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以前、私は「罪を告白し、明るみに出すことについて」(ココ)という記事を書きました。今日は、(そういった点も含めて)私の霊的生活を助けてくれている良書をみなさんにご紹介したいと思います。

19世紀のスコットランドに生きたロバート・マーレイ・マクチェーン(1813-1843)の書いた「信仰生活の改革」です。

彼はスコットランドのリバイバルで非常に用いられた神の僕でした。29歳という若さで召されたのですが、死後、聖潔の道について彼が個人的に書きとめておいた以下の原稿が発見されました。

それではどうぞお読みください。

☆☆

信仰生活の改革

ロバート・マーレイ・マクチェーン(1813-1843)

Robert Murray McCheyne

I. 個人的改革

私はこう確信する。この世で最大の幸福を手に入れ、神の栄光と人々の幸福を最大限に高め、永遠の世で最大の報酬を得るための道は、良心を常にキリストの血潮で洗いつづけること、いつも聖霊に満たされていること、そして贖われた罪人がこの世で可能な限り、理性と意志と感情のすべてにおいて最大限キリストに似た者となることである。

私は確信する。いかなるときであれ、いかなる場合であれ、もしこれと矛盾することをだれか他の者が外側から、または私自身の心が内側からささやくなら、----すなわち、良心を血で洗いきよめつづけること、御霊に完全に満たされること、すべてにおいてキリストのかたちに全く似た者となることが、この世でも永遠の世でも私の幸福にならず、神の栄光のためにならず、よく用いられる道でもないとほのめかすものがあるなら----それは悪魔の声である。

神の敵、私の魂の敵、すべての良きものの敵----全被造物中で最も愚かで、最も邪悪で、最もみじめな奴のささやきである。箴言9:17を見よ。「盗んだ水は甘い」。

1. 汚れなき良心を保つため、私はもっと罪を告白すべきであると確信する。

罪の告白は、罪に気づいた瞬間になすべきであると思う。訪問中であれ学び中であれ、説教の途中であってさえ、心に罪が起こるなら魂はそれを憎悪の目で見るべきである。もしその罪を告白せずに義務をつづけるなら、私は良心に重荷を負ったまま行動しているのであり、罪に罪を重ねているのである。

私は一日の中で特に時間をとって、私の最善の時間に----たとえば朝食後や三時のあとで----それまでの時間の罪を厳粛に告白すべきであると思う。そして、それらの罪が完全に赦されることを願い求めるべきである。

私の経験では、悪魔はしばしば罪の告白そのものを利用して、告白された罪を心の中によみがえらせ、もう一度犯させようとする。それゆえ、あまりにも詳細な罪の告白はどうかと思う。この点については、より老練なキリスト者の意見を聞かなくてはならない。

現在のところは、この恐るべき悪用と戦うべきであると思う。そのようにして悪魔は私を恐れさせ、罪の告白から遠ざけようとしているのだ。私はあるゆる手段を用いて、自分の罪の不潔さを直視すべきである。

私は自分を罪に墜ちたアダムの裔とみなさなくてはならない。母の胎内にいたときから神に敵対する性質にあずかっていた者(詩51)、あらゆる悪に満ちた心の持ち主とみなさなくてはならない。その心によって私のすべての思い、言葉、行動は、生まれてから死ぬまでの一生を通じて汚染されているのである。

私はダビデやパウロとともに、若い日のもろもろの罪をしばしば告白すべきである。回心前の罪、回心後の罪、光と知識に対する罪、愛と恵みに対する罪、三位一体の神おひとりおひとりに対する罪を告白すべきである。

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私は自分の罪を聖なる律法に照らして眺めるべきである。また神のみむね、十字架、さばきの御座、地獄、永遠という見地から眺めるべきである。私は自分の夢や、ぼんやりしているときの思い、嗜好、しばしば繰り返す行為、考えや感情や話し方や行ないの習慣、敵からの中傷、友人からの叱責やひやかしすらも吟味して、自分のうちで力をふるう罪の痕跡を見つけ出し、それを罪の告白のもととするべきである。

私は、例えば月に一度、特に罪の告白を行なう日をもうけるべきである。罪を思い出すために、いくつかの聖句にしるしをつけておくべきである。いかなる病のときも、家庭内にいかなる問題が起こったときも、また自分自身や自分の家、教区、教会、国の上にいかなる摂理による困難がふりかかったときも、それを罪の告白をうながす神の召しとすべきである。

