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(逃げるシカ)

以前、「万人救済論と聖書の真理」(ココ)という記事を書きましたが、私の心には未だにこの真理をめぐっての戦いがあります。

「たしかにイエス様は『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる』(ヨハネ3:36)とおっしゃっている。それは分かる。でもそれを信じたくない自分がいる。私はイエス様を信じないAさんやBさんが、このままだと地獄に行ってしまうという聖書の現実に耳をふさぎたいし、できることなら、〈万人救済論〉という甘い幻想物語の中に逃げ込みたい。でも、それじゃいけない。逃げたらだめ。」

イエス様は「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32b)とおっしゃっています。神の怒り(wrath)それから裁きという聖書の真理は、肉の耳や心には到底受け入れがたいものです。この真理を前に、私たちの生来の思い・考えはもがき苦しみます。

なぜでしょうか。私はこう思います。――この真理の前に私たちが「本当に」跪いた時、そしてそれにアーメンと言った時、私たちは一人残らず、炎の伝道者――人々にさげすまれ、排除され、悪口をたたかれる主の囚人――にならざるを得ないからだと。

この真理を受け入れた時、私たちのなまぬるさは取り除かれ、自己中心的な考えや生活に一大変革が起こり、私たちは救霊のためにすべてをなげうつようになるのだと思います。

何日か前に、スポルジョンの「橋なき深淵(The Bridgeless Gulf」という説教録を読みました。この説教により、――「万人救済論」という嘘を未だに心のどこかで信じたがっていた私の肉に――とどめの一撃が加えられました。

この説教の和訳はおそらく出されているとは思うのですが、私は自分自身の心にこのメッセージを刻みつけるために、これを日本語に訳すことにしました。そして「私の魂よ、これに聞け。この真理に聞きなさい」と言い聞かせながら翻訳作業を進めていきました。

またこれを訳す間にも、まだイエス様を信じていない友人や家族の顔が思い浮かんでは消えていきました。いつの日か愛する彼らがこのメッセージに目を留める日が来ますように。そして、みなさんの愛する人々がこのメッセージを読む日が訪れますように。

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橋なき深淵(The Bridgeless Gulf)

以下は、1863年7月5日主日朝、ニューイングトンにあるメトロポリタン・タバナクル教会にてなされたC・H・スポルジョンによる説教です。

「そればかりか、わたしたちとあなたがたの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。」(ルカ16章26節)



1.この数カ月、私は、――キリストにある神の愛とあわれみを説きつつ――銀のラッパを吹きならすよう導かれていました。これまで何度となく私は、豊かなキリストを、空ろな罪びとに説いてきましたし、福音の中で、罪びとのかしらに対して述べられているこの神聖なメッセージのもつ自由そして憐みについて申し上げてきました。そのことをみなさん、お聞きになってきたでしょう。

この点に関して、私は神のご計画を余すところなく述べてきたつもりです。しかし、今回私は、「耳障りの悪い雄羊の角笛を吹きならさなくてはならない」と、こう感じているのであります。といいますのも、神の掟や恐ろしさ、来るべき裁きについて、私たちは時にそれらを肝に銘じる必要があるからです。

私たちの経験してきたところによりますと、裁きに関する説教というのは、神によって非常に祝されるものなのです。そういった説教――あらゆる罪悪に対する神の怒りの言明は、もっとも単純明快にして、かつ厳粛なものであります――により、非常に多くの回心が起こされてきました。

激しい雷雨は空気を浄化します。ある種の疫病は凪(なぎ)の状態だと菌が繁殖します。こういうものは稲妻の閃光によってでしか除去されえないのです。神がその僕に重々しい使信を託する時、そういった警告のメッセージは霊的大気を清め、そのまま放っておくと人々の上に降りかかってくるような、怠惰、高慢、無関心、倦怠感といったものを葬り去ります。

とがった縫い針が糸のための道を備えるがごとく、鋭い掟は神の恵みというきらびやかな銀糸のための道を作るのです。メスは、鎮痛薬と同じくらい必要とされているのです。子供を学校に導いた古代ギリシアの教育者と同様、(神の)掟は私たちをキリストに導く教育者なのです。

ですから、掟は私たちをキリストに導き、キリストは私たちを教え、訓育し、救いに至る知恵を与えてくれます。ピューリタンの時代、福音と共にこういった掟をもしっかり説いた人々は、魂を勝ち取るに当たり最も実を結びました。

また、私たちの主であり師であるキリストをみますと、主の心は憐みに満ち、そのご性質そのものが愛に他なりませんでした。しかし、同じ主はまた、来るべき(神の)御怒りについてしばし力説しておられ、その言葉たるや、雷鳴のような古の預言者の口より出されし炎々たる警告以上に、すごみがあり、おそろしいものでありました。

願わくば、私の熱望している結果が、今自分の上に非常に重くのしかかっているこの主の重荷より引き出されますことを祈ります。主が今日、ご自身のために種を集められ、その種が来るべき御怒りから救われ、とこしえまでも贖い主の産みの苦しみの報酬とされますように。

主をすでにご存知の方、主の力に与っている方は、心を神に向けてください。そして聴く者の心が砕かれ、罪びとがイエスの元に導かれるべく、聖霊が力強く働いてくださいますよう祈ってください。

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2.「そればかりでなく、わたしたちとあなたがたの間には、大きな淵があります。

人間はその発明の才をもって、大きな深淵に橋を架けてきました。どんなに幅の広い河川であっても、急流が荒れ狂っていても、人間はそれを制圧してきました。

コロンビアの壮大な大滝のはるか頭上に、人間は、細くはあっても、頑丈な鉄製の橋を架けましたし、ナイアガラの滝のごう音の上には機関車のゴーゴーいう音が鳴り響いています。

