビドラマの描き出す男性像・女性像に影響を受け、知らず知らずのうちにこういった世的な人生哲学でもって物事を考え、行動するようになるのです。

さきほど思想生活の「大そうじ」と書きましたが、私はⅡ歴代誌34章にでてくるヨシヤ王の「そうじっぷり」が好きです。

ヨシヤ王は炎の信仰者でした。彼は「大そうじするぞ」と決意するや、バアルの祭壇を取りこわし、香の台を切り倒し、アシェラ像や、刻んだ像を粉々に砕きました。その砕き方は徹底していました。

愛する姉妹のみなさん。私たちも「よーし」と腕まくりをし、自分たちの思想生活を大そうじしようではありませんか。

自分が日頃、何を見、何を聴いているのか。
どんな本を読み、どんな種類の小説を読んでいるのか。
どんな人々と日頃、親しくしているのか。

そしてこの大そうじをする際、大切なのは、思いっきりのよさだと思います。

主に「ダメ」と示されたものとは断固として縁を切るのです。未練を残さず、きっぱりサヨナラするのです。というのも、ここで思い切らずになまじ「高き所」を残しておくと、信仰が弱くなった時に、またそこに逆戻りしてしまう可能性があるからです。

3)聖霊の力を求める

「裁く思い」という自分の罪と真剣に戦えば戦うほど、私は、自分の力をもってしては、この悪の根をもぎとることはできないことに気づきました。私は自分が高慢で、裁く者であることを認めます。そして聖霊の力を切に求めています。

私の周りにも、大きな問題を抱えたご主人を持つ姉妹方がいらっしゃいます。ここでいう問題というのは例えばアル中、ヘロイン中毒などです。しかし問題は中毒だけにとどまらず、それぞれ千差万別です。

こういうご主人と毎日顔をつき合わせながら、しかも彼を裁かず愛すというのは、本当に大変なことです。

私は彼女たちの信仰と忍耐にただただ敬服しています。そして彼女たちに主からの特別な慰めと助けが与えられるよう祈っています。

この聖霊の力を求める上で、私は断食と祈りが非常に有効であることに気づきました。

例えば、裁きたくないのに、夫を裁いてしまう自分がいるとします。そういう時、日を決めて、そのテーマに絞って断食するのです。そして主の憐れみと罪に打ち勝つ御霊の力をひたすら求めるのです。

私の体験では、こういった集中した祈りと断食は、相当な効果をもたらします。神様は私たちのその祈りにすばらしく答えてくださるのです。

最後に、私の尊敬するある姉妹が作ったカードのことばを紹介します。(日本語訳は下)

Resolved to edify your husband

すべてのことにおいて、あなたのご主人を建て上げるよう、決心なさってください。

ご主人が傷ついている時、ダウンしている時、彼を引き上げてください。毎日、彼のために祈ってください。

ご主人を教えようとしたり、変えようとしたりしないでください。彼に対して心に何かしこりがある時も彼をゆるしてあげてください。

ご主人を高め、敬意を示してください。彼を応援する最高のチアリーダーになってください。

ご主人が――逃げ出したいと思うような家庭ではなく――駆け込みたいと思うような、そんな家庭をつくってください。

自分、自分ではなく、与える人になってください。「私は被害者なの」というメンタリティーをきっぱり拒絶してください。

ご主人についての否定的な言葉を人に言ってはいけません。彼をばかにしたり、物笑いの種にしてはいけません。

聖書の中で、妻としての役割について書いてある箇所を探し出し、その御言葉に生きるようにしてください。

これまでのことばを要約します、、、あなたがそう接してもらいたいように、彼にも接してあげてください。




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