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(アーミッシュの女性の服 情報源

このブログにはじめて来てくださった方を歓迎いたします。

もしかしたら、今あなたの心の中には、「なぜこの人はクリスチャンと言いながら、服装とかそういう外面的なことにこだわっているのだろう?なぜ未だに律法に縛られているようなことを書いているのだろう?」という疑問が湧いているかもしれません。

そしてその疑問は妥当なものです。――もしも私が服装の着方によって自分の義を打ち立てようとしているのなら。

しかし実際はその反対なのです。私は服装に関し、過去に大きな過ちを犯してしまった罪人です。

私は教会の奉仕者という立場にありながら、胸元の大きく開いたブラウスを着て教会に出入りしていました。そしてそれによって真面目な兄弟をつまずかせるというシビアな罪を犯しました。(その罪の告白と悔い改めはココに書きました。それから現在に至るまでの服装についての私の証しはココです。)

そしてⅠヨハネ1:9の御言葉を握りしめ、「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私をきよめてくださること」を信じつつ、イエス・キリストによる義に寄り頼んでいます。

ですから、姉妹の服装のことに関して私が言ったり書いたり翻訳したりしていることは、まさしく悔い改めから生じた一粒の実なのです。

また私が自分の失敗から学んだもう一つの教訓があります。それは、この世のファッション基準でもって、(クリスチャンとしての自分の)「慎み深さ modesty」を計っていてはいけないということです。

私があの当時、自分の服装に問題を感じていなかった理由がまさにそこにありました。あの当時、キャンパスの女子学生の間ではスパゲティ・ストラップが流行っていました。

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(スパゲティ・ストラップ)

私は自分がこういう上着を着ていない=世的ではない=クリスチャンとして問題なしと考えてしまっていたのです。ここに間違いがありました。

今日は、「日本宣教に燃える16歳の少女ケイガン」「おお炎よ(詩と祈り)」でご紹介しましたケイガン姉妹の服装に関する証しを掲載します。

もし私が今、16歳の時期に戻れるとしたら、そしてケイガンのような姿勢で生きることができたとしたら、どんなによかったろうと思います。

このようにして彼女の証しを翻訳し紹介することで、他の若いクリスチャンの方々に何か益となるものを流すことができるのなら、とても幸いです。

☆☆

reading woman

(以下はModesty-My Thoughtsの部分訳です。)

他の人をつまずかせないために、慎み深く身を包む必要があるということを、私たちは上に挙げた聖句(Ⅰペテロ3:1-6、Ⅰテモテ2:9-10、マタイ18:7、Ⅰコリント8:13)からも推し量ることができると思います。

でも、まだ最初の問いは残ったままです。どこからが慎み深くなくて、どこからが慎み深いのか、そういった線引きがはっきりしていないからです。

私たちのプライベートな部分を覆う必要があるのは分かります。でも、どの位、どこまで覆うべきなのでしょうか。そういう点は別に考える必要はないのでしょうか。

これは私たちのよく直面する問題だと思います。ピレモンの手紙についてお分かち合いした時にも書きましたが、私たちは聖句を前に、「これをいかに最善にとるか?」ではなく、「これをいかにうまく切り抜けるか?」という姿勢で読んでしまいがちなのです。

(中略)そして他の女性たちと同じように、私も「源泉をたずねる」という意見に賛成です。つまり、男性のみなさんに、慎み深さについて直接意見をきいてみるということです。

その結果に多くの女性は驚くと思います。(でも私は個人的に驚きませんでした。なぜかというと、私は父親と三人の弟たちと暮らしているからです。うちには、私以外の女性は母親しかいません。だから男の人たちの考えていることにはなじみがあるのです。)

みなさん、私は控えめに言いますが、大半の女性の服装は――教会に着ていく服装でさえ――男性に「かなり」つまずきをもたらしています。

どうして私たちは、常時ロングスカートをはいたり、質素な服装をすることにこれほど敵意をむきだしにするのでしょうか。

でも誤解しないでください。私はパンツをはいている人というのは罪深く、悔い改めなければならないなどと言っているのではありません。全く違います!