ちょうど今週、私はクリフトンのブリストル・アヴォンを通っている深い亀裂を測る最初の測鎖というものを見ました。こうして人間は裂け目につり橋を架けてきました。この調子でいくなら近い将来、人間はこれまで翼を持つ鳥しか知らなかったような道を見いだし旅するようになるでしょう。

しかしここに、どんな人間の技術や工学をもってしても橋を架けることのできない深淵がただ一つあります。どんな翼も決して越えることのできない裂け目がただ一つあるのです。その深淵とは、義人が勝利し喜んでいる世界と、悪人がヤーウェの剣の怒りにおののく悲哀の地を隔てている裂け目のことです。

なぜ未来の状態において、義人が悪人と交わりを持たないのかということでいろいろと議論がありますが、そこには固定したある大きな深淵があり、それゆえ、一方の世界からもう片方の世界に渡る通路は存在しえないのです。

天国から地獄への通路はない

3.これについて厳かに申し上げるにあたって、私は次の一言から始めようと思います。―それは、天国から地獄への通路はない―「こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできない」のです。

栄化された聖徒は失われた罪びとのいる監獄を訪れることはできません。もうそれまでに十分、義人は悪人と一緒に生きてきました。麦が毒草の中で息苦しく生きてきた悪しき期間はもう十分です。もみがらが麦と共に同じ床の上に置かれている期間も、もう十分すぎるくらいありました。忍耐できるところまで忍耐はなされました。収穫の時まで両者は共に育ちました。

ですから収穫の時となった時、もはや一緒にいる必要はなくなるわけです。そのような混合状態――罪が義人たちのただ中に許され入り込んでくること、もしくは悪の住み処で両者の交わりが持たれること――は、全き静けさと聖さを伴う、義人の全き喜びと祝福されし状態とは相いれないものです。

聖徒たちが敵を助けるために、絶望に陥っている仇を慰めるため、主イエス・キリストの美しさから目を離し、主のご人格を崇めることをやめてしまうのは、主にとって光栄なことではありません。無慈悲な敵を救援するために、天における延臣が、自身の王にそむく反逆者となっていいものでしょうか。永遠の宝冠を頭につけし王家の血統をもつ王子たちが、栄誉の帯を脇にやり、地獄にいる滅ぶ者たちのための使用人となるべきなのでしょうか。

彼ら滅びの人々は、キリスト(の福音)が彼らに宣べ伝えられた時、御子の前にひざまずかず、口づけをしなかったのです。ですから、上のような事態はあってはならず、そしてありえないのです。それに、神のご意図は、真鍮でできた巨山のように、義人が聖さと喜びのうちに、永遠に神の元にいることです。そして義人は――たとえそう望んだとしても――悪人の世界とを隔てている大きな深淵を越えることはできないし、越えてはならないのです。

4.従って、その時点になると、どんなに「真摯で勤勉な伝道者」であっても、罪びとを立ち返らせるという希望をもはやことごとく捨てなければなりません。

神は使徒的な魂を幾人か起こしてくださり、彼らはその国において日の出のような存在です。暗闇は彼らの前に逃げ去り、救いの光が何万もの人々に差し込みました。彼らが手をかかげ説教すると、神は地獄の門を揺さぶる力を彼らに与えられます。また彼らが跪いて祈ると、天の門が開かれます。

あふれんばかりの愛の心の持ち主であるバクスター、燃えるような舌を持つジョセフ・アライン、セラフの火を持つホワイトフィールド、もしくはケルビムの情熱の持ち主であるウェスレーといった男たち。

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こういった人々は時代を祝福し、真に偉大な逸材です。彼らは望むなら、地の果てまでも行くことができます。というのも彼らの任務の範囲は人類(の分布)と同一の広がりを持つからです。「それゆえに、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいるのである。」[マタイ28:19、20]

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彼らにとっては説教をしている時ほど至福の時はなかったのです。福音を伝えないことは彼らにとってわざわいでした。そしてひとたび説教をすると神の助けが与えられ、彼らはエフーのように、その奮闘によりまた新たにされたのです。彼らは福音を宣べ伝え、罪びとをキリストの元へ勝ち取るべくして生まれてきたのであり、従って、この高尚な任務を全うしない限りは決して満足することができないのです。

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しかし彼らといえども、まもなくこの働きをやめなければなりません。というのも天国においてはもはや彼らは必要とされておらず、地獄からは彼らは排除されているからです。おお罪びとよ、たとえ弱くともわれわれのこの声が、今この時、あなたをキリストに勝ち取らんことを。

しかしもしあなたが悔い改めないならば、もう決して再びあなたを救い主の元に誘うことはできません。私にとって「今」があなたに語ることのできる時、憐みの戸をあなたの前に開くことのできる時なのです。

しかし「その時」、もはや私は決してあなたに警告を与えることができなくなり、あなたを招くこともできなくなります。もはや決して、わが主の苦悶についてそれを描写することもできず、主の愛と死、血のにじむその愛を語ることであなたの心を引きつけようとする努力もなされえなくなります。そうです、もうその時、全てが終わってしまうのです。

「彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく。」彼らは綱車をもって引き揚げなければなりません。なぜなら種捲きのために他の畑に戻ることはもはやできず、収穫のために他の広地へと旅することもできなくなるからです。彼らの心は依然として神の愛で燃やされていることでしょうが、彼らはそれを別の方法で用いていかなければなりません。

神の栄光を求める彼らの情熱的な望みは、他の管を通してそこから流れていくようになります。彼らは頭を垂れ、昼も夜も主を崇めるようになりますが、もはや福音宣教を通して主に仕えることはできなくなります。神のための任務を果たす大使は、永遠の断罪という黒旗を掲げ、もはや平和のしるしを掲げることはなくなります。

