私は少し前に、祈りの生活についての記事を書きました。そしてそれは、私が祈りのベールをつけ始めたことから生じた霊的プロセスであり、祝福の戸であることをお分かち合いしました。

今日は、もうひとつ別の祝福の戸についてお話したいと思います。それはキリストのみからだの中で牧師もしくは教師として立てられている先生方に対する私の心の姿勢に肯定的な変化があらわれてきたということです。

表題にそういった先生方を「敬愛する」と書きましたが、私は「尊敬」ではなくあえてここで「敬愛」という表現を選びました。なぜかというと、「敬」と「愛」という両方の側面で主は私に気づきを与えてくださっているからです。

☆ ☆

「敬」の側面

ベールを着け始めてから私は霊的な意味で、今まで以上に権威のありかについて敏感になりました。どこに行っても、どんな環境の中に置かれても、誰と話しても、私はそこにある権威を意識し、その権威を敬うようになりました。

権威という言葉は、通常あまりいい意味で使われることがないので(権威の乱用など現実に存在する問題がありますので)、こういう書き方に不快感を覚えている方がいらっしゃるかもしれませんが、もうしばらくご辛抱してお聞きください。

10年以上前のことになりますが、ある年上の韓国人の姉妹と話をしていて、その時たまたま話題にのぼったある牧師先生のことを、私は「あの先生、クィヨヲ(=かわいい)」と表現したんです。するとその姉妹は、「牧師先生のことをクィヨヲと表現すべきではありません」と私を厳しくたしなめました。

ここ数十年、若い日本人の間では、年上の方に対しても例えば、「あのおじいちゃん、かわいい」「うちの課長、かわいい」「あの先生、かわいい」などと表現することが普通になりつつあって、私ももちろんその流れの中にいました。それで、そういった感覚で〈牧師先生クィヨヲ〉発言をしてしまったのです。

今の若い韓国人の方々はどうなのか分かりませんが、とにかく10年前の時点では、敬虔なクリスチャンの観点からいって、私の発言は不敬なものでした。そして今から思うと、その姉妹の叱責は私にとってとても有益なものでした。

聖書も、教会の指導者や長老たちに従いなさい、尊敬しなさいと命じています。

Ⅰテモテ5:17 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばの教えのためにほねおっている長老は特にそうです。



ヘブル13:17a あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。


Ⅰペテロ5:5a 同じように若い人たちよ、長老たちに従いなさい。



また数週間前のことですが、主人と私はある教会で牧師先生および長老と共にミニストリーのことについて話し合いの時をもっていました。

その席で、私は自分の倍ほどの年齢の長老にある意見を申し上げたのですが、家に帰ってから、「言った内容以上に、私のあの態度ははたして主の目にかなうものだったのか?長老の話をさえぎって自分の意見を言い出すというのはやはり尊敬を欠いていたのではないか?」と心に責めを感じました。

それで結局、祈った後、その長老に謝罪のメールを送りました。幸い、長老からは、「いえいえ、あなたの態度は不遜なものではありませんでしたよ。大丈夫ですよ。」とやさしいご返答をいただいたのですが、私はこういった面でも今、主の取り扱いを受け、成長の途上にあることを感じています。

さらに、私は、牧師先生や聖書を教えていらっしゃる先生方に付与されている神よりの権威についても目が開かれるようになりました。

昨年より私は祈りのベールのことについて自分の証しを書いたり、他の姉妹たちの証しを翻訳してこのブログに掲載してきました。でもそこで何度も痛感したのが権威の不在と頼りなさでした。男性の先生方に神より付与されている権威に目が開かれたのはそういう実体験によるところ大です。また、これは私だけではなく、他のベールの姉妹たちも一様に言っていることです。

だからといって私たち姉妹の証しが何にもならないという意味ではありません。それはそれで主のご用に用いられるでしょう。しかし、聖書を説き明かす先生方にはある特別な権威が授けられているのです。

そこから始まって、主は、キリストのみからだの中における牧会者、教師の重要性について私の目を開いてくださいました。確かに私たちは皆、ベレヤのクリスチャンのように、「熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べる(使17:11)」必要があると思います。自分では何も調べず、ひたすら牧師先生に任せっぱなしという態度も良くないでしょう。

でも、なんといっても、私たちの霊的方向性、福音主義教会の今後の行方というのは、上に立てられているこういった先生方の霊性、指導力、判断にかなりの部分かかっているのです。私たちの乗っている船が、右にそれるか、左にそれるか、それとも曲がることなくまっすぐに進んでいけるか否かは、私たちの先生の舵取りにかかっている――そう言っても過言ではないと思います。

そして、そこからつながっていくのが、次にお話する「愛」の側面なのです。

「愛」の側面

上述の気づきは、私や共に祈っている他の姉妹たちに、「上に立てられている先生方のために熱心にお祈りしていきたい」という願望を起こさせ始めたのです。

それもただ片手間に祈るといったレベルの祈りではなく、それに真剣に打ち込む、その奉仕にdedicateするといった迫りを私たちは感じています。

私たちは上に立てられている先生方があらゆる攻撃から守られ、そして真理の霊に満たされて、大胆に御言葉を宣べ伝えることができますようにと祈っています。

また、先生方の周りにいる私たちがもっともっと先生方を愛し、さまざまな形で応援していくことができますようにと祈っています。

私は他の言語圏の人々と交流しながら、反省したことがありました。それは与えられた言葉(日本語)を用いて他の人をあまり励ましてこなかったということです。日本語にはたくさんの美点があると思いますが、こと人を励ますという点では私たちの言語は主の血潮で贖われる必要があるように思います。

私たちはもっとおさなごのように素直にのびのびと自分の気持ちを表現し、また相手のすぐれている点やすばらしい点を素直に単純にほめてあげたらいいと思います。

おわりに

ローマ書の最終章を読むと、パウロがいろいろな兄弟姉妹に「よろしく」と言っています。今朝、私はこの章をじっくり読んでみました。

「この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です(ローマ16:2)」

「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです(ローマ16:4)」

こうしてみると、パウロという一人の先生の背後には大勢の応援団がいたことが分かります。「いのちの危険を冒してまでもうちの先生を助けよう!」というすごい意気込みの信徒が教会の中にいたら、その先生はきっと一生その教会を離れたくないと思います。

それからとっておきは次の一句です。

「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく(ローマ16:13)」

パウロは、ルポス兄弟のお母様のことを「自分の母」といっているのです!パウロという苦労多き神のしもべをして「母」と呼ばわしめたこの年配の女性はいったいどんな方だったのでしょう。

きっとパウロのために昼も夜も祈り、安否を問い、時には届け物もしたでしょう。でもそれだけではやはり「母」ではありません。

やっぱりお母さんというのは、息子がいつ帰ってきてもいいと感じさせる、独特の心のひろさとやさしさを持ち合わせているものです。その人自身が、息子にとって「ふるさと」なのです。

パウロにはそういうお母さんが背後にいたのです!だからパウロは頑張れたのです。あれだけの苦しみを通りながらもパウロが伝道者としてのレースを全うできたのは、こういう名もなき応援団があってこそだったと思います。

私は白髪のおばあさんになった時(そこまで生きていたら、ですが)、どなたか神のしもべに「お母さん」と呼んでもらえるような、そういう年寄りになりたいです。なにかとかいがいしくお世話させていただきたいです。

以上が私に開かれし祝福の戸です。読んでくださってありがとうございます。


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「万人救済論」と聖書の真理

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