第ニ十ニ章
   神かこの世か――ボシャートの決断



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ブドウの木の間の雑草が伸び続けていたため、マルクスとレグラは再び鍬で雑草取りをしていた。二人はそうしながら、ブドウに地虫や昆虫がついていないか点検していた。

ここ数日、マルクスは本来の自分ではなかった。そしてレグラはもはやそれに耐えきれなくなっていた。彼女はやさしく尋ねた。「マルクス、何に悩んでいるのか、私に言ってちょうだい。」

彼は背を起こし、鍬によりかかりながら、ぼんやりと、下に広がる村を見詰めていた。「うーん、分からない。」彼はやっとそう言うと、両肩をすくめた。

「いいえ、あなたは分かっている。」マルクスから問題を聞き出そうと決心した妻は食い下がった。誰かに話すことは、苦痛を和らげるための一手段であることを彼女は知っていた。

妻の粘りに負け、マルクスはついに自分の思っていることを言葉にすることにした。そうすることによって、おそらく自分自身、何に苦悶しているのか、そしてどうすべきなのかがよりよく理解できるのかもしれなかった。

「簡単にいうとね、、」と彼は話し始めた。

「ここの教会はもはや成長していないってことだ。もっと正確にいうと、成長できない――こういう状況下では。むしろ、僕たちは敗北しつつある。それも無理はない。だって、僕たちは沈黙し、洗礼を授けたり、信仰を広めたりしないことを約束してしまったんだから。

依然として僕たちは秘密裏に、小さな群れとして集まり、聖書を読んでいるけど、その領域を越えて、さらなる一歩を踏み出すのを恐れている。僕たちの今のあり方は、はたして正しいのだろうか。どうなんだろう。」

レグラには夫の心の葛藤がよく伝わってきた。

「でも、マルクス」と彼女は言った。「それは私たちのせいじゃないわ。それに他にどんな選択肢があって?数か月前に何が起こったかあなたも知っての通りだわ。

もし教会が以前のようにまた洗礼を施したり、公に伝道し始めたりしたら、市参事会は男性の半分を再び牢に入れるでしょうよ。そうなったら、教会はどうなる?そこにも未来はなくってよ。そうじゃないかしら。」

「分からない。」考えをまとめようとしながら、ため息と共にマルクスは言葉を吐いた。

「今考えているのは、まさにその事なんだ。使徒ペテロとヨハンはどうしただろう。彼らの直面していた問題は、僕たちのそれと全く同じじゃなかっただろうか。」

「つまり、どんなこと。」レグラは言った。

「覚えてないかい。」マルクスは尋ねた。

「ユダヤ人の評議会はイエスの御名によって語ってはならないし、教えてもいけないって使徒たちに命じたんだ。絶対にいけないってね!でも使徒たちはこう答えた。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません』って。」

レグラは答えず、数分の間、間段なく土を掘っていた。マルクスもまた、自分の仕事に戻った。

それからしばらくして、マルクスは先ほどの話題を再び持ち出した。「今自分たちがやっていることをこれからも続けていくのは――僕の良心に照らして言えば――、正しい事のようには思えない。特に今、、、」彼はため息をついた。

「、、、特に神の御言葉を宣べ伝えるよう選任されて以来、僕はそう思ってきた。たとえ逮捕の危険があっても、僕は説教をしなければならないと思うんだ。」

「でも、、でももし牢に入れられてしまったら、ますます説教できなくなるじゃない。」必死になってレグラは反論した。

「ヨハン・ブロトゥリーが説明したように、それは別問題なんだよ。」マルクスは言った。

「何もかも理詰めで考えていったり、何が一番効果ある方法かを判断したりするのは、僕たち人間の務めではない。僕たちに必要なのはあくまで信仰に忠実であり続けることなんだ。そして結果は、神がつかさどってくださるんだ。

信仰に忠実かつ、清い良心をもって牢にいる方が、良心に呵責を覚えたまま自由であるより、どれだけいいかしれない。そしてまさにこれ――良心の呵責――が僕を苦しめているんだ。」

こうして話すうち、マルクスの中では、自らの取るべき道がより明瞭になった。そして夫が、心の内ですでにある決断に達したことを、レグラは感じ取った。ともかくも魂の葛藤は過ぎ去ったのだ。そう、彼は勝利したのである。

それとは対照的に、今やその葛藤は彼女の胸のうちで荒れ狂いはじめた。どうしてマルクスと離れ離れになれよう。彼が牢獄に連れて行かれ、パンと水だけの獄中で衰えていくのにまかせることなど、どうしてできようか。そして家に一人残された自分はどうなるのだろう。