あわれな罪びとよ、私はあなたを今この時に、キリストの元に勝ち取ろうとしています。なぜならあなたと私との間の向かい合いは、「今」を逃すともう永遠にやってこないからです。

5.もっともしつこい訪問者、もっとも熱心な友の尽力も、死と共に終わりを告げます。みなさんの友人の中には、私以上に、あなたの心に親しく語ることのできる人もいるでしょう。みなさんは、取るに足らない私の言葉など忘れ、また罪を犯すべくあくまで自分の道を進むことだってあるかもしれません。

しかしあなたにはお姉さんがいて、彼女が懇願するなら、あなたはそれを考慮するかもしれません。もしくはやさしい友がいて、もしも彼があなたに語るなら、あなたはそれを無視できないでしょう。あなたの良心はその友の言葉に感じ入り、時には彼を通して御霊が非常に力強くあなたに臨むこともあるでしょう。

兄弟姉妹、私がみなさんが、他の人の魂に対して情熱を持ってほしいと願っています。主があなたに――私には決して与えられない――幾人かの魂を与えてくださいますように。

そして、私には聖なる熱望と、多くの人々をキリストに導きたいという熱意がありますが、あなたを通してもし誰かに救いがもたらされるなら、あたかもそれが自分の手柄でもあるかのように私は心から喜ぶでしょう。

行って、全力を尽くして働きなさい。キリストがあなたのためにどんなことをしてくださったのか言いなさい。必死にそしてやさしい口調で、「神と和解してください」と彼らに嘆願しなさい。

しかし、ああ、この人生の期間内でしか、それができないことを覚えておきなさい。なぜなら、門が閉ざされる時、あなたは自分の報酬を得るべく閉じ入れられ、すべての世界はあなたの努力から締め出されるからです。

ああ聴衆者よ、これが分かりますか。もはや公的な集会、主日、祈りの家がなくなるだけでなく、個々の宣教者、あなたの魂の益を考慮してくれていた熱心なクリスチャンもいなくなるのです。いかがですか。このしつこいほどの愛の持つやさしい言葉の非常な価値に目が覚めませんか。

愛ある叱責に耳を傾けなさい、さもなければ、やがてあなたは突如として滅ぼされ、しかもそこに救済の余地はないのです。

6.もしあなたが自分の罪のうちに滅びるなら、あなたは最も近く最も愛しく思っている人々から分かたれることになります。母親はわが子の首を抱き、ここでは彼のために祈ることができます。今なら息子に、「神さまと和解なさいね」と愛を込めて言うことができますし、聖い祈りをもって熱心にそして絶え間なく息子を見守ることもできるでしょう。

しかし、彼が失われたとしたら、その時には栄光の領域から彼の元に行くことは決してできないのです。「ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れない。」

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青年よ、分かりますか。あなたの母親の愛の涙でうるんだ目はその時には、もはや決してあなたのために涙を流すことはないのです。時にはあなたの心の琴線に触れていたあの染み入る声は、もう二度と嘆願しなくなるのです。

ああ神を畏れない女性よ、あなたはもう二度と敬虔なわが子を見ることはできなくなるのです。父親よ、娘さんのことを今お考えですか?――子どもの時から神を愛し畏れ、そして若くして亡くなったあの子のことを。死床にあった彼女はあなたに言いませんでしたか。「お父さん、私の後を追って天国に来てね」と。それがあなたの聞いた最期の声でした。

その子は、父親が悪の道から立ち返らない限り、決して父親に会うことはないのです。もし彼女が地上にいた時のように天国でも振る舞えるのだったら、あなたの首に抱きつき、いと高き方の栄光ある御座にあなたを引き寄せようとするでしょう。

しかしああ!それはかなわない話です。義なる神は悔い改めることをしない罪びとに有罪判決をくだされ、義人はその神聖な判決に同意するのです。

今日ここに集っておられる神を畏れぬ人々よ、あなたがたは私どもの集会のことを不愉快に思うことがしばしあるでしょう。そしておそらく私が説教している間、私の発する警告の言葉にいらだちを覚えておられるかもしれません。

おおでも、あなたをいらだたせる期間はもうそれほど長くないのです。あなたの母親は主を求めるようにとあなたにせがみますか。でも彼女がせがむのもあともうしばらくの間だけです。

来たるべき裁きについて私が強調しているので、あなたは不快感を覚えているのでしょうか。でも直にあなたを煩わせることもなくなります。私たちは分かたれるのです。もしあなたが自分の道を進み、罪と復讐に身をゆだねる生き方を続けるなら、やがて分離の時がやってきます。

そしてああ、――今はあなたをうんざりさせているあの声をもう一度聞けるなら、そしてあなたをいらだたせ、あなたの浮かれ騒ぎを台無しにしていた、例のあの憂鬱な招きをもう一度耳にすることができるのならと――あなたは全世界でも、ダイアモンドでも差し出さんばかりでしょう。

ああ、もし神がもう一度あなたを(地に)戻してくださり、かつて単調でつまらないと思っていた安息日を過ごせるなら、そしてもう一度神の家――おそらく愚かで軽薄なあなたの霊にとっては今は牢獄のように思えるかもしれませんが――に上ることを許されるのなら、あなたはどんなにか神に感謝することでしょう。

皆さん、いましばらくわれわれのことを忍び、われわれのしつこさを我慢していただきたいのです。というのもみなさんを煩わせるのも、あともうしばらくの間だけだからです。

私はあなたがたに嘆願します。イエスの元に来てください。私たちはあなたの襟をつかみ、来るべき神の御怒りから逃れなさいとあなたに懇願します。これほど熱心なのをお許しください。と言いますのもたとえあなたを説得できないとしても、いずれ近いうちにあなたはこのようにしつこい私たちの愛から逃れることができるからです。

