risu 2

現在、西洋諸国だけでなく、発展途上国やイスラム圏においてもフェミニズム思想は急速に拡がりつつあります。

「私自身、フェミニズムからの回復途中にあります」と語ってくださった友人のS姉妹(日本)は、アジアの児童買春や途上国におけるすさまじい女性への虐待の実態を取り上げつつ、「フェミニズムの根底には、女性に対する抑圧や差別、虐待に対する怒りがあると思います」と私に書き送ってくださいましたが、これは傾聴に値する指摘だと思いました。

私も以前、ネパールのカトマンズに数週間滞在していたことがあるのですが、そこでお世話になったネパール人ジャーナリストの家庭には、ギタという6歳の子供召使(奴隷)がいました。

彼女はいつも薄汚れた服を着て、家の掃除、皿洗い、給仕と、、何もかもやらされていました。食事時には、主人の家族と同じテーブルにつくことは許されず、一人薄暗い台所の床にしゃがみこみ、犬のように残飯を食べていました。それから何年も経ちましたが、私は今でもその子の哀れな姿を忘れることができません。

こういう実態を実際に見たり聞いたりすると、私たちの内には、虐げられている女性や子供に対する憐れみと同情がふつふつと湧き上がります。こういった女性や子供たちの権利のために立ち上がりたいとも思うでしょう。

本記事で、私はこれを読んでくださっているあなたと共に、こういった問題を考えていきたいと思います。

なぜなら現在、フェミニズムはこういった領域において大々的に自己の役割を主張し、全世界的に影響を及ぼしつつあるからです。

聖書を神の誤りなき言葉を信じる私たちクリスチャンは、こういった流れに対し、どのように対応し、かつ応答していくべきなのでしょうか。

☆☆
急速に進展しつつある中東フェミニズム

「私はね、男性優位で抑圧的な母国にはもう帰りたくないの」。中東のある国出身で、現在、ギリシアの大学の博士後期課程に在籍中のAさんは、私に打ち明けてくれました。

彼女は流暢な英語を話し、カナダの歌手セリーヌ・ディオンのファンで、かつ頭脳明晰な新世代の中東女性です。「抑圧」の象徴であるへジャーブはヨーロッパにやって来た時点ですぐさま脱ぎ捨てました。

「信じられる?つい何ヶ月前、私の国のある大学前で、狂信派の男たちが、へジャーブから髪の毛が少し覗いていた女子大生たちの顔面に酸性薬物の入ったボトルをふりかけてね、、それでね、かわいそうに、彼女たちの顔は見る影もなく溶け、両眼失明したんだよ。私、彼女たちの哀れな顔写真をネットで見て、怒りがこみ上げてきてどうしようもなかった。ひどい、ひどすぎる。」

Aさんの夢は今後、自由な国カナダで研究者としてキャリアを築いていくことです。

彼女は少し前、私を昼食に呼んでくれました。「ねえ、すっごく面白い映画があるから、一緒に観ようよ」と言って、彼女はラップトップを開け、そのフィルムを見せてくれたのですが、痛烈な男性バッシングの米国映画でした。

フェミニズム思想は、このようにして深く心に傷を負い成長してきた中東の女性たちの前に、――「自由の女神」のようにさんさんと輝きを放ちつつ――さっそうと登場してきました。

そして現在フェミニズムは、中東の過激な宗教の抑圧下に苦しむ女性たちを守る盾として、弁護者として、そして解放者としてのアピールを続けながら、急速に中東女性たちの心を捉えつつあります。

☆☆

現在、もっとも有名な中東フェミニストの一人として挙げられるのは、マリアム・レジャヴィー女史(イラン)でしょう。

彼女はイラクとフランスに本拠地を置く反政府組織モジャへディーンの頭首として、また国際的スポークスマンとして精力的に活動しておられます。

モジャへディーンというのは「ジハード(聖戦)を行う者」という意味ですが、1965年の創設以来、この組織は反政府テロ活動を行ない、当時のサダム・フセイン政権からのバックアップも受け、イランの宗教独裁政権に猛然と反旗を翻してきました。

彼女は「家父長的宗教独裁社会に毅然と立ち向かい、女性解放を叫ぶ孤高の英雄」として米国のフェミニストからの圧倒的な支持を受け、Feminist Majority Foundationという政治団体(米国)からも支援を受けています。

モジャへディーンの組織としてのイデオロギーは、マルクス主義とフェミニズムとイスラム主義との三本立てだといっていいと思います。

この組織は結婚・家族制度を否定し、加入する戦闘員に離婚を勧めます。また上級士官、組織幹部の多くは女性です。

創設以来、虐げられ、抑圧されてきたうら若い中東の乙女たちが、この組織に唯一の希望をみいだし、家族を捨て、夫や子供を捨て、戦闘員として身をささげてきました。そしてその多くが捕縛後、残酷な拷問を受けた後に処刑され、また人をテロで殺しまた殺されてきました。

マリアム女史の目指すところは、「男女の完全なる平等」であり、それを実現するにあたっては、積極的な男性差別をもいとわないことを明言しておられます。

こういった一連の流れをみて、胸を痛めない人がいるでしょうか。現在もイラクにあるモジャへディーンの基地には肩から機関銃を下げ、軍服に身を包んだ若い女の子たちが何千人といます。