むしろ私は、自分が教会内で目撃しているような種類のスカートよりは、パンツで礼拝に来ていらっしゃる女性の方々の方を好ましく思っています。というのも、パンツは(ミニスカートなどと比べると)体を覆ってくれているし、激しい運動をする時などにも肌が露出しにくいからです。

でもあなたが慎み深さについての真理について、真摯に探究しておられるのでしたら、これから私のお分かち合いすることをどうか聞いてください。これらは慎み深さを求める旅路の中で私が発見してきたことなのです。

female pants

まず、私がパンツ(ジーンズ)をはくことに抵抗を感じている一番の理由は、それが体のラインを強調するからです。特に、ヒップや太ももが大きい女性にとってそうです。

大半の男性はジッと見ることはないにしても、すれ違いざま、そこに目がいっています。(私は既婚男性のことも含めて言っています。彼らもそれに関して免除されているわけではないのです。)

今、私たちの文化はこういったことにほとんど無感覚になっていますが、だからと言って人々がそういう問題から免除されているわけはないのです。

いえ、実際には多くの男性が(そして女性も――テレビやインターネットを通して裸の女性の映像が常に流されているような環境にあるため)それによって苦しんでいます。

もちろん、男性はみずからの考えや思いをコントロールすべきですし、自身の行動に対して責任をとる必要があると思います。でもだからといって、私たち姉妹は何もしなくていいのでしょうか。いいえ、私たちもできる限り、彼らを助けてあげるべきです。

そういうわけで、私はパンツをはき続けるべきかどうかしばらくの間、葛藤していました。そしてそのことについて祈っていました。

するとある日突然、その祈りに対して答えが与えられたのです。私はその時、ガソリンスタンドにいました。お父さんがガソリンを入れている間、私は車の中で待っていました。

その時、パンツ姿の女子従業員の方がうちの車の前を(車と前方の壁との間には少ししか隙間がありませんでした)通り抜けようとしていました。

正直に言います。その時、私の目には彼女のヒップしか目に入ってきませんでした。そして私ははっと思ったのです。「え、じゃあ、私も他の人からはこんな風に見えているってこと?」

私はどっしりした体型の女性です。かなりどっしりしています。ですから、その時、他の人が私の後姿を見た時、どんな風にみえるのかなんとなく想像できた気がしました。後で私は自分の後ろ姿の映った写真などもチェックして、そのことを再度確かめました。

そして私は「これからはもうパンツ(ジーンズ)ははかない」と決心したのです。

でもここで問題が生じました。一つ目、それは律法主義的になりたくないということ。それから、運動する時はどうしたらいいんだろう、ということでした。スカート姿で運動するなら、逆にもっと慎み深さを失ってしまうのではないかしらと思ったのです。

ジムに行って、トレッドミルで運動している時など、私は周りの人々の視線を嫌というほど感じ、ストレスを覚えました。「どうしたらいいのかな?何かいい解決策はないかしら?」私は試行錯誤し、それについて一生懸命考えつづけました。

でもついに解決策を見つけたのです。私は長丈スカートの下にカプリパンツもしくはインナー・ショーツをはき始めたのです。

capri pants

そしてそこからさらに発展して私はスウェット・パンツをスカートのインナーとして着けるようになりました。そして今日に至っています。

自転車に乗る時やジョギングする時も私はこうしたインナー・パンツをはいた上でスカートを着ています。これは驚くほど効果的です!今でもジロジロ見られたりすることがありますが、それは情欲からではなく、風変わりな私の姿のためです。

では次に、ブラウスについてです。ブラウスがタイトであればあるほど、私たちの胸のラインは強調されることに気づきました。

姉妹のみなさん、正直になりましょう。私たちに胸のふくらみがあること、この事実は隠せません。でもそれを強調するようなブラウスを避け、注目を引かせないようにすることは可能です。