あと何カ月かの束の間の人生が終わった後、あなたは宗教的談話や未来に起こることについての霊的な話など、そういった一切のものから遠く離れるようになります。そして自分の仲間と同じ場所にいることになるでしょう。しかしそういう場所ではほとんど何も満足を得ることがないということをあなたに警告しておきます。

7.友よ、こういったことはいかに――「今日」という日のあるうちに――真剣に働くよう、神の民を駆り立てることでしょうか。もし善を行なうことができるのが今しかないのなら、今できるうちに善を行おうではありませんか。

時折こう言っている人がいます。「某氏はやりすぎだと思う。いくらなんでもあれは働きすぎだよ」と。ああ!私たちは半分も十分にやれていません。イエス・キリストのために働きすぎているなどと言うのはおよしなさい。そんなことはありえないからです。

魂が今まさに滅んでいっているというのに、私は眠っていられるでしょうか。怠惰でたるんだ私の肉よ、人が死にゆき、地獄が一杯になっているというのに、お前は何もせずにいるのか。

兄弟姉妹よ、もうこれ以上、なまぬるい状態を続けるのはやめようではありませんか。神が私たちを世にある光となしてくださったのなら、ろうそくの如く自らを消耗しようではありませんか。ろうそくというのは輝くことによって自らを消耗するのです。

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一つの灯りしか持っていない貧しい下女が死に物狂いの速さで立ち働くように――というのもこの灯りはまもなく消えてしまうからです――私たちも、目を覚まし、祈り、魂のために労しつつ、時の良し悪しに関わらず、一刻を争う覚悟でいましょう。

私たちは不滅の魂に対する切実さに欠けています。もしも私たちが人生の短さ、あっという間に過ぎ去る時の性質、そして永遠の御怒りの恐ろしさについて知ってさえいたなら、、もしも私たちが失われた魂を見、そして言語を絶する彼らの苦痛を理解することができてさえいたのなら、私たちはちりを振り落とし、「今日」という一日のあるうちに、勇んで働きに出て行ったことでしょう。

彼らがこちらに渡ってくることもできない

8.私たちが天国から地獄へ行くことができないように、「そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」と聖句は言っています。地獄にいる失われし魂は永遠にそこに閉じ込められます。鉄の戸の前に立っている御使いを私はみます。おそろしい鍵のガチャガチャいう音が、とてつもなく多数の監房の間から聞こえてきます。

そして門が閉じられると、御使いはその鍵を忘却の淵に投げ込み、こうして囚人たちは完固なまでに閉じ込められ、決して外れることのない足かせにつながれ、決して錆びることのない鎖につながれます。

罪びとが天国に来ることができない理由は数多くありますが、まず第一番目の理由として、「自分自身の性質がそれを許さない」ということが挙げられます。

人は生き、死ぬと、彼は永遠に存在するものとなります。ここ(地上)で酒飲みだった人は、むこうでも酒に対する渇きを覚えますが、その渇きを満たすものはないのです。ここで悪態をついていた人は、むこうではさらに下品で熟達した冒涜者になります。死によってはその人の性質は変わらず、逆に固定されてしまうのです。そしてそれは硬化されます。

「聖なる者はさらに聖なることを行なうままにさせよ。そして汚れた者はさらに汚れたことを行なうままにさせよ。[黙22:11参照]」


失われた人間は引き続き罪びととしてとどまり、さらにそれに輪をかけた罪びととなり、神に反逆し続けるのです。そういう人が天国にいてほしいですか。

盗人が新しいエルサレムの通りを徘徊するようになるのでしょうか。パラダイスがのろいの言葉で汚されることになるのでしょうか。御使いの歌がみだらな会話によって妨害されるのでしょうか。そんなことはありえません。罪びとが入ってくることを許されるなら、天国は天国でなくなります。

「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。[ヨハネ3:5b]」


そして最終的に失われてしまった人が新しく生まれるという希望はもはや存在しないため、彼らは神の国を見ることができないのです。

罪びとよ、もし今あなたが天国にふさわしい者でないのなら、今後そういう者になるという希望を持つ――そんな資格がありますか。神なしに、希望なしに死ぬのなら、あなたの相続地はどこに存在するようになるのでしょう。

神なしにあなたは天国で暮らせますか。――神ご自身の治めておられる国に?希望なしに、あなたは――希望が完全な結実をもって成就されし国――に入ることができますか。それは絶対に無理な話です。面と向かって神に敵対し、神の宮殿の中で冒涜する言葉を発することは、神の敵には決して許されません。こういった人たちは神の御前から追放されなければならず、永遠に追放されなければならないのです。

9.さらに、人の性質だけでなく、罪びとの「運命(行き先)」がその人を閉め出してしまうのです。どういうことでしょうか。「そして彼らは『永遠の』刑罰を受け[マタイ25:46a]」と書いてあります。

もしこれが永遠のものなら、彼らはいったいどうして天国に入れましょうか。主は何と言っておられるでしょう。「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」このたとえに真理があるとしたら、それは、こういうことになるでしょう。――すなわち、失われた者は永遠に失われた状態にとどまると。仮に彼らが天国に入れたとするなら、きっとうじは死ぬでしょうし、彼らが天の座席を得た暁には、火は消えるでしょうから。

聖霊はこれをどのように表現しているでしょう。聖霊は来るべき御怒りを、底知れぬ所と描写してはいないでしょうか。もし底知れぬ所に、つかまるところがあり、輝く御使いの座に這い上がることができるのなら、こういう表現はしていなかったはずです。

兄弟たちよ、人間に判決を下されるお方、「不信仰の者は罪に定められる [マルコ16:16b]」という強い表現でそのことを仰せられた方は、確実に、そして文字通り、ご自分の言葉を執行されるのです。そしてもしそれがそうなら、彼らが火の監獄から逃れ、喜びと平安の地に入ることは絶対に不可能ということになります。