他人の罪や苦しみを見るときも同じである。聖日の夜、聖餐式のあった日の夜には、聖なるものに対する罪を告白すべきである。私は、罪の告白について告白すべきである。その不完全さや罪深い目的、自分を正当化しがちな性向などを告白すべきである。そして完全にキリストの犠牲に立って罪を告白したあとで、キリストに希望を託すべきである。

私は一つ一つの罪の赦しについてキリストのもとへ行くべきである。からだを洗うときには洗い残しがないよう隅々まで洗い流すのに、魂を洗うときには、それより不注意でいてよいわけがあろうか。

私は自分の犯した一つ一つの罪に、イエスの背中につけられた鞭のあとを見るべきである。私の犯した罪すべてのために、私がはいるはずであった永遠の地獄にひとしい無限の激痛が、主の魂に走るのを見るべきである。キリストが血を流されたことのうちに、私のすべての罪を償って余りある無限の支払いがあることを見るべきである。

キリストは無限の正義の要求以上に苦しまれたわけではないにせよ、そのお苦しみは、無限の購いの代価を払うということ以下では決してありえなかったのだ。

私は、罪を犯すとたちまち、キリストのもとへ行きたくないと感じる。行くのを恥じる思いが起こる。行っても何にもならないかのように感じる。それはキリストを罪の助成者とすることだ、豚の汚物にまみれたまま最上の着物を着てよいだろうか、などと理屈をつける。

しかし私は確信する。それらはみな地獄の嘘である。ヨハネは全く逆を主張している。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります」。

エレミヤ3:1をはじめ、ありとあらゆる聖句が反対している。罪に沈みこんだ者が平安や安らぎを得るには、まっすぐ主イエス・キリストのもとに行くしかないことは確かである。それが神の定めた平安と聖さの道である。世や混乱した心にとってそれは愚かであろうが、それしか道はない

どんなに小さな罪であろうと、それほど急いでキリストの血の注ぎかけを受けることはない、などとは決して思ってはならない。もし曇りない良心を捨てるなら、信仰の破船に遭うであろう。

またどんなに大きな罪であろうと、どんなに極悪で、どんなに思い上がった罪----たとえば祈りの最中の罪、説教中の罪、死の床にある人を訪問中の罪、危険な病にある最中の罪----であろうと、もはやキリストのもとへ逃れていくことはできない、などとは決して思ってはならない。私の罪の重さは、時計のふりこの重りのように、重いほど早く行動を取らせるべきである。

私はキリストの血潮で洗われるだけでなく、キリストの従順を身に着なくてはならない。私のうちにある、なすべきことをなさなかった罪ひとつひとつについて、キリストのうちには、神の御子による完全な従順が備えられている。

私のうちにある、なすべからざることをなした罪ひとつひとつについて、キリストのうちには、キリストの打ち傷ばかりでなく、私にかわって行なわれた、その罪とは逆の完全な従順が備えられている。そのことにより律法は高められ、そののろいは完全に実現され、その要求は完全に答えられているのである。

しばしば私の身代りのキリストという教理は、ありふれた、わかりきった、何も新鮮味がないもののように思われる。そして、この教えは飛ばして、もっと魅力的な聖句をとりあげようという心にかられる。これは、またしても悪魔である。真っ赤な嘘である。

私たちの身代りのキリストという教理は常に新しく、常に栄光に満ちている。「キリストの測りがたい富」、これは無限の主題、そして罪ある魂には唯一の主題である。私は、この盲目な魂をただちにキリストのもとへと追いやる聖句、たとえばイザヤ書45章やロマ書3章のような箇所を、いくつか心備えしておくべきである。

2. 聖霊に満たされるために、私はもっと自分自身の弱さを学ぶべきであると確信する。

ロマ7章やヨハネ15章などの聖句を常に思い巡らし、自分が無力な虫けらであることを思い知るべきである。

私は、自分はすでに確立したキリスト者であるという思いにかられることがある。あの肉欲やこの肉欲はもう克服し、むしろ逆の恵みを行なう習慣がついているから、もう恐れることはない、他の人より誘惑に近づいても大丈夫だ、などと思うことがある。これはサタンの嘘である。

たかが習慣で、火薬の引火力が弱まったり、火花に着火しなくなることがあるであろうか。火薬は濡れている限り、火花を近づけても大丈夫である。しかし乾燥すれば、火花一つで簡単に爆発する。

御霊が私の心に住んでおられる限り、御霊は私を罪に対して死んだ者としてくださる。そのようなときには、何か正当な理由のために誘惑にさらされなくてはならないとしても、神が私を切り抜けさせてくださることは信頼してよい。しかし御霊が離れておられるときの私は、乾燥した火薬と同じである。決して、決してこのことを忘れてはならない!