牛の乳しぼり、ブドウの手入れ、、、自分だけじゃやっていけない。うん、とてもできない――彼女はその事を知っていた。さらに八月に赤ちゃんが生まれたら、、、こうした自己憐憫の波が彼女を襲った。そして涙がポタポタ落ちてきた。

マルクスは彼女の涙には気付かなかった。彼は彼で考え込んでいたからだ。彼は言った。

「フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロック――彼らは誰よりも長い期間獄中にいたが、自らが正しいと信ずる事に関し、一歩も譲らなかった。僕たちに必要なのは、彼らの持っているような勇気と信仰だ。もしくはヨハン・ブロトゥリーのような。

僕たちが一回目に牢に入れられた際に、降参したということを聞き、ヨハンはがっかりしていた。僕たちの今のあり方を彼はどう思っているのだろう、、、」

ふとマルクスは立ち止った。目の前のブドウの木の下から一本の杭が突き出ていた。なんだろうと、一瞬マルクスはいぶかしく思った。そして彼は思い出した。ああ、これはあの傷んだ枝――冬の雪でほとんどダメになってしまっていた枝――に印をつけておこうと地面に差し込んでおいた杭だ。

「レグラ、ここにおいで。」彼は呼び、両手でこの木をかきわけ、よく見てみた。

レグラはやって来た。二人は共に傷んだ枝をのぞき込んだ。

それは枯れていなかった。そこには新しい芽、緑の葉、そして小さなブドウの房がみえた。とはいっても、依然としてこの枝はかなり傷んでいた。これからの数カ月、順調に成長し続けて再びブドウの木となるのか、それとも、風の強い日などに、完全に引きちぎれてしまうのか、それはまだ分からなかった。

「か弱い枝だ、そうじゃない?」マルクスは言った。そしてこうつけ加えた。「僕らの信仰に少し似ているかもしれない。ブドウの木にとどまらない限り、僕たちは実を結ぶ枝とはなりえないんだ。」

こう言って顔を上げたマルクスは初めて、妻の涙に気付いた。「どうしたの、レグラ。」彼は叫んだ。「どうして泣いているの。」

☆☆☆

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その週の終わりに、ホッティンガー爺さんがワルドシュットへの旅から帰ってきた。マルクスはかなりほっとした。爺さんの留守中、教会は彼の助言と影響力をぜひとも必要としていたのだった。

爺さんは到着してすぐの晩、早速マルクスの所にやって来た。彼らにはいろいろと話し合うべきことがあった。

「フープマイアー博士は優れた人物だ。」爺さんは説明した。「そしてかなりの人が彼に追従している。ワルドシュットの村人はほとんど百パーセント、彼の側についている。」

「彼は僕たちと同じ意見なのかな。」

「洗礼に関しては、そうだ」と爺さんは答えた。

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(↑フープマイアー博士)

「無抵抗主義に関し、フープマイアー博士が完全には僕たちと一致した意見を持っていないことにコンラート兄弟は、失望していた。彼らはそれについて長らく話しあっていたようだ。

とにかく博士の心はさらなる真理の解き明かしに対し、開かれているようなのだ。だからこそ、『一キリスト者は、同胞に対して、武力を行使しない』という真理を、博士がはっきりと知ることができるよう、コンラードは願っている。」

「でも、博士は幼児洗礼には強固に反対しているじゃない?」マルクスは尋ねた。

「そう、それは確かだ。『洗礼、再洗礼、そして幼児洗礼に関して』と題するツヴィングリの新刊を博士は読んだのだが、彼は、『神の助けにより、私はこれに対する返答を書く。そして幼児洗礼は聖書のどこにも提言されていないことを示すつもりだ』と明言しておった。」

「そういう冊子は重宝されるだろうよ。」マルクスは言った。

「ツヴィングリは僕たちを論駁する、ありとあらゆる種類の冊子を出版しているのに、僕たちには活字の形でそれに返答することが許されていないっているのは、公平じゃない気がする。」

「いかにツヴィングリであっても、わしらが何かを書くことを禁じる――それはできない」と爺さんは訂正した。「だが、彼はその影響力を行使して、印刷に至らないよう取り計らうことはできる。幼児洗礼に反対するような冊子をあえて印刷しようと思う出版社などチューリッヒには一つも存在しない。

