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私は前回の記事の中で、祈りのベールが祝福の戸であり、そこを開けると、次から次に新しい祝福の戸が開かれると書きました。

今日は、そうやって開かれた祝福の戸のひとつについてお分かち合いしたいと思います。

私は昨年の秋からフルタイムで祈りのベールをつけ始めたのですが、その後、1テサロニケ5:17の「絶えず祈りなさい」という御言葉に今までにない光が当てられるようになったのです。

私はそれまでもこの聖句はすばらしいと思っていましたし、パウロのいうようにキリスト者として私はいつも祈るべきだと考えていました。でも心のどこかで「いや、でも絶えず祈るというのは私には無理」とあきらめている自分がいました。なんといいましょうか、はじめから匙を投げているような、そんな感じでした。

でも祈りのベールという目に見える布が頭の上に常にあるというその事実は、霊の領域において私に新しい視点を与えてくれたのです。そして「ああ、絶えず祈るという行為はけっして不可能なことではなく、実際に可能なんだ」という信仰が与えられたのです。

だからといって今私は絶えず祈れているわけではありません。でもそれが可能であるという信仰が与えられたことは私にとって大きな出発点となりました。

そうして聖書を新たに読んでみると、たしかにパウロは「絶えず」祈っていたようなのです。そういう形跡を私はあちこちにみつけることができました。

たとえば、エペソ1:16「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」とあり、

また同じくエペソ6:18「絶えず目を覚ましていて」

それからⅠテサロニケ1:2-3では、「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」とあります。

でもこれまでそれをあまり真に受けていなかったのは、私自身、その言葉の真の意味や重さを考えることなく、それらを形式的に使っていたからでした。

「あなたのためにいつも祈っています」と言ったり書いたりしてきましたが、その中身は実際、不忠実なものでした。

こうして自分自身が不忠実だったので、他の人(たとえばパウロ)が「絶えず祈っています。いつもあなたのことを覚えています」と書いていても、それを文字通り受け取ることができなかったのです。

しかしⅠテサロニケ5:17「絶えず祈りなさい」に光が当てられた時、私はこれが誇張表現でも、当時の形式的な言い回しでもなく、文字通り、「いつも」祈れと言っていることに気づきました。

そうです。主はできないことを私たちに命じられる方ではないのです。それは主にあってたしかに「可能」なのです。

☆☆

The Way Of A Pilgrimというロシアのある農民が書いた本を読んだことがあります。すばらしい信仰書であり自伝作品でもあります。

主人公の純朴な農民が、Ⅰテサロニケ5:17「絶えず祈りなさい」という御言葉をきき、「どうやったらいつも祈ることができるのだろう?」と求道の旅にでます。

そして彼はただ乾パンと聖書、それからフィロカリアという祈りの本だけをリュックに詰め、祈りを教えてくれる篤信の人々を求めてどこまでも旅を続けるのです。

とにかくこの純真にして愛すべき主人公は、絶えず祈ることを追及してやまないのです。

私は最近、この主人公のことを再び思い出し、私も彼のように祈りを追及したいと思うようになりました。

それで私は今つとめて、自分の思考・思い・考えを、祈りにもっていこうとしています。

意識的にこの作業をはじめてみて気づいたこと、それはいかに自分の思考の世界にはよこしまで、とりとめもない思い、うぬぼれた思い、非生産的な思いが多いかということでした。

Ⅱコリント10:5には

「私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」

と書いてありますが、自分のうちに巣食う実を結ばない思弁や、高ぶった思いを、御霊の力によってキリストに服従させることがいかに大切であるかということに気づかされました。

☆ ☆

また、祈りを追求する中で、断食というのがいかに有益であるかということにも目が開かれました。

なぜモーセは40日断食したのでしょうか。なぜイエス様は40日40夜、荒野で断食したのでしょうか。なぜアンナは宮を離れず、夜も昼も、「断食」と祈りをもって神に仕えていたのでしょうか(ルカ2:37)。そしてなぜアンテオケの教会の人々は断食したのでしょうか(使13:2-3)。

私は断食のすばらしさを主人から教わりました。彼がしょっちゅう断食と祈りをしているのをみて、私もそれに倣うようになったのです。

はじめた当初は空腹感にたえられず、なかなか集中できなかったのですが、だんだんと回を重ねるうちに、上よりの力が与えられ、主の臨在のうちに長くとどまることができるようになっていきました。

また以前は主人と一緒でなければ断食する気持ちになれなかったのですが、今は一人ででも断食したいと願う日が多くなりました。というのも、食べる、飲む、ごはんを作る、といった日常の行為から離れ、主の前に静まることができるひとときは最高に幸せな時だからです。

肉の弱さ、自分の罪との戦いといった日々の労苦、悲しみがありながらも、いつの日か私たちはこの肉の衣を脱ぎ、永遠に主と結ばれるのです。断食と祈りにより、私は、そういったやがてくる世界、私たちの真の故郷に思いを馳せ、喜ぶことが前よりも多くなりました。

また、全世界で主の御名があがめられるように前よりも熱心に祈るようになりました。そしてあらゆる民族に福音が宣べ伝えられ、暗闇にいる人々が一人でも多く救われるように祈るようになりました。

「絶えず祈りなさい」という御言葉を探求する私の旅路はまだはじまったばかりです。

あのロシアの農民のように、私も一途に一心に求め続けていきたいです。


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