第ニ十六章
   二度目の獄中生活


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牢獄での日々はのろのろと過ぎていった。

独房の中では、考える時間はいくらでもあった。実際、考えること以外、他にすることは何もなかったのだ。こうやって一週間が過ぎていった。レグラは家で何をしているだろう、とマルクスは思った。自分が牢に入れられたという知らせを彼女は受け取ったに違いない。

コンラート・グレーベルの憶測は正しかった、とマルクスは思った。安全通行証なしにチューリッヒにやって来たことは、あたかも餌をつけた罠の中に自分から踏み込んでいったようなものであった。

もし自分がこちらに来ていなかったら、いったいどうなっていただろう、とマルクスは何度も何度も考えた。自分の知る限り、コンラート・グレーベルは今もって自由の身であり、グリューニゲンで伝道を続けているはずであった。

ああ、グリューニゲンでグレーベルと共に奉仕したあの数週間!マルクスは幾度となく、その事を思い出した。グリューニゲンに行ってよかった、と彼は思った。――それがために、実刑判決を受けるはめになってしまったけれども。

牢の中の日々には、ほとんど何の変化もないため、時間の経過を追うことがマルクスには難しく感じられた。

しかしそんなある日、訪問者がやって来た。ウリッヒ・ツヴィングリ卿が彼に会いにやって来たのである。そして彼と共に三人――おそらく参事会の議員たちであろう――が随行していた。その内の一人はペンと紙、そしてインク壺を持ってきていた。

ツヴィングリは上機嫌であったが、マルクスにはすぐにその理由が分かった。

「君と話をしに来たんだ。」ツヴィングリは話し始めた。「獄中生活にも飽き飽きしているだろうね。そろそろゾリコンの家に戻って、向こうで忠実な市民として生きていきたくはないかね。」

マルクスは頭を垂れた。確かにそうだった、僕は獄中生活にうんざりしていた!

ツヴィングリ卿はそれに対する返事を期待してもいなければ、待ってもいなかった。

「私はね。グリューニゲンでの小さな反乱はもう長いこと続かないって確信している。もっともっと多くの州が今や協力して、こういった過激派を払しょくしようとしているんだ。」彼はポケットから一枚の紙を取り出し、それをマルクスの前で振ってみせた。

ちょうどその時、三人の囚人を連れて、看守が入って来た。キーナストとフリードリー・シュマッヘルはマルクスの脇の長椅子に腰を下ろした。オーゲンフューズは壁によりかかって立っていた。

ツヴィングリは例の紙を再び振ってみせた。「これはフール州参事会からの手紙なんだ。」彼は説明した。「向こうの参事会も私たちに協力してくれ、一人の囚人――君たちも知っている人だが――をここチューリッヒに送り返してくれた。この人物は向こうでとんだ騒ぎを起こしていてね。それでフール州参事会は彼を捕え、彼の戸籍地であるここチューリッヒに送り返してきたんだ。」

ツヴィングリは誰のことを言っているのだろう。この囚人とは、フェリクス・マンツにちがいないと、マルクスは確信に近いものを感じた。

ツヴィングリの顔は曇り、笑みは消えた。

「しかし今、この囚人に関する決定はここチューリッヒ参事会の下す判断にかかっている。他の州も倣うようにと、我々はこれまで模範を示してきた。そして今後も、模範を示し続けていかざるをえないようだ。

フェリクス・マンツのような過激分子を、もう二度と自由の身にするわけにはいかない。そう、彼は厳重に罰せられねばならない。――そうすれば、我々の州であれ、フール州であれ、今後、彼はもう問題を引き起こすことができなくなるからね。」

マルクスは忙しく頭を働かせていた。ツヴィングリの魂胆は何なのか。自分たちを脅そうとしているのか。それとも、自分たちの決断を助けるため、ただ単に事実を列挙しているだけなのか。オーゲンフューズはしかめ面で、神経質に両手を擦り合わせていた。

ツヴィングリは彼に向き直り、言った。「オーゲンフューズ、君は自分の過ちを認めたね。ここで公にそれを言いたくはないかね。そしたら、君を釈放してあげるよ。」

壁によりかかっていた彼は咳払いをした。「私は『ツヴィングリ卿は、著書の中で十ヵ所嘘を書いている』と発言しましたが、それは私の誤りでした。」彼の声は低く、弱々しかった。「参事会閣下の正しいと思われるところに従って、私のことを取り扱ってくださいますよう、お願いします。」

「それじゃあ、私が頼んであげよう。」ツヴィングリは申し出た。「君は実によく我々に協力してくれたから、参事会は、君に罰金やその他の懲罰を科すことなく、君を釈放してくれるだろう。」

そう言いながら、ウルリッヒ・ツヴィングリは――長椅子に座っている三人の中では最年長の――キーナストの方を向いた。「キーナスト」と彼は呼びかけた。

「君にも同じことを勧めるよ。そうすれば、この先、苦労しなくて済むからね。参事会の意思に反する一切の活動をやめると、約束してくれるかい。」

キーナストは背筋をしゃんと伸ばし、答えた。「すみません、ツヴィングリ卿。私はそういった類の約束をすることができません。というのも、神が今後私を通してどんな事を成し遂げようとしておられるのか、私には知るよしがないからです。」

