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慎み深い服装のことに関する一連の記事を読んで、「具体的に私は今後、どういう服を着るべきなんだろう?どういう基準を持つべきなんだろう?」と考え始めた姉妹の方がきっといらっしゃると思います。

今日はそういった実践的な点について、ご一緒に考えていきたいのですが、その前に、私は一つのことを姉妹のみなさんに予告しておきたいと思います。

それは私たちがこの道に進もうとする時に受けるかもしれないマイナス評価についてです。

ある人は、あなたの変化をみて、「律法主義的だ」と批判するかもしれません。あるいは「あなたは神の恵みから外れてしまっている。行ないによる義を求めている」と言われるかもしれません。

そこで本題に入る前に、まず律法主義について少し考えてみたいと思います。

☆☆

まず申し上げたいのは、律法主義(legalism)という言葉自体は、聖書のどこにも存在しないということです。

つまり、これはあくまで人間が作った言葉なのです。ですから、何が律法主義的で何がそうでないのか、しっかり吟味する必要があると思います。(律法主義の定義についてネットで調べてみたのですが、日本語ではまとまった説明文を探すことができませんでした。英語版のウィキペディアLegalismの項はココです。)

マタイ12:1-7、マタイ23章等で、イエス様は、律法学者たちやパリサイ人たちを厳しく叱責しています。

「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」(マタイ23:25-26)。

ここから教えられるのは、私たちが外側のことばかりにとらわれ、肝心の内的聖さをないがしろにする時、それは主の前に「忌まわしいもの」であるということです。

ですから、私たちがいくら慎み深い服装で身を包んだとしても、内側に人を赦さない心、悪意、汚れた思い、高慢さ等が依然として巣食っているなら、私たちはなるほど「律法主義者」と批判されても仕方がなく、それは的を射た批判だということになります。

その場合、私たちは謙遜にその忠告を受け入れ、悔い改めるべきだと思います。

また23節でイエス様はこのようなこともおっしゃっています。

「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(マタイ23:23)。

ここでイエス様は、律法の重要度というのは均一ではなく、例えば、十分の一税を払うという律法よりも、正義・あわれみ・誠実を実践するという律法の方がもっと大切だとおっしゃっていると思います。

これを現在の私たちのテーマに適用するならば、慎み深い服装はマイナーなもの、それに対して正義・あわれみ・誠実といったものはよりメジャーなもの、より重要なものということになるでしょう。

私たちが慎み深く身を包むことは主の目にかなったことです。しかし、そこに価値を置きすぎる余り、まだそういう段階に達していない他の姉妹を「世的だ」と裁きはじめるなら、イエス様はそういう私たちを「忌まわしい者だ」と叱責されるでしょう。

一人一人の信徒に対する主の取り扱いは、それぞれ独自のペースと段階があるように思います。

大切なのは、たとえ霊的な段階や地点は異なっているとしても、主は今ある状態の私やあなたや彼女を受け入れてくださっているということだと思います。

その意味で、あのパリサイ人と取税人の話(ルカ18:9-14)は私たちに永遠の教訓を与えてくれていると思います。

☆☆

しかしながら、上述したような批判とは別に、「律法主義」という言葉は最近、異なった動機で用いられている場合が多いように思います。

実際、今日、「律法主義」という言葉ほど、福音主義教会で多用され、かつ乱用されている言葉は少ないように思います。

それはあたかも万能殺虫剤のごとくあります。人々はシュシューといとも簡単にこの言葉を他のクリスチャンにふりかけ、相手の信じていることやその聖書的根拠をよく調べもせずに「あの人は律法主義的だ」と断じる傾向が強いのです。

しかしイエス様ご自身、繰り返し「わたしの戒めを守りなさい」とおっしゃっています(ヨハネ14:15、21、23、24。ヨハネ15:10等)。

それに考えてみてください。もし御言葉に従おうとすることが律法主義的なら、ルカ13:24、マタイ7:21のような発言をされたイエス様自身、律法主義者ということになってしまいます!

こういった問題に関し、ボンヘッファーは次のように言っています。

「単純な従順が根底から除去されるところでは、イエスの招きの高価な恵みは変じて自己義認の安価な恵みになることがしばしばである。

、、律法主義はただ、服従へと招くイエスの恵みの招きに現実に従順であることによってのみ克服される」(『キリストに従う』 p68、69)。

ですから御言葉に従い、その戒めを守ろうとすることは律法主義ではないのです。

私たちは、他のクリスチャンを律法主義的だと裁く前に、そう考える自分の心の動機を深く探り、そこに不従順な思い、世を愛する思い、狭い門をくぐりたくない思い等がないかどうかをよくよく自問してみる必要があると思います。

「神を愛することは、神の命令を守ることです」(Ⅰヨハネ5:3)と使徒ヨハネは高らかに宣言しました。それからさらに彼は次のような言葉を付け加えました。

「その命令は重荷とはなりません。」――これは驚くべき言葉ではないでしょうか。

私は長い間、なぜヨハネがこのようなことを言ったのか不思議に思っていました。「十字架を背負いなさい」「自分を否みなさい」「敵を愛しなさい」等、こういった命令ははっきり言って重荷ではないでしょうか?

