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(メガ・チャーチ 情報源

最近、日本や北米の姉妹たちからこのような意見が寄せられています。

「ある種の福音主義教会は、会員数を多くすることにばかりやっきになり、その結果、大衆の気を引こうと耳ざわりのよい説教しかしなくなっています。そしてそういう教会の多くは現在、メガ・チャーチとして規模を拡大していっていますが、その弊害は想像以上に大きいです。

福音は安っぽいものになり、教会はレクレーション場化しつつあります。その結果、本当に真摯に求道している人々はそのような世俗化した教会のあり方につまずきを覚えてしまっています。」



みなさんは、キリスト教放送や雑誌や本の中で、次のようなフレーズを見たり聞いたり読んだりしたことはありますか。

「積極思考(可能思考)があなたを幸せにします」

「あなたが『こうなる』と信じ、視覚化したこと、これが現実となるんですよ」

「自分自身を信じるんです。何事も不可能なことはない、できるんだって。」

「まず自分自身を愛することが大切です。自分自身を愛せない人に他人を愛することはできませんよ。」

「イエス・キリストを信じれば、あなたの人生は成功します。あなたのビジネスも成功します。ビジョンを大きく持ってください。」

横手聖書やすらぎ教会の斉藤牧師はこういった現代の潮流について次のように説明しておられます。

教会は常に偽りにさらされ続けてきた。20世紀後半に福音的教会も惑わされたいくつかのことがある。

一部を挙げると、性善説に立った心理学の混入。あるがままに相手を愛し受け止めることが要求された。それ自体は正しいこと。しかし、悔い改めを説かない。

なぜなら、その心理学は人は生まれながらにして罪人であるという人間観を否定していたから。結果的に相手の悪い部分も、それでいいんだと許容する過ちに導いた。

また教会に成功哲学が侵入してきた。可能思考とか積極思考とか様々な言われ方がしたが、信念を抱けば必ずできる、そうなる、ということを、「信仰」ということばで代用されていった。

結果として、神のみこころを求めるというより、自分の願いを実現することに関心が走り、ご利益宗教のようになってしまった。

私たちを惑わすものは全部うそであったら惑わされない。半分真理だったりするから惑わされる。80パーセント真理かもしれない。全体として真理に似ている。しかし、この「似ている」ということに途方もない違いが隠されている。

(引用元:「識別力がある人に」 ピリピ1章3~11節)ココ[傍線は引用者によるもの])



確かに、全部が全部うそだったら私たちは惑わされません。しかしサタンは悪賢いので、聖句などもしっかり引用しつつ、教会の中でそれをもっともらしく説くのです。

またサタンは、私たちのセルフイメージの低さや不安感など急所をよく知っているので、「自尊心」というキーワードをたくみに使いつつ、福音っぽく聞こえる(でも福音ではない)まがいもののメッセージを私たちの耳にささやいてきます。

私は、今、積極思考(Positive Thinking)および可能思考(Possibility Thinking)について、その源流にさかのぼりつつ、リサーチしています。

そしてショックを受けています。何にショックを受けているかというと、その教えの出所、およびそれが現代の福音主義教会内に及ぼしているものすごい影響力についてです。

積極思考は、ノーマン・ヴィンセント・ピーレ(1989-1993)という米国の牧師(自己啓発家)によって世界中に広められました。

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[↑自分自身を信じなさい!あなたの能力に信仰を置きなさい!あなた自身の能力に対する謙遜にしてしかも妥当な自信なくしては、あなたは成功することも幸せになることもできない。――ノーマン・ヴィンセント・ピーレ]

(尚、この方の生い立ちや思想についての詳しい検証記事はココをご参照ください。なお、ピーレ氏はフロイト心理学に深い影響を受けています。)

そしてそこからインスピレーションを受けたロバート・シュラー牧師(1926-)によって「可能思考」という教えがこれまた世界中に拡散していきました。

その影響たるや、福音主義教会にとどまらず、政治・ビジネス界にもひろく浸透しています。

この方法でみんなお金持ちになった(サイズ大)
(ロバート・シュラー著 『この方法でみんなお金持ちになった、人生の成功者になった』)

いかにして自分の夢を実現するか(稲森和夫訳)
(ロバート・シュラー著 『いかにして自分の夢を実現するか――思いどおりの人生を築くためにすべきこと』)

例えばロバート氏は、『自己愛――成功のダイナミックな力』という著書の中で次のように言っています。

「自己愛というのは、自尊心(self-worth)における最高の感覚です。それは自尊(self-respect)という高尚な感情であり、、自分自身に対する不変の信仰です。それは自分自身に対する誠実なる信念なのです。」

「それ(=自己愛)は自己発見、自己修練、自己に対する赦し、そして自己是認を通してやって来ます。またそれは自己に対する信頼、自己に対する自信を生み出します。」(Self-Love, The Dynamic Force of Success, p. 32)



この数行を読んだだけでもお分かりだと思いますが、彼の思想は、キリストを中心にではなく、「自己 self」を中心に展開しています。

また彼はベストセラーとなった『自尊心――新しい改革』の中で次のようなことを言っています。

「そしてこの自尊心が、自分を取り囲むすべてから、そして自分の内部から湧き上がってくるのを感じます。

『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:38)。』こうして私は自分自身のことに関してとても良い気持ちになるのです。」(Self-Esteem: The New Reformation, p. 80)



