前回の記事「万人救済論と聖書の真理」を書き終えた後、私は自分自身、「このままでは済まされない。私の中のなにかが変わらなければいけない。逃げたいけど逃げてはいけない。私は神様と人に対し、なんらかの応答をしなければならない」といった迫りを感じました。

イエス様を信じる人と信じない人とを隔てている川のことについて触れましたが、それに関してある方が、「この川を隔てた者同士が本当に語り合える唯一の言語が愛ではないかと思っています」と所感を書き送ってくださいました。

愛。その愛とはどんなものなのか、その愛の実践とは具体的に何を意味しているのか、それが分からないと私は思いました。これまで私は、その定義をあいまいにぼかすことでなにかから逃げてきたのではないか、そうも思いました。

そうして考えを進めていくうちに行き着いたのがイエス様ご自身の態度でした。

イエス様も川の向こう側にいる人々にいろいろと語りかけておられました。イエス様のニコデモに対する言葉と、サマリアの女に対する言葉は違います。ザアカイに対する言葉も違います。でもその根幹にはいずれも愛があったことにはっと気づかされました。つまり、愛にはいろいろな表れ方があるのです。ある決まった「型」がある訳ではないのです。

私は故郷にいる父のことを想いました。川の向こう岸にいる父に、私はこの愛をどのような形で表現することができるのだろう。なにを表現することが私と父をつなぐことになるのだろう。なにが「ぼかしつつ、あいまいにしながら逃げること」でもなく、尚且つ、自由意志をもった相手の選択を尊重する行為なのだろう。

私はそのことで知恵が与えられるように祈りました。

そして私は二つのことを決意しました。一つは、自分がどんなに父のことを尊敬しているか、その気持ちをすなおに率直に伝えることにしました。

二つ目は、(これは自分でも驚いたのですが)昨年から自分の身に起こっていること――つまり私がこのブログの中で言っていること証ししていること――この一連のプロセスを父に打ち明けることにしたのです。

これまで私は心のどこかで「どうせ私が何を言ったって家族は分かってくれないだろう。大方のクリスチャンでさえ私のことを理解してくれないのだから、ましてノンクリスチャンの家族が自分のことを理解してくれるわけがない」と諦念していました。

でもそれは本当なのでしょうか。私は何を根拠にそう思っているのでしょうか。ノンクリスチャンだから分かってくれるわけはないと考えるのは神様の力を見限った不信仰ではないか、私はそう思ったのです。

こうして私は父に長い手紙を書き始めました。

「私を通してこの世に何か少しでもよいものがもたらされたとしたら、私はそれら全ての栄誉を天の御父と、そしてお父さんに捧げたいと願っています」と父に率直な気持ちを伝えました。

また私はなぜ自分が祈りのベールをつけ始めたのか、その理由を説明しました。最初は孤立無援の状態だったけれど、その後、さまざまな人が応援してくれるようになったこと、さらにその輪が国境を越えてひろがっていっていること等を書きました。

そして自分にそういう歩みを選ぶ勇気を与えてくれたのは、父の模範があったからに他ならないことを書き記しました。

そして「私を知るすべての人がお父さんのことを尊敬してほしいから、そのために私は神を畏れ聖書の言葉を敬い、神と隣人を愛する娘として成長していきたいです。」という言葉で手紙を締めくくりました。

これを受け取る父がどういう応答をしてくれるのか(あるいは沈黙を保つのか)それは分かりません。どのように受け取るかは受け取る相手の自由であり、私はそれを100%尊重すべきだと思っています。

ただ自分に関していえば、父が地上に生きている間にこの気持ちをしっかり伝えることができて本当によかったと思いました。

私はこの記録を自分と同じような旅路を歩んでいる同胞の姉妹たちのために残しておきます。

祈りのベールという聖書の掟を守ることでどれだけの回復が一人の人間にもたらされているのか、それを実際に見ていただくことで、きっと励ましを受けられると思うからです。聖書の言葉には癒しがあり、力があります。一句一句にすばらしい意味と神様の愛が込められているのです。私たちが単純にすなおにそれを受け入れ、従っていくとき、神様はあなたや私の人生に回復を起こしてくださるのです。



心に残った文章ー内村鑑三の祈りとことばー

「万人救済論」と聖書の真理