10.さらに、罪びとよ。「神のご性質」ならびに神の御言葉があなたに敵対しているゆえ、あなたは監獄から出ることができないのです。神はご自身が義であることをおやめになるのでしょうか。

しかしもし神が義なる方であるなら、最終的に罪に定められたあなたを罰し続けること――これを神は決しておやめにならないのです。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」というのが止むことのないケルビムの呼びかけですが、神が「聖なる、聖なる、聖なる」方である限り、あなたは決してこのお方に受け入れられません。神はご自身が真実であることをおやめになるのでしょうか。

しかし覚えておきなさい。神がご自身のなさった警告の言葉に真実である限り、主はあなたを矢で射抜き、憤怒をもってあなたを破滅させなければならず、そうされるのです。その時、「不信仰な者は罪に定められる」という主の掟が有効となるのです。

これは大きな深淵であり、――永遠に岩に縛りつけられ、一時たりとも解かれることのない(ギリシア神話の)プロメテウスのように――悔い改めようとしない罪びとの運命も固くしっかりと縛りづけられている不動の裂け目なのです。

もし神が神であり、神の掟が偽りでも空虚なものでもないのなら、あなたが苦悶も場所から抜け出てくるということは断じてあってはならないし、そうはならないのです。

11.罪びとよ、覚えておきなさい。堕落した人間と聖なる神の間にはただ一つの橋しか存在しないということを。それなのにあなたはその橋を拒絶しています。仲介者としてのお方、この方の身代わり、義、痛ましい死、こういったものが罪から義への、そして怒りから受容への唯一の道を作ってくれるのです。

しかしあなたはそれを拒絶しています。あなたが失われた者となるなら、あなたは最終的にキリストを拒絶したということになるのです。今朝の段階でもあなたは救われていないのですから、ああ、あわれな被造物よ、あなたは今キリストを拒絶しているのです。

あなたは次のように言っているのも同然です。「キリストは死んだ。しかし私のためではない。人間を救うためにキリストは血を流した。しかしキリストの道においては私は救われたくない。キリストに死ぬままにさせておけ。キリストの死なぞたいしたことはなく、その血も無価値なものだ。キリストに救ってもらうよりは、とっとと滅んでしまった方がましだ」と。

これが実質的に、あなたが言っていることなのです。もちろんこういう言葉はあなたをぞっとさせるでしょうし、こんなことをあえて口に出しては言わないかもしれません。でもこれがあなたの思っていることです。

あなたはこの方にあなたを治めさせまいとしています。あなたは御子の前に跪き、口づけしたくないと思っています。あなたは依然として神に敵対する者であり、キリストの贖いを通して救われる代わりに滅ぼされてしまいます。

つまり、もしあなたが唯一のこの道を拒絶するのなら、希望が何も残らないということに何の不思議がありましょう。それに罪のための犠牲というのは他にどこにも存在しません。罪のための犠牲はもはやありえないと聖書もはっきり明記しています。

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イエスが、死ぬために二度目にまた来られると思っているのでしょうか。あの神聖な手が再び木に打ちつけられるのでしょうか。あなたは今この方を拒絶しています。ですからたとえ主が再び死なれたとしても、あなたはやはり主を拒絶するでしょう。主の頭が再び茨のとげで刺されるのでしょうか。主のわき腹が再び槍で突き刺されるのでしょうか。

そうです、罪びとよ、もしあなたが今主を拒絶するなら、たとえ主が二度目に死ぬことがおできになったとしても、あなたはこの方を拒絶するでしょう。しかしそのようなことはありえません。主は贖いをするため一度だけご自身をささげられ、今やとこしえにいと高き方の右の座に座っておられるのです。二度目の贖いというのは存在しません――人の罪のためにもはや二度と贖いはなされないのです。

12.また底知れぬ所には聖霊もおられないということを覚えておきなさい。祝福されし御霊は今日ここにおられます。そしてしばしあなたに働きかけてこられました。ぺリクスのようにおののいたことを覚えていますか。アグリッパのようにほとんど納得しかかったあの時のことを忘れてはいないでしょう。

しかし結局こういったものはことごとく脇にうちやられ、良心は黙らせられ、御霊は消されてしまいました。しかし御霊は再びあなたに働きかけるかもしれません。そして御霊が圧倒的な力をもってあなたに臨むなら、――たといあなたの心が火打ち石のようであっても――御霊はそれを砕くことがおできになります。またそれがたとい鉄のようであっても、御霊はそれを溶かすことがおできになります。

しかし一度底知れぬ所に入ってしまうなら、聖霊はもう決してそこに来ることはできません。祝されし鳩(聖霊)は御怒りの場所を避け、そのいのちは破滅に引き渡された魂について思い悩むことはありません。もしそうなら、あなたは新しく生まれることはできず、天国に入ることもできないということになります。

wrath of God in the Romans 1

聖められることも不可能であり、聖められていない魂には天において居場所がありません。従ってあなたが地獄から天国に渡っていくことができないのは火を見るより明らかなのです。ああ、これはあなたの上に降りかかる裁きとなります。多くのことにおける厳かな裁きとなるのです。

あなたは神の家が好きではありません。ですからあなたはそこから締め出されます。あなたは安息日を好んでいません。それであなたは永遠の安息日から締め出されることになります。聖い歌声はあなたに何ら魅力的なものとは映りませんでした。従ってあなたはそこに加わることはありません。あなたは神の御顔を愛しんだことなど一度たりともありませんでした。ですからあなたは決してそれを見ることはありません。