私は、生まれつき自分は、ある種の罪、たとえば飲酒や下品な言葉づかいなどに心ひかれないのだと思うことがある。それで、そうした罪の誘惑は恐れる必要がないなどという思いにかられるときがある。これは嘘である。高慢な、思い上がった嘘である。あらゆる罪の種は私の心に蒔かれている。おそらくそれらは、私が存在に気づいていないだけに、なおさら危険であろう。

私は、自分の全くの弱さと無力さを、罪人として可能な限り、徹底的に思い知るよう祈り、労するべきである。私は、人の心の中に起こる、ありとあらゆる肉欲に対して無力である。私は神の前で虫けらであり、獣である。これは、しばしば身震いするほど真実である。

私は、自分の内なる力を一切たよりにしないことを不安に思うことがある。あたかも、この世の最低最悪の罪から私を引き留めるものが、私のうちには何もないと感じるのが(真実なことだが)、危険であるかのようにである。これは悪魔の惑わしである。私にとって唯一安全な道は、自分の無力さを知り、感じ、告白することである。そして、全能者の御腕にすがることである。

…私は、罪が心の中から根こそぎにされていればいいのにと毎日思う。「なぜ神は私の胸中に好色や高慢、怒りなどの根を残しておかれたのだろう。神は罪を憎んでおられる。私も罪が憎い。なぜ神はきれいさっぱり罪を一掃されなかったのだ」と思う。

それには多くの答えがあり、私も頭では完全にわかっているつもりだが、心が納得しない。しかし、それは間違いである。自分が罪深い存在であることをいとわしく思うのはよい。しかし、現在の「信仰の戦いを勇敢に戦う」ことに文句を云うのは正しくない。

…信仰を告白していた者が罪に堕落するとき、私はおののきを覚える。彼らの罪を見聞きすると、祈る気もなくなり、ひどく欝屈してしまうことが何度もある。これは間違いである。おののくのは正しい。またあらゆる告白者の罪を、自分自身の無力さを示す教訓とするのもよい。

しかしそれは私をさらにキリストへと導くべきである。…もし自分の全くの無力さをもっと自覚するなら、他の人々の堕落を聞いても、それほど動揺しはしまいと思う。

…私は、自分が最も無力である罪、嵐のように逸りたつ情動に対して自分が一本のわらしべのようになる罪の一つ一つを研究すべきである。奔流のような罪の激発に対して無抵抗でしかない私の無力さは、何としても云い表わすことができない。

…私は、キリストの全能をもっと学ばなくてはならない。ヘブ7:25、Iテサ5:23、ロマ6:14、ロマ5:9, 10、そしてその他の聖句を常に思い起こしているべきである。

…私の人生の大半は、パウロのとげ(IIコリ12)と同じ経験で満たされてきた。これからもそうありつづけるべきである。

…罪からの解放を求める者には、多くの補助手段がある。それをおろそかにしてはならない。それは結婚(Iコリ7:2)、避けること(I テモ6:11; I コリ6:18)、目をさまして祈っていること(マタ26:41)、みことば(「~と書いてある。~と書いてある」とキリストはご自分を守られた(マタ4))などである。

…しかし主たる防御は、独りでは何もできない子どものように、キリストの御腕の中に飛び込み、聖霊で満たしてくださるよう懇願することである。「世に勝つ者とはだれでしょう。…信じる者ではありませんか」(I ヨハ5:4, 5)。これは素晴らしい言葉である。

私はキリストのことを、生きた救い主としてもっと学ぶべきである。捜し出した羊をかついで行かれる羊飼いとして学ぶべきである。贖ってくださった魂の中に座し、それを支配しておられる王として学ぶべきである。私と戦う者と戦う将軍として学ぶべきである(詩35)。

血肉にはどれほど不可能であろうと、すべての誘惑、すべての試練を切り抜けさせてくださると私に約束されたお方として学ぶべきである。

私はしばしば、どうしてこの方が私たちを救いえよう? と云いたくなることがある。どうして天におられるキリストが、内側にわき起こる肉欲から、また自分を取り巻くように感じられる網の目から、私を解放することができるだろうか、と。これまた偽りの父である! 「キリストは…完全に救うことがおできになります」。

