「夫に従いなさい」という聖書の掟を日常生活の中で実践していくと、私たちは周囲からのさまざまな反応にあいます。

昨年のことですが、私はある若い奥さん(中東出身、20代前半、クリスチャン)から次のような批判を受けました。

「あなたの言動をみていると、なんていうか、『えっ、なんで?』って思うんです。なんでいちいち、ご主人の許可を得ようとするんですか?人間は、男女平等じゃないですか?キリスト教は男女平等を言っていませんか?それに私たちは今、ヨーロッパにいるんですよ。私は夫と友達のような関係でありたいし、夫もそういう関係を望んでいます。」

彼女のような疑問を抱いておられる方はもしかしたら日本にもおられるかもしれません。このテーマについては以前、少しだけ触れたことがあるのですが、重要なテーマでもあると思いますので、今回再度取り上げることにします。

☆☆
本質と秩序の違い

私はまず「本質と秩序の違い」のことをお話したいと思います。

人間は、その本質において皆等しく平等です。本質というのは英語ではNature、ギリシア語ではουσίαです。ガラテヤ3:28でも、男女がキリストにあって一つだということがはっきりと明記されています。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。



だから私たちはキリストにあって、みな等しく尊い価値をもっているのです。

しかし一方、秩序(order)においては違いがあります。

このことをより良く分かっていただくために、ここで御父と御子の関係を例に挙げようと思います。

聖書には、「キリストのかしらは神です」(Ⅰコリント11:3)、「万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです」(Ⅰコリント15:28)」と書いてあります。

それでは、キリストは父なる神より「劣った」存在なのでしょうか?もちろん、否です。

御父と御子は、その本質(nature/ουσία)において全く等しいのです。しかし、秩序(位階)の面においては違いがあります。

ですから、神がキリストのかしらであり、キリストが神に従う行為は、キリストを神より劣った存在にすることにはならないのです。

お父さんと息子は、人間の本質としては全く平等です。でも、秩序という点においては、お父さんが息子の上に置かれています。社長と部下、先生と生徒などについても同じことが言えると思います。

ですから、私たち女性が、男性をかしらとして敬い、かしらに従うことは、私たちを男性より「劣った」存在にすることにはならないのです。

ですから、聖書の中の「夫に従いなさい」という結婚の掟は、「前近代的で家父長的な抑圧」として捉えられるべきではないことをここにはっきり明記しておこうと思います。

なぜなら、そのような論法でここの聖句を曲解する人々が最近とみに増えているからです。

またそのような人々は、前述のガラテヤ3:28を水戸黄門の紋章のように「えいっ」とふりかざして、神様の定めた「男女間の創造の秩序」を亡きものにしようとしていますが、他のさまざまな聖句を無視したそのような解釈はとても危険だと思います。

私たちの創造主なる神様は、おそろしい独裁者でもなく、抑圧主義者でもありません。

また神様の定められた秩序は、私たち女性を縛り窮屈にするものではなく、その反対に私たちを自由に羽ばたかせるものです。私たちが主を信頼して、この秩序の中にわが身を置くとき、私たちは真の内的解放と喜びを感じるようになります。

私たちのうちの女性は開花し、私たちは「主よ、私をこのように創造してくださりありがとうございます。私は本当に幸せです!」と賛美せずにはいられなくなるでしょう。

私はこのブログを読んでくださっているみなさんお一人お一人がその喜びで満たされることを心からお祈りします。



お知らせ

離婚の危機を乗り越えたカナダ人姉妹テッサの証し―なにが彼女を変えたのか―