今日私は「自分の夫に従いなさい」という新約聖書の御言葉について現在心にあることを書きます。いえ、もっと正確にいうと、この言葉がパロディー化され、教会の中でさえ茶化されている現状を自分の目で見、自分の耳で聞き、私は御父の栄誉のために声を上げることにしました。

以前、ある牧会者数人とテーブルを囲んで談話したことがありました。その時、一人の方が、「私はね、すべてのことにおいて、妻に従います!」とエペソ5:24の御言葉をもじって大きな声でおっしゃいました。するとそれに呼応して他の人々も「その通り!」と調子を合わせました。

私はこうおっしゃった先生の顔をじっと見つめました。はたして冗談でおっしゃったのか、それとも本気で言われたのか、それを見極めようと思ったからです。でも結局私には分かりませんでした。〈なぜ牧会者の口からこういう言葉が発せられるのだろう?〉私にはそれが分かりませんでした。

こう書くと私は冗談を全く介さない堅物のように思われるかもしれませんが、そうではありません。私も楽しいことは好きですし、冗談を言って笑ったりもします。

でも私は自分が尊敬し愛している人の言葉が目の前で茶化される時、それを笑うことはできません。もしも自分の父親が真面目に言った言葉を、他の誰かがパロディー化して仲間と笑い合っている場面に遭遇したら、私は深く傷つくでしょう。そしてその方々に、「私のことを茶化するのはいいですが、私の父のことをそういう風に笑いものにする事はぜったいに二度としないでください」と言うと思います。

聖書は神の言葉です。御父が真面目に語られた言葉です。その人が真面目におっしゃった事を茶化すのは、その人自身を茶化すのと等しく、それは公にその人の栄誉を傷つけ辱める行為です。

特に聖書の中で語られる御父のメッセージというのは、人の生死に関わる重大な言葉です。愛する息子を失うほどの犠牲が払われた真面目きわまりないメッセージです。また、この中に記されている聖句一つ一つが現在まで保存されるために、無数の神のしもべの血が流されてきました。

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この記事を書きながら私の内側からは「天にいます父よ。御名があがめられますようにΑΓΙΑΣΘΗΤΩ ΤΟ ΟΝΟΜΑ ΣΟΥ」という祈りが繰り返し湧き上がってきました。

「あがめられますように」の(h)agiazoは聖別する、神聖にする、きよめる、崇める、聖とする、聖に保つなどの意味があり、イザヤ6:3の「聖なる、聖なる、聖なる(hagios)万軍の主」と同じルーツの言葉です。英語ではhallow, sanctify, consecrate, venerate等です。

私はagios(聖なる)という言葉をきくと、荘厳な至聖所のことを思い出します。そこには窓がなく、金の燭台からの明かりだけが中を薄暗く照らしていたのです。きっとそこには静寂さと厳かさそして聖さが満ち満ちていたことでしょう。

以前、崖の中に立つヨハネ(forerunner)修道院を訪れたことがあります。そこには数人の隠遁士が住んでいましたが、中の薄暗い礼拝堂に入った時、私は旧約に描かれている至聖所のことをふいに思い出しました。

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(↑崖をくりぬくようにしてこの修道院は造られました。はるか下の渓谷からはゴーゴーと川の音がきこえてきます。隠遁士たちは月に何回かラバに乗って渓谷を下り、日用品の調達にいくそうです。)

私は聖書を開き、そこに書かれてある神のみことばに触れる時、同じような荘厳さ、崇敬のスピリットをもって御父の前にひざまずき、その御声を聞きたいと願っています。

そしてその御言葉が聖いものとして保たれ、崇められることによって、御名が崇めれ、神聖なものされるよう祈ります。

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さて、夫に従いなさいという御言葉についてですが、私たちはいったい何を基準に「従う」ということを考えてゆけばいいのでしょうか。

私はその基準をエペソ5:22の中に見出しています。

「妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい。」

私たちはこの世の夫婦セミナーや書籍等の提唱する基準ではなく、神のご提示なさっている基準を夫に対する従順のあり方の目標としてセッティングする必要があると思います。

なぜかというと、この世には(そして教会の中でさえも時には)偽りの「常識」が多いからです。

例えば、私は世間でも、教会の中でも、「夫婦喧嘩は当たり前です。夫婦っていうのはね、みんな喧嘩しながら仲良くなっていくもんですよ」というようなメッセージを何百回と聞いてきました。みなさんはどうですか。こういうメッセージをよく聞きませんか。

でも私はこの前提自体をきっぱり退けました。なぜならこの前提には聖書的根拠が全くないからです。喧嘩というのはとどのつまり争いのことです。そして聖書はいたるところで争いが罪であることを明記しています。

