昨日、友人の書いたWithout Excuse (弁解の余地なし)というローマ1章を元にした記事を読んだのですが、私は彼女の単純明快にしてストレートなメッセージに何かを揺さぶられたような衝撃を受けました。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです (ローマ1:20)。



イエス様を信じた人は天国に行き、信じない人は滅びる、という「ただそれだけ」のメッセージでした。でも自分が驚いたのはその内容が実はおそろしいものであるにもかかわらず、聞き慣れすぎてもはやそこの霊的感覚が麻痺してしまっていたという事実でした。

でもその感覚が目覚めるということは悪夢のような苦痛です。なぜかというと、家族も、親戚も、ほとんどの友人も、周りにいる人々も皆、このままだと滅んでしまう、地獄に行ってしまうというおそろしいリアリティーの中に生きなければならないからです。

私は彼女に書き送りました。「あなたの書いたことはまったく真実です。でもそれを信じたくない自分がいるのです。私は自分の愛する人たちがこのままだと地獄に行ってしまうということを信じたくないのです。それにもし信じているのなら、なぜ私は力の限りを尽くして彼らにイエス様の救いを伝えていないのでしょうか。これらのことは結局、私の信仰の欠如を如実に表しています。」

信じたくない、信じたくない。でもそれが現実です。そして信じるなら信じるで私たちはあらゆる苦痛を忍ばなければならないのです。これは厳しい真理ではないでしょうか。

イエス様の福音はGood Newsです。でもその一方、私たちに二者択一を迫る厳しさもそこにはあります。私たちはどちらか立場をはっきりさせなければならないという袋小路に追いやられます。

家族が救われていないという現実は、私たち自身の生き方に対する内省を促し、またそこにはいつ果てるとも分からない苦悶が伴います。

私は思います。自分の家族が救われるまでは本当の意味で家族と一緒に笑い合ったり、団欒したりすることはできないと。どんなに表面上穏やかでも、イエス様を信じている人と信じていない人は、川を隔てて離れて立っています。この距離はどんなに繕っても縮めることのできないものです。両者をつなぐ橋はただ一つイエス様への信仰なのです。

だからこそ私たちは伝道し、宣教の働きにつくのです。だからこそ私たちは「偏狭者」「原理主義者」「非寛容者」呼ばわりされても、人にイエス様の救いを伝える責務を果たしつつ、この人生のレースを走らなければならないのです。

しかしここに「万人救済論」という巧妙なまがい物の教えが私たちを惑わそうと待ち構えています。

この教えは、私たちがこういったおそろしい現実のリアリティーに生きなければならないという内的苦痛、緊張なしに生きていくことができますよ、という甘言をもって私たちに忍び寄ってきます。

神は愛じゃないですか。そんな愛の神が人間を地獄に落とすことなんかするはずありませんよ。神はそんな冷酷で横暴な方じゃありません。裁きとか地獄とかいったものもすべての人を救いに至らせるプロセスに過ぎないんです、、、

彼らはこう言いながら私たちに偽りの安心感を与えようとしているのです。

これはちょうどヘロイン注射に似ています。麻薬を打つことで一時的に、この世の厳しい現実を忘れ、架空のパラダイスに逃げ込むことができるからです。

でもこの注射は私たちの霊的生命を破滅に陥れる死の注射です。私たちの信仰の土台は、ヘロインの毒で内側から崩れていきます。

家族の救いも、日本の伝道も、世界の宣教も、このヘロインの毒が注入されることでダメになってしまいます。だからこの偽りの教えの本質を見抜くことはとても大切だと思います。

私が今からご紹介する文は、そのことを真正面から取り扱った非常にすぐれた記事です。

これを読むと、私たちは神の愛と義について、人間に与えられている自由意志について、十字架の意味について、――つまり私たちの立っている福音信仰の核の部分について真理をきくことができます。これは私たちの肉には「耳ざわりの悪い」「不愉快な」真理かもしれませんが、この真理こそ私たちを、そして私たちの家族を最終的に自由にするのです。

どうかこの中で引用されている聖句も含めてじっくり読んでみてください。

万人救済の福音の検証(1)ココ

万人救済の福音の検証(2)神の忍耐と人間の自由意志 ココ

万人救済の福音の検証(3)絶えざる心の痛み ココ

万人救済の福音の検証(4)真理による解放と人の心 ココ

万人救済の福音の検証(5)マタイ25章 ココ

わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。ゼカリヤ12:10




前回の記事が自分自身にもたらした影響について

牧師先生や聖書を教えてくださる先生方を敬愛することについて