数日前、ある年配の姉妹から次のようなお便りをいただきました。

この時代に生きる私たちには「真理への愛」が必要です。まず自分自身の罪に対する真実を知り、それを受け入れること、そこから始まります。

テサロニケの信徒への手紙二、2章全体、特に9節から12節には、そのことが書かれています。私たちが今日、心からすべてのことで真理を求めて生きるなら、惑わしから守られるでしょう。それは日常生活の小さなことから始まり、また周りの人々、世間で起きていることに対してもいえます。



この手紙をいただき、私はじっと考えました。「真理への愛」はまず自分自身の罪に対する真実を知り、それを受け入れることから始まること、また、日常生活のどんな小さなことでも心からすべてのことで真理を求めて生きることが、惑わしから守られる鍵であること――五十年以上、主と親しく歩んでこられた聖徒の言葉には含蓄と力がありました。

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「真理への愛」(Ⅱテサ2:10)というテーマに関して、昨日、私は、すばらしいメッセージを聴きました。↓これです。



D.A.カーソン師の「寛容の〈非寛容〉The Intolerance of Tolerance」という講演なのですが、彼は、昨今の「宗教寛容」という思想の流れに鋭くメスを入れ、その実態を福音の光の下に明らかにしています。そして、こういった潮流の中で戸惑いと混乱を覚えているクリスチャンを力強く励ましています。

このメッセージの内容を少し要約します。

カーソン師によれば、昨今、西洋社会において、「(宗教)寛容」という語義に変遷がみられるというのです。

旧来の「寛容」は、「自分とは異なる見方の存在を認める」という意味合いを持っていました。

例えば、ボルテールの「私は、あなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命を懸けて守ろう」という言葉などが有名です。

それに対して、現在、使われている「寛容」という言葉は、「異なる見方(自体)を認める・承認する」という新しい意味合いを帯びているというのです。

こういった新しい「寛容」は私たちクリスチャンにささやきます。

「すべての真理は相対的なものなんです。そして、すべての宗教は(それを信じる一人一人にとって)等しく真理を反映したものなんですよ。だから、絶対的な真理というのは存在しないんです。イエス様はあなたにとって真理に至る道。それは結構。でもBさんにとっては仏陀が真理に至る道です。そして、それも等しく結構です」と。

しかし新しい「寛容」はここにとどまるだけではありません。さらに前進し、究極的にこれを社会の最高価値にまで押し上げようとしているのです。

新しい「寛容」は一見、やさしい紳士のようにみえますが、「すべての真理・宗教は相対的なもの」という自分のアジェンダに挑んでくる人間に対しては、情け容赦なくハンマーを打ち下ろすのです。

――あなたが聖書を信じるのは結構。でも「イエス・キリストだけが御父に至る唯一の道です」とか「イエス様を信じなければ救いはない」とか「聖書には同性愛は罪と書いてある」とか、そういうことは間違っても言ってはいけない。

そういうことは「寛容」の精神に反する、愛のない「非寛容」発言であり、他者の宗教・生き方・人権を蹂躙するゆゆしき行為なのだと。

こうしてクリスチャンは自分たちが偏狭な「非寛容者」呼ばわりされることを恐れ、聖書の真理をまっすぐに語ることをはばかるようになるのです。

カーソン師は、こういった「寛容」という名の下に、実は非常に「非寛容」な相対主義が潜んでいることを鋭く指摘し、それはやがて私たちのうちに倫理的破綻をもたらす結果になると警鐘を鳴らしています。

そして氏は、聖書の真理に立つ者は、その真理ゆえに苦しむことを恐れてはならないと次のような聖句から私たちを励ましています。

人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。ルカ6:22、23a



あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。ピリピ1:29



そして次のような実話を紹介しておられました。ある友人の牧師の教会にユダヤ教のラビがやって来たそうです。それをきっかけに二人はヘブライ語を学んだり、共に語り合ったりする親しい友になったそうです。

ある日、まじめな顔でラビが友人の牧師に尋ねました。「ひとつ訊きたいことがある。私の現在の宗教体系では、自分は地獄に行くのか?」

牧師はラビをみつめ、こう答えました。「イエスはそうおっしゃっている。そして私もそう考えている。」

この答えを聞いたラビはこう言ったそうです。「私は君を信頼できる。――他の誰よりも。これまで誰もそれをまっすぐ私に語ってくれたクリスチャンはいなかった」と。

☆☆
おわりに

私は昨晩、「真理への愛をはばむものは何だろう?」と考えました。

人への恐れ、霊的八方美人、自己保身、、でもそこからさらに深く探っていくと見えてきたのは、自分のうちに「十字架を避けたい」という頑強な思いがあることでした。

あなたは王国に導く十字架を負うことをなぜ恐れるのであろうか。十字架には救いがある。十字架には命がある。十字架には敵を防ぐ保護がある。十字架のほかに魂の救いも永遠の命の希望もない、、

見よ、一切の事は十字架にある。一切の事はわれわれがそこで死ぬことにある、、十字架は常に備わり、至るところあなたを待っている。あなたがどこに走ろうとも、それを免れることはできない。どこに行こうとも、あなたは自分を伴い、常に自分を見出すからである。

上にも下にも、外にも内にも、どこを見ても、あなたは十字架を見出すであろう。もし内心の平安を保ち、永遠の冠を得ようと思ったら、どこにいても必ず忍耐を持たなくてはならない。『キリストにならいて』p94-95



十字架を通らずして栄光はなく、この世にあってキリストと共に苦しむ覚悟がなければ、キリストの真理に生き抜くことはできないことを改めて思わされました。

最後に冒頭でご紹介した老姉妹の結びのことばをもって終わりにさせていただきます。

かつてナチドイツの支配のもと、何が起こっているかに気づいたのはごくわずかなクリスチャンです。ほとんどの教会はヒットラーの言いなりになっていました。

惑わしの霊であふれている今の世界、どうか私たちクリスチャンが真理を愛する者とされ、いざというとき、イエス様に背を向けるようなことがありませんよう、祈ってゆきましょう。



アーメン。


私の道を選んでください―詩と祈り―

第四の夜回り(The Fourth Watch)[詩]