しかしフープマイアー博士となると話は違ってくる。何といっても村の評議会が彼を支持しているんだからな。博士は有能な執筆家だと彼らは言っているんだ。」

「おそらく博士は、コンラート・グレーベルとフェリクス・マンツの書き物を出版することに関しても、協力してくれるかもしれない。」マルクスは言った。

「それは可能かもな。」爺さんは考えに耽りながら言った。そうして彼は話題を変えた。「マルクスや、わしが留守中、ここはどんな状況だったかい。」

「たいして変わりはなかったな。村の何もかもが静かだった。いや、あまりに静かすぎたといっても過言じゃないかもしれない。」

爺さんは、けげんそうに見上げた。「静かすぎる?どういう意味だい。」

マルクスは自分の信念を言葉にしようとつとめた。「僕たちは自分たちの確信しているところに従って生きていないんじゃないかって懸念しているんだ。参事会が命じるからといって、沈黙を保つのは果たして正しいことだろうかって。」

爺さんはしばらくして答えた。「だが、わしらが厳密に監視されているってことはお前も知っているだろう。」

「それは知っている、でもそれで自分たちのやっていることは果たして正当化されるのだろうか。」マルクスの声は緊迫していた。「行動を起こすのが怖いばかりに、おびえたウサギのようにちぢこまっていてもいいのだろうか。」

老人は髭をなでつつ、きいていた。

「人々は真理に飢え渇いている。」マルクスは続けて言った。

「皆、聖書の言葉をききたいと思っている。なぜって、彼らは神の命じておられることを知りたがっているからだ。そんな彼らを見捨てることはできない。」

「そうだ、そうとも、彼らを見捨てることはできない。」爺さんは考え深げに繰り返した。「だが問題は、どうやってやるかだ、、、、」彼は終わりまで言わなかった。

マルクスは励まされた。少なくとも爺さんは、僕の懸念していることを分かってくれている。

「自分たちのできることをやらねばならん。」老人は言った。「近郊の村々に数人の兄弟たちを遣わし、そこで聖書を朗読させるのは、いい出だしだと思うんだがね。マルクス、それについてどう思うか言っておくれ。」

マルクスは爺さんが何について言及しているのかを悟った。「二週間ほど前のことだった」と彼は説明した。

「爺さんがワルドシュットに出かけた直後、ワッセルベルグから数人の村人がやってきて、『兄弟を村に派遣し、聖書をわたしたちに解き明かしてください』と頼んできたんだ。僕たちはそれについて協議し、ルドルフ・リッチマンを選任した。それで日曜日に彼はその村に行ったんだけど、その際、一人で行くのはなんだからと、キーナストを同伴して行った。

「ルドルフは数章を読み上げたんだが、それっきりだった。洗礼について彼は何も説教しなかったし、教えもしなかったんだ。」

「なるほど。」爺さんはうなずいた。

「この事は人づてに伝わったとみえて、翌週には――つまり先週のことだけど――、ナニコン村から使者が来て、向こうの村人のためにも聖書朗読をしてくれるよう頼んできた。今回はリッチ・ホッティンガーも同伴した。そしてここでも彼らは数章を読み上げただけで、帰路に着いたんだ。」

「言い換えれば、彼らはあくまで慎重を期しているってことだな。」
「そう。」マルクスは言った。

「その事で、彼らが参事会の怒りを買うようなことはないと思うがな」と爺さんは述べた。「教えたり、説教したりせず、ただ単に集まって聖書を学ぶ分には、何ら支障はないと、ツヴィングリは昨冬言っておった。」

「でもそれはあくまで去年の冬の話だよ。」マルクスは彼にくぎを刺した。

「まあ。話を終わりまで聞いて。ナニコン村からの帰り道、兄弟たちはある問題に遭遇したんだ。マウアー村にさしかかった際、群衆が彼らを止め、自分たちにも聖書を朗読してくれるよう嘆願しはじめたんだ。

もう遅い時刻だし、家に帰らなくてはならないとリッチマンは言った。でも村人たちは引き下がらなかった。そうするうちにも、村人はあらゆる方向からやって来、その数はどんどん増えていった。

『洗礼について私らに読み上げてくれ!』と彼らは叫んだ。リッチマン兄弟は言った。『いいや、僕たちは洗礼に関して読んだり、話したりしてはならないんだ。というのもあなた方にはおそらく理解できないと思うから。でもその代わり、同胞に対する兄弟愛についての箇所を読んであげよう。なぜなら、洗礼より先に、まず愛がくるからだ。』