でも最近、すこしですが、彼の意味するところが前より分かってきたような気がします。ヨハネは主の命令ひとつひとつの背後にある御父の大いなる愛と目的を熟知していたのでしょう。

そして詩篇記者のように、「私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています」(詩119:167)と心から御父に申し上げていたのでしょう。

だから、主のどんな命令も彼にとっては重荷ではなく、むしろ喜びそのものだったのです(詩119:14、16、24、35、47、77、97、111、127、159、163、174)。

☆☆

バックナンバー「姉妹の服装についてー私の告白―(ココ)」の中でも書きましたが、私たちが慎み深い服装で身を包む最大にして最も大切な動機は、主の前に聖い娘でありたいという願いと隣人に対する愛だと思います。

私は非常に敬虔な兄弟たちが、「先週、私の目は罪を犯してしまいました。ああ主よ、どうか私を赦してください。」と苦しみ祈る姿を何度かみてきました。

こういった神のしもべたちは、電車の中で、会社で、学校で、通りで、ありとあらゆるビジュアルな誘惑にさらされながら、日々、懸命に戦い祈っているのです。

月曜から土曜までそうやって戦い続けてきた兄弟たちがようやく日曜日、魂の安息を求めて教会にやってきます。

でも最近では、最後の砦であるはずの教会の中さえも、彼らに休みを与えないような環境になりつつあるのです。

私たちはそういった兄弟たちにつまずきを与えないような服装で身を包むことによって、相手を助け、隣人愛をもって相手に仕えることができます。

☆☆

それではここから具体的な服装の話に移っていきたいと思います。

ラウラ姉も「死にゆく貞節(ココ)」の中で述べているように、世の中の慎み深さのスタンダードというのは時々刻々と変化していっています。

そして年を追うごとに露出度が高くなっていっているのは誰もが認めるところでしょう。

ですから、私たちはまず、この世のスタンダードではなく、聖書の神様が望まれるスタンダードに自分の目標を設定する必要があると思います。

以下は、私が神様に祈り求めながら修正・変更していった服装の記録です。

聖書には「女性はスカートだけを履きなさい」という掟はありません。ですから、ズボンかスカートかという選択は私たち姉妹の自由裁量に任せられていると思います。

それはそうなのですが、私は個人的にロングスカートを履くことにしました。なぜかというと、タイトでないロングスカートはやはりすっぽりと体を覆ってくれるからです。

また、私はそれまでずっとズボン派だったのですが、ロングスカートに切り替えてから、自分自身、もっと女性らしさを感じるようになりました。

恥ずかしい話ですが、ズボン時代、私は時々あぐらをかいたりしていました。でもロングスカートで身を包むようになってから、そういった行儀やたち振る舞いの面も、以前に比べてかなり改善されました。

また、歴代の敬虔なクリスチャン女性たちの服飾史を調べながら、そこにある一つの共通した特徴があることに気づきました。――それは簡素さ(simplicity/plainness)です。

デザインにしても色や作りにしても、できるだけ虚栄のない、素朴でシンプルな服を彼女たちは着ていました。

「正真正銘の貴婦人は、その服装において何ひとつ目立つところがあってはならないとされている」(カール・ヒルティ『幸福論』白水社、p148)。

またウィリアム・ローは、敬虔なミランダ姉について次のように描写しています。

「彼女は服装に関して、ただ一つの規則をもっていた。それはいつも清潔であること、そしてできるだけ安価なものを、ということであった。

彼女に関わるすべてのことは、彼女の魂のきよさを反映していた。彼女の外側はいつも清かった。なぜなら彼女の内側がいつも清かったからである」(William Law, A Serious Call to a Devout and Holy Life, p.73)。

またブラウスなどにしても、襟元が開きすぎているような服は、修正がきく限り、自分で縫ってアレンジし直したりしました。また、毎年、衣替えをする時に主にきき、主から「これはあなたにふさわしくない」と示された服はその都度、思い切って捨ててきました。

このようにして私は、服装に関して悔い改めたあの晩以来、主の目にふさわしい服装で身を包むよう、自分としては精一杯努めてきたつもりです。

でもそれがあくまで段階的であり、まだまだ不完全なものであることも十分承知しています。

というのも、主の光に心を照らされた範囲内でしか私たちは物事の真相をみることができないからです(詩18:28、Ⅱコリント4:6、詩119:130、箴6:23参照)。

その証拠に、4年前の私の服装と、現在の私の服装は同じではないのです。4年前も今も、服装を改めようというその真剣さにおいては同じでした。でも4年前には見えなかったものが、今年は見えるようになっているのです。

どうしてそのようなことが可能なのでしょう?聖書をひもとくと、それは御霊なる主の働きによるものだと説明してあります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:18

ですから私の祈りは、日々毎に、主が私の心をご自身の光で照らしてくださり、もっともっと明瞭にはっきりと主のみこころおよび基準を知るようになることです。そして日々、成長していくことです。

また同時に、律法主義の深淵に陥ることのないよう細心の注意を払っていきたいです。

☆☆
おわりに

姉妹の服装というのは、サタンの道具になることもあればその逆に、主の栄光をあらわすすばらしい表現手段ともなりえます。

私たちが、主を愛し隣人を愛する動機をもって慎み深く身を包む時、この世は――私たちにそういう願いを起こさせている――聖なる主の存在を意識しはじめます。

つまり私たちの服装それ自体、この世に向かい、ある力強いメッセージを放つのです。

聖書によれば、イエス様の教えは、内から湧き上がって外へと溢れだすいのちの川です。そしてそれは私たちのうちで泉となり、そこから永遠のいのちの水がわき出でるのです(ヨハネ4:14、7:38)。

こうした内側と外側の一貫性と調和、そしてその間を行き来する自由な御霊の流れ――、これがイエス様の福音を他のどの宗教、哲学とも違わせているものだと思います。

主よ、私たち姉妹が、内にも外にも慎み深さをたたえ、この暗き世にあなたの福音の光を放っていくことができますよう助けてください。

イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。



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