みなさんご存知のように、イエス様がここでおっしゃっている「生ける水の川」とは、信仰者に与えられる聖霊のことを指しているのであって、自尊心のことを言っているのではありません。

それではシュラー氏にとってイエス・キリストはどんな方だったのでしょう。

同じく『自尊心――新しい改革』の中で彼はイエス・キリストに対して新しい定義をしています。

「キリストとは、理想の御方(Ideal One)であり、自尊心ある受肉されし御方(Self-Esteem Incarnate)です。」( Self-Esteem: The New Reformation, p.135)



またイエス・キリストの十字架上での死については次のように言っています。

「イエスはご自分の価値を知っておられました。そして彼の成功は自身の自尊心を養ったのです、、主はご自分の自尊心を清めるため十字架上で苦しまれました。

そして主はあなたの自尊心を清いものにするため、十字架を忍ばれたのです。そうです、十字架はあなたのエゴ(ego-trip)を清めるのです!」(Living Positively One Day at a Time, p.201)



さらにロバート氏はこのように言っています。

「イエスはエゴを持っていました。主は仰せられました。『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。(ヨハネ12:32)』

おお、なんと主はエゴ(ego-trip)を持っておられたことでしょう!」(Phil Donahue Show 8/12/80)



ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた(ピリピ2:8b)イエス様が、エゴイストにされてしまっています。(ロバート・シュラー氏の教えとその影響についてさらに詳しくお調べになりたい方はarticle 1,article 2,article 3をご参照ください。英語)

☆☆
こうして人々のエゴを甘やかし、隠れた罪に「免罪符」を与えるこういった教えは、教会員何千人という規模のメガ・チャーチを各地に生み出しました。

性善説に立つ心理学、成功哲学、繁栄の神学、自己愛の神学、、こういったものが手に手を取り合って、ある大きな「流れ」を作り出しているのを私たちはここに見ることができると思います。(*繁栄の神学についてさらにお調べになりたい方はココをご参照ください。日本語)

それは「罪から来る報酬は死である」(ローマ6:23)という現実から人々の目をそらせ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)の十字架上での死と復活の事実をぼかすことです。

またその背後に、――キリストにだけ捧げられるべき栄光を奪い、自分を拝ませようとしている闇の力――が働いていることは確かでしょう。

なぜなら、人々が自己実現に夢中になり、自己愛の牢獄に入れられ盲目になることによって、サタンは人々をコントロールしやすくなるからです。こうして反キリストが来る道が着々と整えられています。

こういった教えを説く人々の多くがニューエイジと深い関わりを持っていることもその事実を裏付けてはいないでしょうか。なぜならニューエイジの最終目標は新世界秩序だからです。

私たちは目を覚まし、こういった巧妙な惑わしを見抜く識別力を切に求める必要があると思います。

私たちが誇るべきものは肉の自尊心ではなく、ただ唯一、主イエス・キリストの十字架です。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたからです。ガラテヤ6:14



♪われは 誇らん ただ十字架を 天つ(あまつ)憩いにいる時まで

こういった新しい教えは、かまびすしく叫びます。「自分を愛せ、自分のいのちを/自尊心を大切にせよ!」と。

しかしイエス様は、ご自身について来たいと願うクリスチャンは、自分を愛すのではなく、その反対に「自分を捨てよ」(マタイ16:24)とおっしゃっています。

また、自分のいのちや自尊心を重んじるのではなく、その反対に、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る」(ヨハネ12:25)と言われます。

黙示録4章を読むと、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老が、「自分の冠を御座の前に投げだして」神の小羊を拝し、こう言っています。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」(黙4:11a)

これは非常に感動的なシーンです。

神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現われである御子イエスにまみえる時、私たちはこの麗しい王の前に我を忘れ、「自分の冠」もろともに投げ出し、栄光を主だけに帰す喜びに満たされるのでしょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。詩篇115:1

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(祈り)
主よ、さまざまな新しい哲学や教えが、あなたにだけ捧げられるべき栄光を奪おうとやっきになっていること――それをあなたはご存知です。

そして、そういった教えが現在、主の教会のただ中でなされていることもあなたはご存知です。

どうか私たち聖徒一人一人に識別力をお与えください。大海の中に投げ込まれし一滴の毒を見分ける霊性をお与えください。羊の衣を着たオオカミから私たちを守ってください。

私たちが肉の自尊心に執着することなく、自己愛に囚われることなく、「私の誇るものはただ十字架」と心の底から告白することができますように。

やがてあらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰する(ピリピ2:11)とあなたはおっしゃいました。

私たちはあなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられることを熱望しています。どうか私たちのすべてを用いてください。生きるにも死ぬにも私たちの身によって、キリストのすばらしさが現わされますように。

読者のみなさんと心を合わせ、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。





*上述のノーマン・ヴィンセント・ピーレ氏が、フリーメーソンであり、スコティッシュ・ライトの三十三位階(33 Scottish Rite Freemason)であったことも追記しておきます。(参照



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