私はキリストをとりなしの主として学ぶべきである。主は、これから最も試みられようとするペテロのために最も祈られた。私の名は、主の胸当ての上に刻みこまれている。もしキリストが隣室で私のために祈っておられるのを聞くことができるなら、私は何十万の敵の大軍をも恐れないであろう。しかし距離の遠さは何の違いにもならない。主は今私のために祈っておられる。

私は慰め主なる聖霊についてもっと学ぶべきである。その神たること、その愛、その全能を学ぶべきである。私の経験によると、この慰め主(ヨハ14:16)について思い巡らすことほど私を聖めることはない。

にもかかわらず、何とそうすることのまれなことか! サタンが私を遠ざけているのである。私はしばしばあの、「聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と語った人々のようである。私は自分のからだが、聖三位一体の第三位格の住まわれる宮であることを決して忘れるべきではない。

このことを考えるだけで、罪を犯すことにおののきをおぼえるべきである(I コリ6)。私は罪が聖霊を悲しませ、悩ませ、消してしまうことを決して忘れるべきでない。御霊に満たされたいと思うなら、もっと聖書を読まねばならないであろうし、もっと祈り、もっと目をさましていなくてはならないと思う。

3. キリストに全く似た者となるために、私は、キリストの似姿となるという幸いを高く評価すべきである。

私は確信する。神の幸福は、その聖さと分かちがたく組み合わされている。聖さと幸福は、光と熱のようである。神は、一つとして罪の喜びを味われたことがない。

キリストは私と同じような肉体を持っておられたが、一度たりとも、一つとして、罪の喜びを味われたことがない。贖われた者らは、永遠を通じて、決して、一つとして、罪の喜びを味わうことがないであろう。

それにもかかわらず、彼らの幸福は完全なのである。私の最大の幸福は、今この瞬間から、完全に彼らのようになることであろう。いかなる罪も、私の最高の喜びとはいえない。

…悪魔は昼夜をわかたず、このことを忘れさせよう、疑わせようとやっきになっている。かれは云う。「この快楽をソロモンやダビデと同じ程度には味わおうじゃないか。きみだって天国には行けるさ」と。これは嘘である。私は確信する。私の真の幸福は、行って二度と罪を犯さないことである。

罪と手を切るのを遅らせるべきではない。今は神の時である。「私は急いで、ためらわず…」[詩119:60]。…罪を容赦すべきではない。どれほど長い間自分の弱さとして容認してきた罪であっても容赦してはならない。

あまり急に一変すると、他の人が驚きあやしむかもしれないなどと考えてはならない。これは何と卑劣なサタンの惑わしであろう!

いかなるものであれ、罪であるとわかっているものに対しては、今このときから断固反対するべきである。それを克服するためには、聖書で述べられているあらゆる手段を用いるべきである。すなわち聖書、御霊を求めるための特別な祈り、断食、目をさましていることなどである。

私は自分が罪に陥ったときの状況を仔細に心にとどめ、その状況を罪そのものと同じくらい避けるべきである。

罪さえ犯さなければ、どれほど誘惑に近づいてもいいだろう、とサタンはしばしば誘惑する。これは恐ろしいことである。神を試み、聖霊を悲しませることである。これはサタンが巧妙に仕組んだ陰謀である。

私は、箴言4:15に従い、すべての誘惑から逃れるべきである。「それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ」。

…私は絶えず心を神に注ぎ出し、キリストに全く似る者となることを祈り求めるべきである。律法全体が私の心に書き記されることを祈り求めるべきである。

…私は厳粛な告白をもって自分の心を神にささげるべきである。詩篇作者の祈りに従い、私のすべてを神の永遠の御腕にゆだねるべきである。「私のたましいを御手にゆだねます」(詩31)。

いかなる隠れた不義も、いかなるあからさまな不義も、私を支配することがないよう切に求めるべきである。そして、贖われた罪人が受けうる限り最大限に、キリストのうちにある美徳のすべてを私に、常に、死の日まで、満たしてくださるよう切に求めるべきである。

私はしばしば天国を聖潔の世界として思い巡らすべきである。すべてが聖く、その喜びは聖い喜び、そのわざは聖いわざである世界、個人的な聖潔なしには決していられない世界として思い巡らすべきである。

