二日前に、高校時代の級友がくも膜下出血で急死したという知らせを故郷の友人から聞きました。三十数年しかこの世に生きることのできなかった級友―。人の生と死は本当に神様のものだということを教えられました。

それと同時に、「今日」という一日が私に与えられているのは恵みであり、そこには創造主の御目的があるんだということにも気付かされました。

「今の時を生かして用いなさい。」(エペソ5:16)

この世でやり残しのないようにしたいと思いました。

昨年から、ソロモン・ギンスバーグ(1867-1927)の伝記を書こうと思っていたのですが、それが延び延びになってしまっていました。級友の訃報を聞いて、私は「これではいけない」と思い、すぐにソロモンに関する資料を集め始めました。

彼はポーランド生まれのユダヤ人ラビの息子で、イギリスにいた時にイエス・キリストの福音を聞き、信仰を持った人です。同胞ユダヤ人やカトリック祭司たちからの激しい迫害に遭いながらも彼は不屈の精神をもって信仰の道を歩みました。そしてその後ブラジルに行き、そこで主に大いに用いられます。

今朝、前編が完成しましたので、それをみなさんにご紹介いたします。

生い立ち

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ソロモン・ギンスバーグ(Solomon Ginsburg)は1867年8月6日、ポーランドのスワルキー市近郊で生まれました。彼の父親は厳格なユダヤ人ラビでした。

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父親は息子ソロモンに十分なユダヤ教の教育を受けさせ、ゆくゆくはラビになってほしいという願いを持っていました。しかし若いソロモンにとって、安息日にマッチを点けたらいけないとか、ポケットにハンカチを入れたらいけない等という掟は窮屈に感じられてなりませんでした。

15歳の時、自分の意志に反して、ある裕福なユダヤ人家庭の少女(12歳)との結婚が一方的に決められたことがきっかけで、ソロモン青年はついに家出をしました。

彼はしばらくの間、ポーランドやドイツを放浪した挙句、ハンブルグから船に乗ってロンドンに向かいました。そしてそこで叔父の経営する服地屋の簿記係りの手伝い小僧として働くことになりました。

イザヤ53章

ある安息日の午後、ホワイトチャペル通りを歩いていたソロモンは、ある男性に呼び止められました。

同胞ユダヤ人でしかもクリスチャンだというその男性は、「マイルドメイ・ミッションで行われる礼拝にいらっしゃいませんか。そこで私はイザヤ書53章についてお話するつもりです」とソロモンを誘いました。「イザヤ書53章?」それを聞いた途端、彼の記憶はポーランドでの幼少時代にとびました。

追憶

彼は当時13歳でした。ちょうどその日、父親は仮庵の祭りを祝っていました。ソロモンがなにげなく預言書を開くとそこはイザヤ53章でした。

読んでいくうちに疑問が湧いてきたソロモンは、父に「ねえ、預言者イザヤはここで誰のことを言っているの?」と訊いてみたのです。すると、父親は息子の手から預言書をひったくり、頬をぴしゃっと打ちました。

「とても悔しかったです」と後年、ソロモンは自伝の中でその時のことを回想しています。「でもそれは神の摂理によるものでした。なぜかというと、数年後、ロンドンの街角でユダヤ人クリスチャンの伝道者から『イザヤ書53章についてお話します』と言われた時、ぜひともその説明を聞いてみたいと好奇心をそそられたからです。」

回心

ソロモンは説教者の語るメッセージに熱心に耳を傾けました。語られることすべては理解できませんでしたが、このイエスこそメシアなのではないかという思いがその時彼の心に植えられたのです。彼はその後、新約聖書を手に入れ、読み始めました。そしてすぐにイエス・キリストが約束されしメシアであったことを確信するに至りました。

そんなある日、彼はイエスがゴルゴタで十字架につけられる箇所を読み、心を刺されました。その時のことを彼は次のように回想しています。

「私はイエスが十字架につけられる場面、そして『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもよい』という民衆の言葉(マタイ27:25)を読んで号泣しました。

あたかも私自身、その場にいて、罪のないお方の殺人に積極的な関与しているかのようでした。私は今後、このイエスと運命を共にし、ゴルゴダで犯されしあの大きな犯罪で私が負っている部分に関し、赦しを請わなければならないと感じました。」