また、イエス・キリストの御名はあなたの耳に心地よいものではありませんでしたので、今後一切その名をきくことはないでしょう。イエス・キリストが宣べ伝えられましたが、あなたはこの方を拒絶し、主の血を足下に踏みにじりました。天国への道はあなたに惜しみなく開かれていましたが、あなたはいのちを受けるために主の元にやって来ようとはしません。

地上から天国への道が一つ存在します。罪びとよ、あなたは罪の深みにはまってしまいました。しかしたとえあなたが最も悪名高く、非道きわまりない犯罪者であったとしても、依然として天国への一つの道があなたに開かれています。売春婦、盗人、冒涜者、酒飲みも、依然としてイエスの恵みを通して憐みを見いだすことができるのです。しかし――

われわれがまもなく行こうとしている冷たい墓の中では 赦しの法は通過しない。

暗闇、死、そして永く続く絶望――
それらが永遠の沈黙をもってそこを治めている。



願わくば神がこの厳かな使信を祝してくださり、栄光が主に帰されますように。

どんなものも来ることはできない

13.ここで数分、話題を変えてお話しようと思います。三番目の点に入りますが、橋なき深淵を渡ることができないのは人だけでなく、どんなものもそこを渡ることができないということです。地獄から天国へ来ることのできるものは何一つないのです。

光のうちにある聖徒よ、喜びなさい。そのことゆえにあなたの神の中で勝利に歓喜しなさい。――ひとたび、黄金の岸辺にたどり着くや、もはやサタンの誘惑があなたを苦しめることはないのです。あなたは最大の敵の射る弓の射程より高いところにいます。

この敵は吠え、自分の鉄製拘束具に噛みつくかもしれませんが、このわめきは私たちをおびやかすに足らず、噛みつこうとしてもそれによって私たちは妨害されることはありません。

不敬虔な人々のけがらわしい会話に苦しめられることもありません。ロトはもう二度と卑猥な言葉を聞くことはなくなります。もう金輪際、「わざわいなるかな、わたしはメセクにやどり、ケダルの天幕のなかに住んでいる」と言うこともなります。

浅薄な会話があなたの心に及ぶことはなくなり、瑣末なことがあなたの耳をわずらわせることもなくなる。



地獄に属する一切のものからあなたは守られるようになります。あなたは天国に行きますが、そこはとても安全であり、地獄を造られる神の御怒りはけっしてあなたには注がれません。あなたの救い主がそれを運んでくださるので、ただの一滴たりともあなたに降りかかることはないのです。

現在ある痛みは天国には存在しません。それは失われた者に伴います。体の痛みもなく、精神を乱すようなものもありません。あなたのうちには罪もなくなります。罪が彼らからあなたへ伝わることはありません。あなたは全き者とされるのです――しみも傷もない主のように。

あなたの内なる仇は殺され、もはやサタンがあなたの平和を乱すこともない。



また未来への不安もなくなります。というのも、あなたの至福は永遠のものであることをあなたは知るからです。これはあなたにとって常に――永遠につづく――蜂の巣の蜜のようになります。あなたは愛しきお方の御顔を何百万年も見つめ、とこしえからとこしえに渡り、あなたは主の輝く笑みにうっとりと見入るのです。

そのことを熟考するなら、私たちキリスト者は、一時的な苦難における激しい一撃にも甘んじるようになり、こういった決死の戦いの最中にあって労苦していたとしても、その中で喜ぶことができる――これこそがキリスト者にとっての喜びです。

勇気を出しなさい。一日や二日の奮闘の後、朽ちることのない栄冠が与えられます。一、二時間の戦いの後、永遠の安息が与えられます。今日、御使いたちは天にある宮殿の胸壁に集まり、あなたを見るや――武装した男たちが門への道を切り開くように――彼らはあなたに叫ぶでしょう。

来なさい、来なさい。あなたは永遠の栄光を勝ち取るのです。



あなたは剣をさやに納めますか。戦うことをやめますか。否、進むのです。そしてまことのエルサレムの刀に、あなたの精神と霊魂を刺し通させ、関節と骨髄とを切り離させなさい――あなたが山頂に到達し、とこしえの栄光があなたのものとなる時まで。

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いかなる天的なものも地獄に来ることはできない

14.四番目の主題に入りますが、これは恐ろしいものです。どんなものであれ地獄から天国に来ることはできないように、いかなる天的なものも地獄に来ることはないのです。神の右の座にはいのちの川が流れています。――そしてこの流れは恵まれし大滝となって失われた人々のところには決して流れ込んでいくことができないのです。

事実、ラザロは指先を水でぬらし、火炎の中で焼けつく舌を冷やすことが許されなかったのです。天的な水は、ただの一滴たりともこの裂け目を越えて流れることができないのです。罪びとよ、見なさい。天国には安息があります。全き安息です――しかし地獄にはまったく安息がないのです。

それは火炎の中での労苦ですが、安らぎも平安も眠りも平穏や静けさも何もないのです。そこにあるのは永劫の嵐、永遠のハリケーン、絶えることなき暴風雨です。最悪の病であっても、そこには小休止があります。苦しみの発作がありますが、その後、しばらくの間小康状態になります。

しかし地獄の苦しみにはその小休止がないのです。永劫の苦悩を奏でるおそろしい音楽は一時の休止さえないのです。それは戦いの爆音、埃と血、火と煙と共に、ひたすら、ひたすら続いていきます。

15.天国はまた、「喜び」の場所です。そこでは幸福な指が天の調べを奏で、喜びに満ちた魂が昼となく夜となくホザンナと歌います。その一方で、地獄にはまったく喜びがありません。音楽ではなくうめき、喜びではなく苦悶、麗しい交わりではなく、束になっての拘束、幸福ではなく悲しみがそこにはあります。

私は誇張して言うことができませんでした。それは不可能です。この悲しい事実を十分に述べ尽すことはできないので、ここまでにします。天にあるどんな喜びも地獄にくることはないのです。