「夫婦喧嘩は当たり前」という前提の上に結婚生活を築いていくのか、それとも「喧嘩、争いは罪であり、いかなる犠牲を払ってでも避けるべき悪だ」という前提の上に築いていくのか、この両者には大きな違いがあると思います。

それでは私はパーフェクトな妻なのでしょうか。いいえ、とんでもありません。私はぼーっとしていてよく物忘れをするんです。ヒーターの消し忘れ、電気の消し忘れ、携帯の電源のつけ忘れ、換気扇のつけ忘れ等、枚挙にいとまがありません。

うちのアパートの水道管は非常に古くてしっかりぎゅっと閉めないと蛇口から水がポタポタ漏れ続けます。それで主人は「しっかり蛇口の栓をひねるように」と私に言います。でも私は例によってそのことを忘れてしまいます。

それで台所でもバスルームでも水がポタポタ(時にはサラサラ)流れ落ちていると、直前の使用者が誰であったか一目瞭然に分かるのです。それで先日、ついに私は主人にしかられました。そして主人は「A4の紙にマジックで大きく、『蛇口をしっかり閉める』と書いて一番目に付くところに貼りなさい」と言いました。

それで私はそのようにしました。今、この記事を書いている私の目の前の壁には、『蛇口をちゃんと閉めること』と書いた自作ポスターがあって、ぼけぼけした自分を今日もキッとにらみつけているのです。

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さて、夫に従いなさいという掟についてですが、私たちクリスチャン女性には、「主に従うように」というさらに高いレベルでの恭順と尊敬が求められています。

女性が主に従うということを考える時、私はそこにうやうやしさ(reverence)をみます。

ダビデの前にひざまずいてとりなしたアビガエル、地面にひれ伏し「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます(ルツ2:13)」とボアズに申し上げたルツ、涙で御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った女(ルカ7:38)、主の「足もと」にすわって、みことばに聞き入っていたマリヤ(ルカ10:39)等から、私たちは主に従う真実なる姿勢を学ぶことができるように思います。

そうなのです。御言葉が私たち妻に要求しているのはまさにこのレベルの敬う姿勢なのです。世間一般の基準からいえば、常軌を逸した「ラディカル」な態度とみなされるかもしれません。

でも考えてみてください。主の足もとではなく、主の前にでんと仁王立ちをし、口角泡を飛ばしながら主にまくしたてているマリヤを想像できるでしょうか。

または「私だって疲れてるんだから自分の足ぐらい自分で洗いなさいよ」とぶつぶつ文句を言っている女(ルカ7:38)を想像できるでしょうか。

でも残念ながら現在私たちの生きている21世紀の世は、こういう女性たちが逆にクールでかっこいいというイメージを私たちに植え付けようとしているのです。

バニヤンの『天路歴程』の出だしのところにこういう箇所があります、主人公のクリスチャンが滅びの市から出て行こうとすると、奥さんや子供たちがその後を追いかけ「戻ってきて!」と叫ぶ始めました。すると、クリスチャンは、指を耳の中に突っ込み、「いのち、いのち、とこしえのいのち!」と叫びながら走り続けたのです。

現在、御言葉に従って、主に従うように自分の夫に従いたいと願っている私たち姉妹も、この主人公のように、洪水のように押し寄せる世間(あるいは一部の教会)の偽りの教えに対し、「指を耳の中に突っ込み」それらをはっきりと拒絶しつつ、「いのち、いのち!」と叫びながら上に向かって走り続けるべきだと思います。

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最後になりますが、主に対する服従、そして夫に対する恭順を日常生活の中で実践していく上で私が重要視しているのが、「はい」という一言です。

「はい。分かりました。そうします。」
「はい。ごめんなさい。」
「はい。ありがとう。」

私たちの肉は常に言い訳を好みますし、「、、でも、、、」という接続詞を好みます。やりたくないモードの時に「これをやって」と言われると私たちの肉は「いやだ」と反発します。

でも私は発見しました。こういう時にこそ、この「はい」という一言は私たちの肉を沈黙させ、キリストにある新しい人を強くする強心剤なのです。

私たちが日常の細かい場面場面で、「はい」と応答していくことによって、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください(マタイ26:39)」と祈られたイエス様の恭順のスピリットが私たちの魂のうちにも育まれていくようになるのです。

そしてご自分を無にして仕える者となった(ピリピ2:7)イエス様の似姿をしだいしだいに反映していくことになるのです。これは本当にすばらしいことではないでしょうか。私はこの道を進んでいきたいです。みなさんはどうですか。ご一緒にこの道を歩んでいきませんか。

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(先駆者ヨハネ修道院の入り口です。)


牧師先生や聖書を教えてくださる先生方を敬愛することについて

私のお友達のゲスト投稿ー米国アリゾナよりー