葛藤と決心

しかしその内的確信を公にすることは並大抵のことではありませんでした。彼の雇用主であった叔父は正統派ユダヤ教徒でした。ソロモンは幾度となく、ユダヤ教を離れたユダヤ人を呪い非難する叔父の姿をみてきたのです。

「ああ、もしイエス・キリストへの信仰を告白するなら、僕は間違いなく仕事をクビにされるだろうし、叔父の家からも追い出されるにちがいない。」

こうして3か月もの間、彼は悩みに悩みました。ある時などは精神的ストレスから食べることも寝ることもできないほどでした。しかしやがて解放の日がやってきました。ソロモンは、ジョン・ウィルキンソン牧師が次の聖句を語るのにじっと聞き入りました。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)

ウィルキンソン牧師は、「わたしにふさわしい者ではない」と特にその部分に力を入れて言いました。

心を刺されたソロモンは家に帰ると、夜更けまで部屋の中を行ったり来たりして考え続けました。こうして明け方、ついに彼は主に全てを明け渡す決心をしたのです。

「自分の罪が赦され、受け入れられていることを知りました。重荷が取り除かれたのを感じました。イエス様の尊き血潮によって私の罪が清められたことを知ったのです。」

告白

こうして翌朝の朝食の席で、ソロモンは意を決し、キリストに対する信仰を叔父に語りました。「叔父さん、今日、教会で自分の信仰を公に告白しようと思っています。どうか叔父さんも来てください。」ソロモンは頼みました。

これを聞いた叔父の顔色はみるみる青ざめ、「そんなことは絶対してくれるな」と詰め寄りました。叔父たちは実際、その日、教会の中まで入ってきてソロモンの信仰告白を阻止しようとしましたが、ソロモンは揺らぎませんでした。

彼の意志がもう何としても変わらないことを察した叔父たちは立ちあがり、ドアを叩きつけるようにして外に出て行きました。

祈祷会を終えたソロモンがその日の晩、叔父の家に帰宅すると、ソロモンはほうきの棒を持った叔父から熱湯をかけられ、呪いの言葉を浴びせられ、家から追い出されました。

その時、彼の持参金は数シリングに過ぎませんでしたが、彼の心は救いの喜びで満たされていました。「私の救い主のために苦しみに遭うことが許されていることを知り、それを幸いに思いました」と後に彼はその日の晩のことを記しています。

迫害

ある主日の朝、ソロモンは自分の同胞であるユダヤ人に伝道するために、教会の仲間と共に東ロンドン地区に足を運びました。しかしソロモンがイエス・キリストの福音を宣べ伝え始めるや、そこにいたユダヤ人たちは彼に襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加え始めました。

そうです、使徒パウロがルステラで経験したようなことがソロモンの身にも降りかかったのです(使14:19)。気を失ったソロモンが意識を取り戻すと、彼は血にまみれゴミ箱の中に入れられていました。

それからしばらくして、もう一人の伯父が祖国ポーランドからはるばるソロモンに会いに来ました。

「ソロモン、お前も知っているように、私には子供がない。だからな、お前を相続人にしたいと思っている。ただしだ。一つ条件がある。私の相続人になりたいなら、キリスト教と袂を分かつことだ。分かったか?」

ソロモンが返事をしぶっていると、伯父は畳みかけるように言いました。「一週間とことん考えろ。それから返事をもってこい。これ以上、背教を続けるなら、お前は一族全員から絶縁されると思っておけ。いいか。」

ユダヤ人社会から追放される

こうして1週間後、伯父の元に戻ると、そこには、白い鬚を生やしたユダヤ教の長老たちも数人、いかめしい顔をして椅子に座っていました。こうして質疑応答が始まり、ソロモンは自分がいかにしてイエス・キリストを救い主として信じるに至るようになったのかを彼らの前で話しました。

それを聞いた長老の一人が、ユダヤ人社会からの追放を意味する、絶縁文を読み上げ始めました。「昼、汝に呪いあれ。夜、汝に呪いあれ。立つ時に呪いあれ。横たわる時に呪いあれ。食べる時に呪いあれ。飲む時に呪いあれ、、、」と呪いの文句は延々と続きました。