16.天国は「神との甘美な交わりの場」です。

かの地では 彼らは御顔を見つめ、決して決して罪を犯さない。
かの地では主の恵みの川から尽きることのない喜びを飲む。


地獄では神との交わりはありません。祈りは存在しますが、その祈りがきかれることはありません。涙が流されますが、受け入れられることはありません。嘆願の叫びがありますが、そういったものはすべて主にとって忌まわしいものです。

神は誰の死をも望んでおられません。むしろすべての人が主に立ち返り生きることを望んでおられます。しかし、もしその恵みが拒絶されるのだとしたら――。

主は、報復の衣をまとわれ、御手をかかげ、誓われる。
わたしの約束した休息を軽んじたお前には、かの地における相続地は存在しないと。


お望みなら天国が何なのか言ってみなさい。あなたが描写するどんな天の喜びも、ただ一つとして地獄には存在しないと私はあなたに言わなければなりません。というのも、天国の祝福は天の領域から地獄の監獄へ越えていくことはできないからです。

それは慰めなしの悲しみであり、希望なしの悲惨であり、そこに苦悶があります――それは終わりのない死です。ただ一つ、天国と地獄には類似点があります。それは、両者とも永遠のものだということです。「来るべき御怒り、来るべき御怒り、来るべき御怒り」と、永遠にそれが続くのですが、にもかかわらず決して尽き果てることがないのです。

17.思う存分あなたに語ることができたらと願います。なぜなら、これを逃して次の機会はないと考えているからです。前にも申し上げた通り、もし私が救われていて、あなたが救われていないのなら、こういう説教をすることはもはやできなくなるからです。取るに足らない私の説教を終わりにする前にあともう二、三分お時間をください。

私はまだ回心していないあなたがたを説得しようとしています。神の民に対しては、今朝はほとんどメッセージがありませんでした。夕礼拝の時には、彼らを慰めるかもしれませんが、今朝に限っては、神を畏れないあなたがたのことをどうにかしなければなりません。

今ここにいらっしゃる方の多くはまだ回心していません。私はあなたがたがあたかもキリスト教徒であるかのように説教することによって、あなたがたにへつらうつもりは断じてありません。

私の主なる神はご存知です。ここにいる多くの心は未だ一度も砕かれたことがないのだと。またここにいる多くの魂は未だ一度たりとも、限りなく義なる偉大なお方の前に畏れおののいたことがありません。そして十字架につけられし贖い主の差しのべられた笏に一度も口づけしたことがないのです。あなたも自覚しておられるでしょう。あなたの内は苦々しさと悪意で満ちていると。

私が言っているのはあからさまに罪を犯している人々のことだけではありません。あなたがたの中には、愛想が良く、優秀で、性格にしても立ち振る舞いにしても立派な方々もいます。しかしあなたのうちには神に対する愛がありません。

外面的にはおそらくあなたは非の打ちどころのない人なのかもしれません。しかしあなたは新生していません。あなたは死からいのちに移っていません。そして覚えておいてください。あなたがキリストの元に逃れない限り、最も有徳な人にも、最も忌まわしい人と同様の地獄が待っているのです。

「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。[Ⅰコリ3:11]」



もしあなたが主を信じないなら、あなたは自分の罪の中で死にます。

「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。[使徒4:12)」



来なさい。私はあなたに嘆願します。そして尋ねます。――これら全てを信じていますかと。地獄があることを信じていますか。天国があることを信じていますか。もしあなたがそれを信じていないのなら、私の方からあなたにお話することはもうありません。神があなたの理解を助けてくださいますように。

しかしあなたは何のためにここにいらしたのですか。神の霊感を受けたクリスチャンの聖書を拒絶しておきながら、なぜ自分はクリスチャンだと自称しているのですか。むしろ不信心者となり、正直になりなさい。私は現代の背信には懸念を覚えていません。私としては、――あなたがクリスチャンであるふりをしながら、その実、聖書の教えていることを信じていない――よりは、むしろ表立った不信心者である方がましです。

私は正直なのが好きです。もしある人が、「私は自分の信じてもいないことを信じているなどと告白はしませんよ」と正直に言うなら、少なくともこの人のうちには一つの美徳があります。そして私たちとしては他の人々が生育のための土壌を見いだしてくれるよう望むでしょう。

しかしあなたがたは信心深い者だと自称し、教会にも通っていながら、神の啓示を信じていない。これに関して私は何が言えましょう。そのようなあなたが罪に定められるのはしごく当然だとしか言えません。

多くの人がこう言います。「おお先生!疑ったことなんてありませんよ。幼い頃から私たちはそれを学んできましたし、いつも聞いてきました。疑うなんてそんな大それたこと絶対にしませんよ」と。

おお、それでは、私はあなたに訊きます。――あなたは地獄があると信じていながら、なぜそこから逃れようとしていないのですか。来るべき御怒りがあると信じていて、それが次の瞬間にもあなたに降りかかるかもしれない、、というのもあなたは死んでいるかもしれず、この祈りの家から二度と外に出られないかもしれないからです、、それなのに、あなたはのんきに信者席でくつろいでいる。あなたは信じていないのですか。それとも正気ではないのですか。

罪に染まりすぎて麻痺状態になっていて、もはやまともに考えることができなくなっているのですか。もし考えることができるなら、そして、おそろしい全能の力をもって罰する、憤怒の神がおられるのだとしたら、いったいどうして、あなたはシオンでこんなにもくつろいでいるのですか。

18.もう一つ質問させてください。もしそうなら、――この世の楽しみ・快楽にうつつを抜かすことがやがて永遠の悲惨につながるということを知っていながら――なぜ、あなたはあえて天の喜び以上に、この世の楽しみに重きを置くことを選んだのですか。