日本に生まれていたら、この子たちは今頃、友達とカラオケに行ったり、受験勉強したり、恋をしたり、旅行に行ったりと、青春を謳歌していたことでしょう。

この子たちの魂を想い、だれか涙を流さずにはいられましょうか。イエス様は彼女たちのために泣いておられないでしょうか。

彼女たちは愛の福音を聞くこともなく、誰に愛されることもなく、誤った宗教イデオロギーから別の偽イデオロギーへと惑わされ続けているのです。

☆☆

女性解放とは何でしょうか。それは男女間のあらゆる差異をなくし、女性の権利をどこまでも拡大・主張していくことでしょうか。何をもって人は抑圧から解放されるのでしょうか。

私たち女性が社会進出を果たし、これまで男性で占められていた領域に踏み込んでいくことが、自由と解放なのでしょうか。

私がこのブログの中でお証してきたように、フェミニズムは偽りのユートピア思想です。

私たちは真理の霊に満たされ、この思想の正体とその実態を見破らなければなりません。なぜなら、すでに多くの福音主義教会が、この思想に侵され、純粋な福音を宣べ伝えなくなっているからです。

また悲しいことに同様のことが中東宣教現場でも展開されています。

中東からヨーロッパ・北米にやって来た女性たちの多くが、現在、イエス様を信じ始めています。

しかし彼女たちに福音を伝えている福音主義教会の多くが、フェミニズムの風味のついた福音を彼女たちに提供しています。

フェミニズムの表看板というのは一見実に美しく見えます。ですから、彼女たちはこの混ぜ物の福音をきいて、「これこそ真のキリスト教だ」と思いだまされるのです。

私の知る、こういった女性たちの7-8割以上がイエス様を信じた後、夫を離縁してきました。または離婚・再婚を繰り返しました。家庭が壊れました。私はそういった修羅場を自分の目でつぶさに見てきました。

☆☆

エリザベス・エリオットは、Let Me Be A Womanという著作の内表紙に次のような一句を記しています。

In order to learn
What it means to be a woman
We must start
With the One who made her


(女性であるということの意味を知るために、
私たちはまず、自分たちをお造りになった方を
知ることから始めなければならない。)

つまり真の女性解放というのは、私たちが創造主を知ることから始まるのです。

私たちが偽りのイデオロギーではなく、聖書の言葉に徹底的に立ち返る時に、私たちは女性としての回復を体験し、癒されるのです。

そして私たちが真の女性として回復されていく時、私たちの周りにいる男性たちも回復されていきます。

つまり男女共に、人間としての回復がなされていくのです。

フランシス・シェ―ファーはThe God Who Is Thereの中で、人間に対する真の関心を生み出してきたものはキリスト教をおいて他にないと言っていますが、これは正しい指摘だと思います。

「個としての人間に対する真実なるいたわりの源は、聖書的キリスト教から来ている」(Francis Schaeffer Trilogy, p 44)。

試しに、日本における廃娼運動の歴史、インドにおける婦人火葬(亡くなった夫の遺体と共にその妻を生きたまま薪に縛りつけ、火葬にしていた慣習)の廃止、中国における女性の纏足の廃止のいきさつを調べてみてください。

それらの悪習廃止の背後に、どれだけ聖書的キリスト教の力が働いていたかに、皆さんきっと感銘をお受けになると思います。

私の尊敬するS姉妹は、これに関してさらに次のようなことを分かち合ってくださいました。

「、、バングラの友人の国の貧困地域では今でも病気になった妻や娘を路上に捨てる事例がたくさんあるそうです。今でもこういった女性への虐待を聞くと怒りが沸き立つ心はあります。

でも本当に必要なのは、怒りではなく祈りと神さまのルールなのかもしれません。私が『キリストが教会を愛するように妻を愛する』という結婚の掟を知らず、貧しさに苦しむその国の男性であったら、同じことをしないとは言い切れないです。そういう意味で、世界宣教は神さまのルールを伝えるという意味でも大切な事なのですね。」

まことにその通りだと思いました。

私たちはこの世のむなしいあれこれに気をとらわれることなく、主イエス様のおっしゃる「本当に大切なただ一つのこと」―つまり神の国とその義―を求めて、すべてを注ぎ尽くすべきだと思います。

そしてイエス様が死んでくださったほどに価値のある人間が人間らしく尊厳をもって生きることができるよう、自らの財をもって、エネルギーをもって、フットワークをもって、ペンをもって、虐げられし人々のために尽くすべきだと思います。

愛は実践を伴います。本当に相手の幸せを願うとき、私たちは行動を起こさずにはいられません。

福音が本当に私の幸せなら、このいのちのメッセージを他の人々に伝えずにはいられないのです。

上述のマリアム女史は、22歳の時、国家の秘密警察によってお姉さんのナルゲスを殺されるという悲劇を体験しました。彼女をして戦闘的フェミニズムに向かわしめたものは、こうした痛みであり、深い深い悲しみだったのです。

彼女も傷を負う一人の尊い魂です。癒しを必要としているかけがえのない同胞女性です。

最後に一つの祈りを紹介して終わりにしたいと思います。

イエス様、

どうかわたしを強くし、
揺るがない心を与えてください。

あなたに対する愛に燃え立たせ、
岩のような決意でただ一つの目標に向かわせてください。

わたしが求めるのはただイエスのみです。

わたしは楽な道を願うことなく、
また、見ようとせずに、

ただ信仰によってあなたを心に抱き、愛します。
試練や苦しみの暗闇のただ中においても。

アーメン。

   ―マザー・マルテュリアの祈り―


スポンサーサイト

詩篇を歌うということについて

宣教師と語学習得―私の体験記―

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。