「主よ、私を助けてください!」ソロモンは心を天に向け祈りました。

すると彼は見たのです。――両腕を釘付けにされ十字架にかかっているキリストを。そして次の御言葉が与えられました。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださった。」(ガラテヤ3:13)彼の心は喜びにあふれました。

キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。Ⅰペテロ4:14

またある日、こんな事も起こりました。ソロモンはその日、仲間と共に伝道していたのですが、そこに一人の若い男性が近付いてきました。

「ソロモンさん。実は、うちの工場で働くユダヤ人の同僚たちが真剣に福音の真理を求めているんです。どうか僕と一緒に来て助けてくれませんか。彼らは○工場の五階にいます。」
「ああ、そうですか。それじゃあ、ご一緒しますよ。」
ソロモンは請け合いました。

しかしそれは罠だったのです。五階部分にたどり着くや、彼は、ハンマーやナイフを持った大勢の男たちの襲撃を受けました。

ソロモンの仲間の兄弟はその場を脱出できましたが、ソロモン自身はめった打ちにされた挙句、五階の階段手すりから下に投げ落とされました。

しかし奇跡的にも彼は落下途中、鉄の手すりをつかむことができたのです!頭から突き落とされたので、そのまま落下していたら首の骨を折って死んでいたことは確実でした。

九死に一生を得た彼は、主がある特別なご目的をもって自分を生かしてくださったことを確信するようになりました。

そして「主よ、私に課せられている使命は何でしょうか?私はあなたのために何をすればよいでしょうか。みこころをお示しください」と熱心に祈るようになりました。

宣教地を示されて

こうして祈り始めた彼は、しだいに「ブラジルの人々」の魂に特別な重荷を感じるようになっていきました。ブラジルといえば大多数がカトリック教徒の国です。

どうして彼はそういったカトリック教徒の元に遣わされることを望んだのでしょうか。

それはユダヤ人伝道および異邦人伝道をする上での最大の障害は、ローマ・カトリック教会そのものであるという彼の信念に基づくものでした。そのことについて彼は次のように記しています。

「若いユダヤ人魂に繰り返し叩き込まれる教えが一つあるとしたら――、それは偶像礼拝に対する憎しみです。

幼い頃、こんな事がありました。その日、私はワルシャワの街を父と連れだって歩いていたのですが、大きなカトリック聖堂の中からちょうど大勢の人が出てきていました。父は私を聖堂の中に連れていき、人間の形に彫った彫像の前に跪き祈っている大勢の人をよく見るように言いました。

statues in catholic church

『ソロモン、モーセの十戒を覚えているか?』
『はい、お父さん。』
『じゃあ、第二戒を言ってみろ。』
『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。』
『そうだ、ソロモン。このキリスト教連中はな、自分たちの宗教こそまことの宗教だと言っている。でも見なさい。この連中がいかに真理からかけ離れているかを。』」

ポルトガル、そしてブラジルへ

こうしてソロモンは語学の学びのためにまずポルトガルのオポルトに行きました。彼は非常な集中力をもってポルトガル語の習得に励み、1ヶ月後には早くも『聖ペテロは絶対に教皇ではなかった(Soa Pedro Nunca Foi Papa! )』というトラクトを作成したのです。

そのトラクトを三千部配布した後、今度は『古着、骨、小麦の宗教』というトラクトを書き、その中で、偽りの聖遺物で私腹を肥やしていたカトリック祭司たちの罪を暴きました。しかしまもなくイエズス会士たちに命を狙われるようになり、彼はポルトガルを脱出しました。

「ローマはポルトガルをダメにしてしまった。そして今、ブラジルをダメにしようとしている。ローマの有害な支配下に入ってしまった民族・国々の場合と同じように、ブラジルはローマ教会の陰謀により貶められている。」

こうしてソロモンは1890年6月10日、ブラジルのリオ・デジャネイロに到着しました。

Reo de janeiro map


さて、この若き情熱的な伝道者にどんなことが待ち受けているのでしょう?

(つづきは次回)


ソロモン・ギンスバーグ宣教師の生涯と信仰ーブラジルでの働きー(その2)

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