…私は、見かけが悪であるものを避けるべきである。神は私に命じておられる。また私の経験では、サタンは見かけの悪を悪そのものに結びつけてしまう達人である。

私の経験では、ある種の罪を口にすると心が汚され、誘惑に陥らされる。また、聖徒たちでさえ、彼らが隠れて行なったことを語るのは、神が禁じておられる。私はこれを避けるべきである。

エバ、アカン、ダビデらはみな、目の欲によって堕落した。私は自分の目と契約を結び、「むなしいものを見ないように私の目をそらせてください」と祈るべきである。

…サタンは救われていない人々を、福音の音に対して耳しいのコブラのようにしてしまう[詩58:4]。私は、罪に誘惑するすべてのものに対して、聖霊が私を耳しいとしてくださるよう祈るべきである。

私を誘惑に陥れることの最も多い機会の一つはこれである。すなわち、私には、自分の務めを果たすには、これを聞く必要がある、これをのぞく必要がある、これについて語る必要がある、という場合がある。これは、それなりに真実である。

しかし、こうした議論にサタンが一枚かんでいることも確かである。私は神からのさとしを乞い求め、どこまでが私の牧会にとって有益で、どこからが私の魂にとって有害であるかをみきわめるべきである。そして後者を避けるべきである。

私は確信する。魂は成長し続けていない限り決してよい状態にはない。「恵み…において成長しなさい」。「主よ。私たちの信仰を増してください」。「うしろのものを忘れ…」[II ペテ3:18; ルカ17:5; ピリ3:13]。

…私は確信する。自分に欠けている美質が何か、またどうすればキリストにより似た者となることができるかを、私は常に神と人に尋ね求めるべきである。

…私はよりきよさを、へりくだりを、柔和さを、苦しみにおける忍耐を、そして愛を求めて努力すべきである。「すべてにおいてキリストに似た者とならせたまえ」と常に祈るべきである。「聖霊で満たさせたまえ」。

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II. 密室の祈りにおける改革

私は祈りのいかなる部分もはぶくべきではない。告白、礼拝、感謝、願い、とりなし、これらのいずれもはぶくべきではない。

私のうちには、告白をはぶきたがるひどい傾向がある。これは私が、神とその律法をあまりにも低くみなし、過去における自分の心と罪とをあまりにも軽くみなしているためである。決してこのような傾向に屈してはならない。

私のうちには、礼拝をはぶきたがる絶えざる傾向がある。私は自分がどなたに語りかけているかを忘れてしまう。エホバの御前に、その畏怖すべき御名もご性格も忘れて、性急に飛び込んでいってしまう。その栄光についてほとんど顧慮せず、そのくすしさについてほとんど崇めないでしまう。「知者はどこにいるのですか」。

私のうちには、感謝をはぶきたがる生来の傾向がある。しかしながら、感謝をささげることは特に命ぜられている(ピリ4:6)。

心が利己的になるとき----すなわち、他の人々の救いについて無関心になるとき----私はしばしば、とりなしの祈りをはぶいてしまう。しかしながら、とりなしの心は特にかの偉大な弁護者の思いなのである。主は、絶えずイスラエルの名をその胸の上に載せておられる。

祈るときは、必ずしもこれらすべてをふくまなくてはならないということはないであろう。しかし、確かにこれらそれぞれについて何らかの時間をささげずには、一日を終えるべきではない。

私はだれとも会う前に祈るべきである。長い眠りをとったとき、あるいは早朝から人に会うとき、その後家庭礼拝をもち、朝食をとり、午前中の来客があるなどして、しばしば私が密室の祈りを始めるのは11時もしくは12時からとなってしまう。これは、最低のやり方である。非聖書的である。

キリストは夜の明けそめるころ起き出し、寂しい場所へ行かれた。ダビデは云う。「私はあなたを切に[暁に]求めます。朝…、主は私の声を聞いてくださる」。

マグダラのマリヤは、まだ暗いうちに埋葬所に来た。家庭礼拝はその力と甘美さを大幅に失ってしまうし、私に恵みを求めてやって来る者らに対して私は何の益も施すことができない。良心はとがめを感じ、魂は養われず、燭台は芯を切り取られないでしまう。そして、いざ密室の祈りの段になると、魂はしばしば調子が狂っている。

思うに、神とともに一日を始める方がはるかにまさっている。まず御顔を拝し、他人に近づく前に神に魂を近づけることである。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」。

