先日私は、「『宗教寛容』という『非寛容』な圧力――真理への愛に生きることを求めて」(ココ)という記事を書きましたが、それに対して、次のようなコメントを寄せてくださった方がいらっしゃいました。私にとって為になる批判だったので、ここでご紹介します。

信教の自由に反することは書いてはいけませんよ。
何を書いてもいいわけではないので私は一ブロガーとして書くべき記事は厳選しています。

自分達の教理・教義と異なるから神社参拝は反対だというのは、はなはだ不遜な考えとは思いませんか?

キリスト教は考えの違うものを憎んで殺してきた歴史があります。

「愛を阻むもの」 それこそ愛を吸引してきた、人類を不幸にする人工の教義なのではないですか?

低級な思想に惑わされないことをお勧めします。



これに対して、私は次のようなお返事を書きました。

コメントをありがとうございます。このように建設的な精神でコメントを書いてくださる方を私は歓迎します。また、建設的な批判は、自分にとっても為になります。ありがとうございます。

たしかにキリスト教は考えの違うものを憎んで殺してきた歴史があります。残念なことに、これまで何千、何万という人間がイエス・キリストの御名によって虐殺されてきました。

「敵を愛しなさい」というイエスの教えを、神学者たちや為政者たちは自分たちに都合のいいように曲解し、正義の戦争を正当化し、その結果、クリスチャンは、歴代、異教徒を殺戮し、「異端者」を火あぶりにし、また同士討ちしてきました。

こういった事実に直面し、私たちクリスチャンは、ただ頭を垂れ、「主よ、ゆるしてください。」と悔い改めるしかないと思います。私たちクリスチャンが、クリスチャンらしく生きてこなかったこと、そのことをどうぞおゆるしください。

また「自分たちの教理・教義とは異なるから神社参拝に反対」という点ですが、これは、一部のクリスチャンたちが首相の公式神社参拝に抗議しているということをおっしゃっているのでしょうか。

これに関して、私は個人的に、「クリスチャンは、新約聖書ローマ人への手紙13章の御言葉に従い、上に立てられている政府に対し、政治的抗議活動をするべきではない」という立場にたっています。

私個人としては、神社参拝はしません。また、たとえ政府に神社参拝を強要されるような事態が発生しても、使徒5:29「人に従うより、神に従うべきです」という御言葉に従い、私は参拝を拒否します。

しかし、国の為政者が参拝行為をすることに関しては、私は抗議しません。新約聖書には、国の為政者に対してデモ行進や抗議活動しなさい、ではなく、「彼らのためにとりなし、祈りなさい」(1テモテ2:1)と書いてあります。

米国の福音派の中には、国家権力に訴えかけて、キリスト教的な倫理を国の政策に反映させていこうという動きがありますが、私はそれは聖書的な態度ではないと考えています。

ありがとうございます。



「『宗教寛容』という『非寛容』な圧力」というタイトルを読んで、私が中世的な「宗教非寛容社会に回帰しよう」と呼び掛けているのでは、と誤解された方もおられるのではないかと思いました。

もちろん、そういうつもりで書いたわけでは全くないのですが、題名を見る限りにおいては、そのように受け取られても仕方がない部分もあるかもしれないと反省しました。

また、現在、私たちが享受している信教の自由という権利が獲得されるまでには、何千年という長い年月と、先人たちの血のにじむような努力があったことも忘れてはならないと思いました。(Leonard Verduin, The Anatomy of a Hybrid, A Study in Church-State Relationshipsにその壮絶な歴史が詳記されています。)

それから、上のコメントのお返事のところにも書きましたが、福音宣教は、ただ純粋に御霊の力にのみ寄り頼むべきであって、国家権力を盾にしたり、世の力に訴えて人々に信仰を「強要」することは断じて許されていないし、それはクリスチャンのとるべき態度ではないと私は信じています。

それと同時に、言論の自由という権利も現在、私たち皆に与えられていることを感謝しています。この自由が今後いつまで保たれるのかは分かりませんが、私は同じ信仰の道を歩む皆さんと共にこれからもイエス様の福音を伝えていきたいと願っています。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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