昨晩、下に挙げる内村鑑三の文章を読みました。胸に染み入りました。

彼の苦難多き高尚な生涯を想った時、一語一語から彼の魂の叫びが聞こえてくるかのようでした。彼は自身のこういった告白が、100年近く時を隔てたところにいる、後代のクリスチャンの間でも読み継がれ、感動を与え続けるようになるなどと想像していたでしょうか。このような記録を私たちに残してくれた彼に感謝します。


聞かれし祈求      (1917年1月『聖書之研究』より)

余は多くの事を神に祈求(ねが)えり。余はもちろん余の身の事を祈求えり。余の家の事を祈求えり。余の骨肉の事を祈求えり。余の友人の事を祈求えり。余の国の事を祈求えり。

しかして時には自他の事を忘れて、キリストと彼の福音の事を祈求えり。

しかして多くの年の間、多くの事を祈求いしといえども、その中、確かに神に聞かれたりと信ずるはただ最後の祈求のみ。

余の身に幸福は来たらずして不幸は来たれり。余の家は栄えずして衰えたり。余の骨肉は多くは余を離れたり。余の友人にして、今余と共にある者ははなはだ少なし。余の国はますます神を離れて、その堕落は年と共にはなはだし。

ただキリストと彼の福音とは月と共に挙がり、年と共に現れつつあり。余に幸福の来たらざりしはこれがためなりし。

余の家の栄えざりしはこれがためなりし。余の血縁と交友と社交とに失望多かりしもまたこれがためなりし。すなわちキリストと彼の福音とが世に挙がらんがためなりし。「彼は栄ゆべし、われは衰うべし」(ヨハネ伝3:30)。

彼の聖名(みな)の、われによりて挙がらんがためには、われは大いに苦しまざるべからず。

福音盛栄の立場より見て、わが失望は成功なりし。わが祈求の聞かれざりしにあらず。

しかり、わが最大の祈求の聞かれしにより、わがすべての祈求は聞かれしなり。

主の栄光は現れつつあり。わが欲求の斥けられしによりて、わが希望の充(み)たされざるによりて、暗黒の、世にますます、はなはだしきによりて、福音の光栄(かがやき)は挙がりつつあり。

余は今に至り、余の祈求のすべてことごとく神に聞かれしを感謝す。
 
             (1917年1月『聖書之研究』)


♪讃美歌 きみはわれのまぼろし(歌っているのは韓国のナムエンという方です)


1.
きみはわれのまぼろし
たれをほかにもつべき
昼夜も わが身の
あおぎみるは ただきみ

2.
み言葉なるキリスト
われと ともにますとは
血を分けたる親子も
およばざる つなぎなり

3.
宝も名も のぞまじ
きみをやどしまつれば
いとも高き王なる
きみぞ われの富なる

4.
きみは われのまぼろし
いかなることありとも
のぼらしめよわが身を
いよよ高き空へと

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