baby chicken

少し前に、コメント欄を再オープンしましたが、私はそこに書き込みをしてくださる方々の率直さと素直さに心を打たれています。

このような方々を通して、主は次のような真理を私に教えてくださいます。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)



以前、私たちの教会にはFさんという三十代の男性(中東)がいらっしゃいました。現在、この方は北ヨーロッパに移り、そこで良き教会につながり信仰生活を送っていますが、ギリシアにいた時分、彼は重度のヘロイン中毒者でした。

彼はある大きな失敗をしてしまい、それによって家族も財産もすべて失ってしまっていました。こうして彼は麻薬代に全てを使い果たし、ピラオス港の近くで路上生活を送っていました。

そんなどん底にいたFさんが、「いかにして一夜にして立ち直ったのか」ということで、私たちに救いの証しをしてくれたことがありました。

ある夜、寝る場所を求めて彼は通りを徘徊していました。すると、ある教会の前に描かれていたイエス・キリストの絵(たぶんギリシア正教会のイコンのことだと思います)が目が入ってきました。

なぜかそこから目が離せなくなった彼は、引き寄せられるようにその肖像画の前にやって来、、そしてその場に跪きました。ビジネスで成功していたかつての自分、美しい奥さんと子供に囲まれていた「立派な」夫としての自分、、しかし今、彼はそういったプライドや自負心を何もかもかなぐり捨て、男泣きしながら次のように祈りました。

「イエス様、あなたは神なのでしょうか?私はもう落ちるところまで落ちてしまいました。私は本当は麻薬なんかやりたくないのです。こんな生き方はしたくないのです。でも自分の力ではこの状態から脱することができません。どうしてもできません。イエス様、もしもあなたが神なら、私を麻薬からお救いください。」

跪き泣きながら祈る彼の脇を、通行人たちがけげんそうに見やり、足早に去って行きました。

「私はもうその時、他の人が自分のことをどう思うだろうかなどと考えませんでした。もうそれは問題ではありませんでした。私はただ目の前にいるイエス・キリストだけに心を注ぎ出していたのです。」

その後彼は数時間、その場から一歩も離れず、ひたすら祈り続けました。そして主は彼にご自身を啓示してくださり、彼は一夜にして麻薬から解放されただけでなく、生ける神の子イエス・キリストに対する信仰が与えられたのです。

☆☆
私はマタイ20章の後半に描かれているふたりの盲人に特別な親近感を覚えています。実際、私の聖書の30節から34節にはすべて赤線が引かれています。

すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」

そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。

すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」

彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ20:30-34)



この盲人は、プライバシーの守られている「家の中」という安全ゾーンにいたのではなく、多種多様な人々の目にさらされざるを得ない「道ばた」に座っていたのです。そしてこの道ばたという〈公の場〉で叫んでいたのです。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と。

しかも周りの人もそういう盲人の行為を「立派なことをしてますね!」と誉めてくれたわけではなく、その反対に、彼らを「黙らせよう」と「たしなめた」のです。

目は見えない、おまけに周囲からの理解もないという状況にあった盲人は、その後どうしたのでしょうか。「そうだよね。やっぱり人前でみじめに叫ぶなんて馬鹿げているよね」と黙ることにしたのでしょうか。いえ、彼らは「ますます」声高に「主よ。私たちをあわれんでください」と叫び立てたのです。

私が心を打たれるのは次の聖句です。「すると、イエスは『立ち止まり』彼らを『呼んだ』」と。野次馬は私たちをただ好奇心でみるだけかもしれません。また私たちの切なる叫びを聞いても、その重さに耐えられず、心を痛めながらもそのまま素通りしていく人々だっているでしょう。

でもイエスは「立ち止まり」私たちを「呼んで」くださいます。私たちから逃げず、私たちのあわれな叫びを軽んじられません。そして私たちに向き合い、「わたしに何をしてほしいのか」と願いをきいてくださいます。

☆☆
今朝思ったのですが、結局、私たちは皆、究極的な意味において、「道ばた」にいる存在なのではないでしょうか。

なぜなら主なる神は遍在しておられ、造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されているからです。(へブル4:13参照)

〈公の場〉、〈プライベートな場〉という区分はあくまで人間の視点でみた物のとらえ方であって、神の目からみれば、私たちは部屋に一人でいようと、大勢の前に立っていようと、どの道同じなのではないでしょうか。

そして神のことばは、その絶大なる力とまばゆい光でもって、私たちの思考の世界のおそろしい実態を今この瞬間にも映し出しているのではないでしょうか。

もしも私たちがこの一週間の間に、ひそかに頭の中で考えたこと・想像したことがすべて映像付きで録画されていて(おまけに考えたことは字幕入りで)、次の主日礼拝の席上、すべての兄弟姉妹の前で大型スクリーン上で公開されると想像してみてください。

私なら、恥ずかしさの余り、教会を欠席するどころか、もう二度とその教会の兄弟姉妹の前に姿を現さないと思います。

でも「神の目にはすべてが裸であり」(へブル4:13)というのは結局、そういうことではないでしょうか。それが聖書の神を信じるキリスト者の赤裸々な現実ではないでしょうか。

そしてその現実を本気でとらえるなら、私たちは、もう恥も外見もなく、ただ主の前にとりすがり、道ばたの盲人のように、「主よ。私をあわれんでください。どうかスクリーン上に公開しないでください。私の罪と恥を覆ってください。キリストの義の衣を私に着せてください。」と嘆願せざるを得なくなるでしょう。

実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろそれを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに出されるものは、みな、光によって明らかにされます。エペソ5:11-13



もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9



祈り)
主よ、どうか私たちのうちからあらゆる偽りと気取りとごまかしを取り除いてください。罪を告白し合い、互いのいやしのために祈る恵みを与えてください。そして私たち一人一人が光の中を歩み、互いに聖い交わりをすることができますよう助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


beautiful sunlight

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