でも誤解しないでください。クリスチャンには喜びがないということを言っているのではありません。いえ、私たちには最も高尚にして純粋な楽しみがあるのです。罪の喜び・快楽といったものは持していませんが、私たちにはそれ以上に高く、喜ばしく、深い喜びがあるのです。

しかしここで私が言いたいことは次のことです。つまり、あなたは罪深い快楽の中で人生を送りたいのですか。情欲、酩酊、ファッション・ライフに明け暮れたいのですか。こういったものへの出費は価値あるものでしょうか。

社会的高位にある人と長いこと話し合ったことがありました。私がこの人に福音を熱心に説くと、彼は私の襟をつかみ、言いました。「このままの調子で生きそして死ぬなら、自分の運命がどうなるのか私は知っています――。でもひどいことに、それを自覚しつつも、私は依然としてそういう生活を続けているのです。」

彼は続けて言いました。「あなたと一緒にいる時、そしてあなたの厳かな説教を聴いている時には、『私はきっと変わるに違いない。そして今後神に仕えていくだろう』と思えるのです。でもおお、自分の生活環境はいかに誘惑に満ちていることか!この世の虚飾や虚栄のただ中にいると、そして信仰の話などてんで馬鹿にするような人たちと一緒にいると、そういう思いはことごとく消え去り、愚かなことに、私は自分の魂を売り渡しているのです。」

おお、今日ここにもそういう愚かな人たち――小さな罪に自分の魂を売り飛ばしている人たち――がいます。一、二回のダンス騒ぎにうつつを抜かしたことで、悪魔があなたの相棒となってしまい、あなたの浮かれ騒ぎは終わりました。たとい全世界を手に入れても自分の命を損じることにどれほどの価値があるのか頭を使ってよく考えてみてください。

19.別の言い方をしましょう。あなたはどうしてキリストを得ていないのでしょうか。というのも、キリストを得ることができるのは今しかないからです。なぜあなたがキリストを得ていないのかその理由を申し上げましょう。

そう、あなたはキリストを愛しておらず、罪を愛しているからです。もしくはプライドが高すぎてキリストの元に来ることができずにいるのです。あなたは心の中で「自分っていい人」と思っており、自分のようないい人にはキリストは必要ないと思っています。――キリストが必要なのは、極悪な罪びととか、卑しい人たちに限ると。

おお、みなさん、あなたにとって自分のプライドはそれほど大切なものですか。その面子を保つために、あなたは罪に定められることに甘んじるのですか。プライドをお捨てなさい。しかるべき罪びとして来なさい。そしてイエス・キリストを得なさい。

あるいは、あなたの罪が妨げになっているのなら、聖霊なる神が、――両目、両腕が地獄の火に投げ込まれる前に――あなたの右の目をえぐり出し、右の腕を引き抜くのを助けてくださいますように。

20.ある人は言います。「でも、どうやってキリストを得ることができるのでしょうか」と。御霊があなたをしてそれをなさしめてくださいますように。そうです、イエス・キリストに信頼を置くのです。そうすればあなたは救われます。

神のおそろしい掟の前におののき、あなたは自分が神の御怒りを受けるに値する存在なのだということを認め、そしてイエスを見上げなさい。そこに血を流しておられる救い主がおられます。こういうことを認めた目には、その血が見えるでしょう。

永遠の神――この方を通して天が造られ、地とそこに満ちるものが造られました――が、人間の形をとり、呪いの木の上にお架かりになりました。

見よ 主のみかしら み手、み足よりぞ 恵みと悲しみ こもごも流るる 茨はまばゆき 冠と輝く



十字架につけられしこのお方を見ることのうちに、いのちがあります。今まさにこの瞬間、あなたのためにいのちがここにあります。涙をもってこのお方を見つめ、祈ってください。

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「イエス様、私のために虐殺され、殉教され、殺されたお方。私はあなたを信じます。今私は自分自身を、あらゆる罪、汚れ、愚かさと共に、あなたの足元に投げ出します。あなたの血潮が私の上に流れ落ちますように。あなたの御目を私に向けてください。そして私におっしゃってください。『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』と。そして『来なさい。罪びとよ、迎えなさい。――来なさい』と。」

私はただひたすら愛をもって、神の掟をあなたに語ってきました。こういう厳しいテーマを説きながら、私の心は血が流れんばかりでした。それを神はご存知です。ああどうかあなたがイエスを信じますように。

今この方のことが余すところなくあなたに語られました。――この方を受け入れてください。神の御霊があなたを導き、今この瞬間、この方を受け入れますように。これは難しいことではありません。血に飢え渇く独裁者のつき出すような過酷な条件などもありません。この方はただこうおっしゃっているのです。「ひざまずき、御子に口づけしなさい。来て迎えなさい、罪びとよ。――来なさい」と。

若者よ、あなたは救われたいですか。それとも救われたくないですか。

そこにいる、死が間近に迫っている白髪の罪びとよ、あなたはキリストを信じたいですか。それとも信じたくないのですか。

これがあなたの最後の機会かもしれません――ここまで徹底的に、忠実に、そして愛をもって福音が説かれ、それをあなたが聞くことはもう決してないでしょう。あなたはご自身のものとしてイエスを受け入れますか。

神の御霊よ、どうぞこの方の心を導き、こう言わしめてください。「はい、主よ。私はあなたを受け入れます」と。そして地上で(イエスを受け入れる)この声が聞かれるなら、それは天において記録され、今日この日、救いがこの方の心に訪れます。

主がみなさんお一人お一人を祝福してくださいますように。そして主がご自身の民を集められる時、願わくば、私やあなた、そして私たち全員が、主の右にいて、主の微笑む御顔をみることができますように。

ー終わりー



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