寝過ごしてしまったり、早朝から出かけなくてはならなかったり、何らかの理由で時間がない場合は、もうだめだとあきらめるより、すばやく身支度をすませ、数分でも神とともに静まる方が絶対によい。

しかし通常は、何らかの活動に従事する前に、少なくとも1時間、神とともに静まることが最善である。それと同時に、神との交わりを時計の針や、ひとけのなさでおしはからないように注意しなくてはならない。

何時間も聖書を熟読し、何時間も膝まづいていても、ほとんど神との交わりがなかったことがある。また、ひとりきりでいるときの私の時間は、これまでしばしば最も激しい誘惑のときであった。

とりなしについては、私は毎日自分自身の家族、縁者、親戚、友人のために祈るべきである。また私の群れの信者、求道者、未信者のため、また病いの人、家族を亡くした人のため、また貧しい人、富める人のため、また私の長老たち、日曜学校の教師たち、平日学校の教師たち、子どもたち、トラクト配布奉仕者たちのため祈るべきである。さらにすべてのわざが祝福されるよう祈るべきである。

日曜の説教と教育が、病人訪問と個別訪問が、神の摂理と礼典が祝福されるように祈るべきである。また毎日短くとも、ダンディー全市、スコットランド教会、すべての忠実な牧師たちのため、また無牧の教会、神学生のため、また親しい兄弟ひとりひとりのため、ユダヤ人・異邦人の宣教師のために祈るべきである。

そのためには海外宣教報告を定期的に読み、世界中で起こっていることに通じていなくてはならない。地図を前にして祈ることは私の心をかき立てるであろう。祈りの計画を立て、また地図上に宣教師の名前を記しておかなくはならない。

これら全般のため私は土曜の朝夕、7時から8時まで祈るべきである。週日にはそれぞれ違った部分を祈るべきであろう。ただし家族と群れのためには毎日祈りをささげるべきである。

私はすべてについて祈るべきである。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、…祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。

私はしばしば説教奉仕やその種の依頼の手紙を受け取るが、神の助言も求めずに返事を出してしまうことがよくある。もっと多いのは、だれかが訪ねてきて何かを求めるとき、導きを求めないことである。しばしば私は神の祝福を求めないまま、急いで病人訪問に出掛けてしまう。それがなければどんな訪問も何の役にも立たないというのに。

私は確信する。祈りなしには何事も決してすべきではない。また、可能な限り、あらゆることにおいて特別の、密室の祈りを持つべきである。

スコットランド教会の歴史を読むと、何と多くの問題や試練が、魂の救いおよびキリストの栄光に関連して生じてきたことか。私は、私たちの教会のため、指導的教職者たちひとりひとりのため、また自分自身の明確な理解のために、今よりはるかに祈るべきである。

私がキリストに従う道からそらされないよう祈るべきである。自分自身でも備えができていない困難な問題----たとえば、国民盟約の正当性----について、直面しなくてはならなくなることもありうる。私は平穏な日々に祈りをかさね、試練の日々が来たときに正しく導かれるようにしておかなくてはならない。

神との交わりには、一日の最上の時間を費やすべきである。これは私にとって最も高貴で実り豊かな時間である。どこかの片隅に追いやられるべきではない。

朝の6時から8時は一番じゃまのはいらない時間であるから、眠気に負けないでいられるなら、神との交わりのために用いられるべきである。朝食後のひとときは、とりなしの祈りのためによいであろう。お茶の後の時間は私の最上の時間である。可能な限り、厳粛に神にささげられるべきである。

床につく前に祈るという古き良き習慣を捨て去るべきではない。しかし眠気には警戒しなくはならない。自分が祈ろうとしていることを計画しておくことが最善の防御策である。夜中にめざめたときには、ダビデやジョン・ウェルシュのように、起き上がって祈るべきである。

密室の祈りにおいては、少なくとも一日に3章、聖書を読むべきである。

日曜日の朝には、前の週に読んだすべての章、特にしるしをつけた節に目を通すべきである。3つの異なった箇所を読むべきである。また主題や人物別に読むべきである。

ーおわりー(出典:ココ

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福音主義教会の先生方への公開レター――1コリント11章のかぶり物に関して――(ジェレミー・ガーディナー)An open letter to complementarians about head covering

礼拝の前の静かなひとときに――リチャード・バクスターの祈り