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ジェシカ姉妹は、このブログに何度か登場していますので、すでにおなじみになっているかもしれません。今日は彼女の赤裸々な葛藤をつづった手記をご紹介します。私が彼女を愛しく思っているのは、彼女が正直きわまりない人だからです。

彼女は自分の現状をいつわりません。失敗し、倒れながらも、そのプロセスを神様の前に、そして私たち隣人の前に告白し、祈りを求めています。このような魂を神様はどんなにか愛しておられることでしょう。

それではお読みください。

前篇(出典:ココ

今日はみなさんに、「祈りのベールをする上で困難を覚える点」について、私自身の体験をお話したいと思います。

どうして祈りのベールはこんなにも大変なのでしょうか。私にとって困難な点の一つは、「見てすぐに分かる」という点にあります。

例えば、こんな感じです。(クリスチャンである)私は十字架のネックレスをつけています。そしてはい、ある日、私は八百屋さんに入りました。そしてそこで私はレジの女性と言い争いになりました。

すると当然私はそこに矛盾を感じます。なぜなら、信仰の象徴である十字架を首にぶらさげながら、私の行動はそれとは別のメッセージを放っているからです。「あなたクリスチャンですよね?それなのに、なんでそんなことしてるんですか?」と、、、

もしあなたが祈りのベールを着けるなら、もうそこには疑いようもないあるサインが出されてしまいます。

というのも、「この人は、さぞかし敬虔で、成熟していて、清い神の女性のはずだ」って暗黙のうちに人は思うからです。私だってそうなりたいんです。

でも正直に打ち明けます。私は本当に、ほ・ん・と・う・に、従順という点で葛藤しています。

「柔和で穏やかな霊、、これこそ、神の御前に価値あるものです」(Ⅰペテロ3:4)という聖句、みなさんご存知だと思います。はっきり言いますが、私にはこれがありません。――まだ今のところは。

私は柔和な人ではありません。穏やかな人でもありません。ああ、いったいどうなっているのでしょう?

たぶん、穏やかさに関する私の定義自体、ゆがんでいるのかもしれません。もしかしたら、穏やかさというのは、自分の口から出てくる言葉をコントロールすることに相当するのかもしれません。

もし口に出す前にちゃんと熟考できたとしたら、私は黙っていることができるのかもしれません。そうしたら、今よりは穏やかになれるのかもしれません。

それから柔和さ。これって何でしょう?砂糖たっぷりのケーキのように、いつも甘い感じで、物腰がやわらかく、大胆なことを何もしでかさない、、、これが柔和さなんでしょうか?私には分かりません。

それで問題は何かというと、私、すごく強い意見を持っているんです!しかもそれを言わずにはいられないんです。

何かいいアイデアがひらめくと、誰かに言わずにはいられない、そんな感じです。それでもし相手が自分のその案に賛同してくれなければ、なんとか説得しようとしてしまいます。

ああ、私は自分が怪獣のように感じる時があります。私のエゴは巨人です。簡素で短いえんぴつ書きのミニ・メッセージで十分いい時に、私は壁一面にスプレーで言葉をまき散らしてしまいます。

それなのに、ああ、夕方には、テーブルを囲んで家族での礼拝がもたれます。そして椅子の背もたれには祈りのベールがかかっています。もちろん、それを着けます。そうしなければ、主への不従順となりますから。でも良心がうずきます。ああ、かぶり物はどうしてこんなに大変なんでしょう?

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(下げ振り糸)

後編

大工さんたちは、建物がまっすぐに作られているかどうかを確認するためのいろんな道具を持っています。その一つが下げ振り糸です。これは柱や壁などが垂直かどうかを調べるための道具で、糸の端に真鍮の逆円錐形のおもりをつるしたものです。

私にとって、祈りのベールというのはこの下げ振り糸のようなものです。これは神の御手の中にある道具で、私の態度が主の御旨にかなっているかどうかを表すものです。

だから、(自分のような人にとっては)祈りのベールというのは大変なのです。「こうあるべき」自分と、現状とのギャップ、そしてそれに続く「調整プロセス」がよく「見える」のです。

ある方がこんなことを書いていました。かぶり物というのは実際、とってもシンプルで分かりやすいものだと。布が女性の頭の上にのっており、彼女がその布の「下」にいる=自分が権威の「下」にいるということが示されているのです。

これ以上ないほど単純明快です。しかもとっても分かりやすい。だからこそ、――結婚指輪や、夫の姓や、慎み深く女性らしい服装といった置き換え品などではなく――ベールだけが、権威への従順をあらわすシンボルとしてその働きをなすのです。

つまり、かぶり物だけが、女性の頭をおおい、彼女がその「下」に置かれるということを文字通りに示すシンボルなのです。

だからこそ、ここに私の葛藤が存在します。なぜなら、私は祈りのベールが表しているものと相いれない行動をとっているからです。だから難しいのです。

私は自分が権威の下にあるかのようには振舞っておらず、その反対に、その権威から独立した存在であるかのように行動しています。さらに言えば、それに反逆さえしている時もあります。

だからこそ、と私は思います。――多くの女性がこれを受け入れたがらない理由もここにあるのかもしれないと。かぶり物の意味というのはすぐに分かります。でもそれが意味していることに自分が実際に従うとなると話は違ってくるのです。

編集あとがき

この告白を読んだ後、私は次の詩を彼女に贈りました。


長く 暗い階段を 私は登っていった

わが神を求め 

つまずきながら


少しずつ 少しずつ

足場を得ていく


それなのに すべり また足場を失ってしまった



まったく前に進まない

それでも がんばった


弱々しくしがみつき 

よろめく意志を奮い立たせながら




血を流すほど 必死に 

神の元へ登っていこうとしていた



それなのに、神は知らぬ顔をし

おだやかにほほ笑んでおられるだけ



そんなある時 私は足場を失い

下に落ちていった



ごろごろと 一番下まで



今までの頑張りが すべて水の泡になった



絶望し 私はそこに 横たわっていた


すると段の上の方に 足音がきこえた


私が 落胆し 

よろめき
 
落ち 

横たわっていた


その同じ道にー



見よ。希望が尽きた時

わが神は 私のもとに 降りてきてくださったのだ



オズワルド・チェンバーズ(Christian Disciplinesより 私訳)




祈りのベール(Ⅰコリント11章)についての検証記事のご案内ー追加ー

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