それで私は自分の着るブラウスの作りに注目するようになりました。そして体のラインに注目を引かせないような――そして、その代わりに慎み深さと敬虔な美しさを映し出すことのできるような――、ゆったりした作りの服を着るようになりました。

plain women
情報源

さあ、ここまで私たちはご一緒に考えてきました。ここでもう一つ「奇抜さ・派手・豪奢」といった点についても考えてみたいと思います。私たちの服装はどうでしょうか。私はこの点について今も葛藤を覚えています。

奇抜さや派手さといった、そのこと自体には問題はないと思うのですが、ここで自問しなければならないこと、それは、「どうして?どうして私は派手な服を着ているんだろう?」――だと思います。

問題は、そういう服を着ることによって自分に注目が集まること、そしてそれに伴うマイナスの力だと思います。そういう服は、私たちを神を畏れ敬う女性としては映し出さない場合が多いのです。

人々が私たちを見る時、彼らはイエス様を見なければなりません。

でも誤解しないでください。これは服装というよりも、私たちの態度や振る舞いのうちに表わされるべきものです。しかし、あなたの着る服はその全体としての効果を助長する(あるいは減少させる)働きをなすのです。

私たちはしとやかに身を包むべきであって、「見栄えをよくすること」ばかりにやっきになってはいけないと思います。実際、これは虚栄心に他ならない場合が多く、その傾向は独身女性においてさらに顕著です。

それでは今度はお化粧やアクセサリーのことを考えてみることにします。まずはお化粧から。これもそれ自体は悪ではありません。少しお手入れをするといったことは適切である場合もあるでしょう。

でもあなたにぜひお分かち合いしたいことがあります。ご存知でしょうか。――男の人たちは実のところ、(女性の)化粧はあまり好きじゃないということを。

私の知っている男の子たちはナチュラルな外見をむしろ好んでいます。ノン・クリスチャンの男の子たちでさえ、全体としてあまり化粧は好きじゃないのです。

男の子たちにとっては、それはむしろ不安感を表すもののようです。ですから女性のみなさん、外見のことを心配しなくても大丈夫です。

もしあなたが、「人にどう見られているんだろう」という外面的なことを心配するなら、それは度を超えた厚化粧へとあなたを追いやり、それはむしろあなたにとって有害なものとなってしまいます。

アクセサリーについてですが、私は最小限にとどめるのが一番いいと思っています。これについてもお化粧と同じで、男の子たちはけばけばしい物にはあまり興味がないのです。彼らはもっと自然なものを好んでいます。できるだけシンプルにするのがいいと思います。

なぜなら、あなたのアイデンティティはそういった物のうちにあるのではなく、――キリストのうちに、そして主の尊んでおられる柔和で穏やかな霊のうちに――あるからです。

ここまでいろいろと申し上げてきました。願わくば、同じように慎み深さを求めている方々の日々の生活で私の分かち合ったことが、何らかの助けになったらと思います。

前にも申し上げた通り、聖書の中では慎み深さのラインというのははっきり明記されていません。でも、私たちはそれぞれの状況の中で、知恵と分別、そして思慮を求めるべきだと思います。

服装における慎み深さというのは、状況によっても異なります。それは決まった規則のようなものではないのです。おそらくそういう理由で、聖書にははっきりした線が引かれていないのかもしれません。

私たちは各自、多くの祈りを通して、そして主にあって成長していく過程を通して神様が与えてくださる知恵の中にそれらを求め続けていくべきだと思います。

慎み深さを求めるあなたの旅路の中に神様の祝福がありますように!

ケイガン・クック Kegan Cook

forever friends


追伸) 現在、ケイガンのブログを読みにきてくれる人の7割強がなんと日本の兄弟姉妹だそうです!彼女はそのことで非常に励まされています。ケイガンを応援してくださっている兄弟姉妹のみなさん、ありがとうございます。これからも彼女のブログを訪問し、心を合わせて彼女のような若いクリスチャンを応援していきましょう。



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