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(書簡をしたためるパウロ)

私たちはイエス様を信じ、「自由を与えられるために召されました」(ガラテヤ5:13)。その結果、私たちは自分たちを縛りつけていた律法のくびきから解放され、もはや「律法の下にはなく、恵みの下にあります」(ローマ6:14b)。

さて、そのように自由にされた私たちが福音を携え、異教徒の元へと出て行きます。そこで私たちはかつて知らなかったようなさまざまな文化規範(倫理/宗教規範)に遭遇します。

今日は、みなさんとご一緒に――特に、中東圏(イスラム/ユダヤ教圏)に宣教の働きに遣わされようとしている方々と共に――「豚肉」について考えていきたいと思います。

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私の田舎は全国でも有数の豚の特産県ということもあって、小さい頃から豚肉というのは私にとってなじみのお肉でした。(ちなみに私の祖母は、うどんのだしをとるのに、昆布のかわりに豚肉を使っていました。)

さて、年月が経ち、私はイエス様を信じました。そして不思議な導きにより、数カ月、何人かのクリスチャンと共に北アフリカの某国に滞在することになりました。十一年前のことです。

ある日、私たちは昼食をとるために、小さな現地レストランに入りました。そこは外国人を対象にしたレストランだったため、ラマザン(断食)月だったのにも関わらず、昼間から開店していました。私はそこで豚肉料理を注文しました。

しばらくすると、ウェイターの若い現地の女の子が料理をもってやって来ました。黙々と料理皿をテーブルの上に載せていく彼女の顔をみた時、私ははっとしました。そこには、ある隠しようのない困惑ととまどい、そしてかすかな軽蔑の情が出ていたからです。

そしてその瞬間、私は次の御言葉を思い出しました。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました、、律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです、、すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:19、20、22)



私は思いました。「断食月のまっ昼間にレストランで豚肉料理を注文した外国人女性。少なくとも目の前にいるこの若い女性にとって、私の語る言葉はなんら心に響くものとはならないだろう。私がどんなに聖なるイエス様のことを語っても、その聖さは、少なくとも私という存在を通しては彼女に伝わらないだろう。」

そしてその日を最後に、私は豚肉を食することをやめました。

中東圏で奉仕されている宣教師の方々の中には、

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」 Ⅰテモテ4:4、5 および



イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。マルコ7:18、19



の聖句等を根拠に、「自分たちが豚肉を食べ続けることには全く問題がない」ということを強調しておられる方々もいます。

たしかに上の御言葉が指し示すように、私たちクリスチャンにとって汚れた食物というのは存在しません。だから、私たちは、本来、どこにいても(たとえ中東圏で奉仕していたとしても)豚肉を食べてもかまわないし、そこには自由があります。

でもその一方で、豚肉を断った外国人伝道者たちは、「それがハラーム(→口にすることを禁止されている食物:アラビア語حرام‎ harām)だからという理由ではなく、豚肉を食することが福音宣教のさまたげになるようなら、つまり、現地の人々にとってつまずきとなるなら、私たちは今後いっさい豚肉を食べません(Ⅰコリント8:13参照)」と、「隣人に対する愛」をその動機として語っておられます。

そして私もこの後者の方々の姿勢に共感を覚えています。

私たちクリスチャンはハラール(合法的に食べてよいとされる食物 حلال‎ Halāl)やハラームの戒律に縛られていませんし、旧約の食物規定にも縛られていません。

ですから、私たちが何かを断つ時、その唯一の動機は、Ⅰコリント9章22節「それは、何とかして、幾人かでも救うため」、つまり救霊のため、隣人にイエス様の福音を伝えたいという愛が根本であるべきだと思います。

また話が少し広がりますが、愛を動機とする時、私たちは、アルコールに対してもまた、妥協のない態度をとるようになると思います。

アルコール依存症者数は、平成9年の調査で242万人にのぼり、現在では300万人を超えるといわれている。(日本における統計)引用元: ココ


米国における2013年の統計では、毎年八万八千人近い人々(うち男性約六万二千人、女性二万六千人)がアルコール依存およびそれに関連する原因で死亡している。引用元:ココ


この前、ある牧師先生が、Ⅰテモテ5:23「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」の御言葉を引用しつつ、なぜ自分がワインを常飲しているのか(そしてそれは正当化されるのか)ということについて説明しておられました。

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しかし、私たちが、アルコール依存症で苦しんでいる人々およびその家族のことを思い、彼らの魂に対してまじりけのない愛と痛みをもつ時、私たちはパウロと共に、「もし食物(ここではお酒)が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさいお酒を口にしません」と宣言せざるをえないと思います。

実際に、(元)アル中の夫から殴る蹴るの暴行を受けていた奥さんが泣きながら私に電話してこられ、「夫も私も今、教会に通っています。でも、悲しいことにそこの教会の奉仕者たちはお酒を飲んでいるのです。そして家に主人を招いては、主人の目の前でお酒を飲んでいるのです。今のところ、主人は自制して、その誘惑をなんとか振り切っていますが、今後いつまた始めないとも限りません。それがとても怖いのです」と苦悶の情を吐露されました。

自由な人といえば、イエス様ほど自由なお方はいまだかつて存在しなかったろうと思います。しかし、私たちを愛する愛ゆえに、イエス様はあえてご自分を低く卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8参照)

それほどまでに私たち人間は一人一人尊い存在なのです。そして神様の願いは、人が一人して滅びることなく、皆イエス様を信じて救われることです。そのことを黙想するとき、私たちは神様の愛に圧倒されると共に、キリストの使節として、「愛する相手につまずきを与えるどんな物とも今後いっさい袂を分かつ」という聖い決意が与えられるはずです。

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(主よ、あなたを知らずに滅びゆく魂のために涙を流して祈る者とさせてください。)

最後にガラテヤ人への手紙5章13、14節の御言葉をもって終わらせていただきます。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。




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