「それで?」結果を知りたくてたまらないという風に、爺さんは尋ねた。

「でも彼らは洗礼に関する章を読んでほしいとせがみ続けた。そしてそのうち、ある者が、『牧師先生を呼んでこようじゃないか。先生なら洗礼のことを理解しているだろうし、我々に説明してくださるだろう』と提案したらしい。

でも実は牧師自身もうそこに来ていたんだ。彼は気さくな人で、兄弟たちに向かい、洗礼に関する一章を読み上げるよう、身ぶりで示したんだ。リッチマンが読み上げた後、人々の間で話し合いがなされたが、全ては静寂かつ平安のうちに行われたということだった。」

「本当に、彼らの内には、神の御言葉に対する飢え渇きがある」と爺さんは言った。「このような事は今までの人生の中で、一度も見たことがなかった。」

「そう。そして皆の内に、神の御心――特に洗礼に関して――を知りたいという熱烈な求めがあるんだ」とマルクスは同意した。「人々はこの事に関し、真剣そのものだ。だから何らかの形で彼らを助けることはできないだろうかって僕は思っている。」

「もっともだ。もっともだ。」爺さんは言った。「おそらく今が、今晩の来訪の本当の理由をお前に言う最善の時なのかもしれない。」

「何?来訪の目的って。」
「コンラート・グレーベルに頼まれたんだ。」

「コンラートに?」
「そう。彼が今夏、グリューニゲンで主の働きをしたがっていたことを覚えておるかな。」

「うん。僕たちがヨハン・ブロトゥリーの家にいた時、そう言っていた。」

「今、彼はそこに行っておる。そしてここの村人の間で今に大きな魂の収穫があるだろうと彼は言っている。しかし、いかんせんコンラートは一人きりだ。フェリクス・マンツとブラウロックは、東の方にある、ゲオルグの故郷の州に行っておる。そこでコンラートはお前にグリューニゲンに来てもらいたいと思っているんだ。」

マルクスは驚きの余り、声がでなかった。「で、でも、、、どうして彼は僕に頼んだのかな。」

「それは、分からん。でもおそらく主が取り計らっておられるのだろう。今晩お前の告白をきいて、わしはこの導きに確かなものを感じたよ。これは御心だと。」

「でも、こ、ここの教会はいったいどうなるの。」

「もしお前がグリューニゲンで必要とされるのなら、こちらの方は我々でなんとかできるよ。」

マルクスの思いは散り散りに乱れた。妻に話したかったが、レグラは妹に会いにフリードリーの家に行っていた。レグラは何と思うだろう。これは神の導きなのだろうか。

グリューニゲン。――南東の方角に、丘を登ること半日の距離にあったが、依然としてチューリッヒ州の管轄下にあった。

ここはコンラート・グレーベルの幼少時代の故郷であり、働き者の農夫や羊飼いの住む地、そして緑に覆われた丘陵の地であった。そしてそこの民は独立心にあふれた人々であった。ゾリコンの民のように、グリューニゲンの農民たちも、チューリッヒ市と長い間、抗争していたのである。

マルクスはそこの地理に疎かった。グリューニゲンの町やヒンウィル、バレッツウィルといった村を訪れたことは、これまでの人生でほんの数回しかなかった。しかしコンラート・グレーベルはその地をよく知っていた。

おそらく自分たちは、家から家へと訪問していきながら、切に神に仕えたいと願っている魂を探し出すことができるかもしれない。伝道集会も開かれるだろう――そう、夜、森の奥まった所で。そう考えると、マルクスはそこに行きたくてウズウズしてきた。

でもレグラはどうなるのだろう。彼は片時も、彼女を置き去りにすることなどできなかった。一週間に一回かそこらは、ぜひともゾリコンの家に帰って、彼女が元気かどうか確かめなくてはならない。離れ離れになる苦しさを、マルクスはすでに自覚していた。でももしこれが神の御心だとしたら、、、

「どう思うかね。」ホッティンガー爺は尋ねた。「コンラートを助ける気はあるかい。」

「まず話し合ってみなければ、レグラと僕とで」とマルクスは答えた。「そして祈ってみる。」

爺さんは言った。「わしもお前のために祈るよ。」彼は自分の心にひたと寄り添ってくれている、この孫息子にあたたかく微笑みかけた。そして彼は家に帰っていった。

数分後、レグラが帰宅した。彼女はある知らせをもたらした。

――リッチ・ホッティンガーとルドルフ・リッチマンが捕えられ、獄中にいると。

第23章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第21章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』