「結構なことだ。」議員の一人がピシャリと言い返した。「お前さんがそう思っているなら、ここの牢獄にいて、その事についてもっと考えるがいい。じきに考え直すだろうから。」

フリードリー・シュマッヘルも降参することを拒んだ。彼は言った。「私は洗礼を受けましたが、洗礼が神の御心に反しているとは思えないのです。それで私はこのままいこうと思います。」

「それなら、お前も獄中に居続けるんだな」と議員は言った。

マルクスは自分の番を待っていた。「僕が説教者なので、――そして自分が一番初めに話すと、他の者たちに影響を与えるのではないかと懸念した結果――、彼らはあえて僕を一番後回しにしたのではないか」とマルクスは思った。

「マルクス・ボシャート。」ツヴィングリは言った。「君は公然と説教し、かなりの騒動を引き起こしてきた。しかしもし君が今後一切、こういった事から手を引くと約束するなら、全ては許されるだろう。」

「ダメです。」マルクスは首を振った。

ツヴィングリの声は冷ややかになった。「選択は君しだいだ。もしこのまま獄中にとどまり続けたいのなら、そのことで我々を責めないでくれたまえ。しかしこれだけは言っておこう。もし君が我々と協力しないつもりなら、我々はこの先、君を、長い、長い間、牢に閉じ込めることになる、と。」

「私はこの点に関し、神の前に、何も悪い事を行っていません。よって、懺悔しえないのです。」マルクスは毅然として言った。「神の言葉に従うのは、犯罪ではありません。」

マルクスが己の信仰を撤回するつもりがないのを見て取ると、ウルリッヒ・ツヴィングリは手法を変えてきた。「コンラード・グレーベルのこと、彼のグリューニンゲンでの活動のことを話してくれるかい?」彼は言った。

「コンラートと私はかつて、福音の働きにおける最良の仲間だった。今でもそうだったらどんなによかっただろう!彼は、――帝国法においても、市民法においても、神聖法においても――自分に対する公正な取り扱いがされていない、そう言って不平を漏らしていると聞いた。それは本当かい。」

マルクスはうなずいた。「はい、ヒンウィルで、彼がそう言ったのを私は聞きました。私は彼をたしなめたのですが、コンラードは『それが真実なのだ』と言いました。」

「もう一つ別のことを聞かせてくれ。」ツヴィングリは身を乗り出し、声を低めて言った。

「私が説教中に、『農民どもは射殺されてしかるべきだ。奴らを市の門前に立たせ、奴らに向け銃を構え、彼らを打ちのめせ。もし我々が過激派リーダー六、七人の頭を切り落とすなら、残りの者たちは正気にかえるだろう』と発言した――そんな風にコンラートは言っていたかい。そんな事を言って、私を糾弾していたかい。」

マルクスは驚いて顔を上げた。「いいえ、そんな事聞きませんでした。」

「コンラートはそんな事を言って、私を非難しているという噂が流れているんだ。」そう言うウルリッヒ・ツヴィングリは、不快感を隠すことができなかった。

「でも、、、グレーベルがいつ、そんな発言をしたんですか。」
「ヒンウィルでだ。昼食の席で。」ツヴィングリは答えた。

「でも私たちは、、、あの日曜日、ヒンウィルで昼食の席につく暇さえなかったんです」とマルクスは言った。「歩きながら、少し何かを食べ、それから急いでバレッツウィルに向かいました。それは根も葉もない噂です。あの日、グレーベルはそんな事言っていませんでした。」

「それなら、別の日に、言ったのだろう。」ツヴィングリは立ち上がり、戸口の方に向かった。「君たちにはまた会う必要があるからな。」廊下に出て行きながら、彼は囚人たちにそう伝えた。

☆☆☆

翌日の朝、仕立屋のハンス・オーゲンフューズは釈放された。残されたゾリコンの三人は、自分たちも外に出て、家に帰りたいと願わずにはいられなかった。でも三人はツヴィングリに降参するつもりはなかった。

特にマルクス・ボシャートは、――ツヴィングリが言ったように、獄中生活が長い、長い期間に渡って続くようなことになったとしても――信仰に忠実であり続けようと心に決めていた。

「もし僕たちの信仰に土台があるのだとしたら、、、」三人がそれぞれの独房に連れて行かれる前に、マルクスは二人にささやいた。「人に従うより、神に従う方が良いということを肝に銘じておくべきだ。コンラート・グレーベルは、ゾリコンの兄弟たちの不忠実さにかなり失望していた。」

しかし何週間も経ち、獄中での一カ月が終わる頃には、マルクスの心は、疑いや、――牢獄を出て、家に帰り、レグラに再会したいという――抑えきれない願望にますます悩まされるようになっていた。

ある日などは、彼は孤独感にさいなまれながら、何時間も座っていた。――聞こえてくるのは、夏の太陽の下、外でさえずっている小鳥の声だけだった。妻と過ごしたブドウ園での楽しい日々が思い出された。

サラサラした土と暖かい太陽の降り注ぐ中、二人は共に働いていたのだ。石灰をまいたばかりの家畜小屋の甘い香り、そして寒い冬の朝、乳搾りをする楽しさ、、、そんな事も思い出された。そう、マルクス・ボシャートはホームシックにかかっていたのだ。

望郷の念に加え、新たな心配も生じていた。赤ちゃんが生まれてきた時、自分がレグラのそばにいなかったら、いったい彼女はどうなるのだろう。そして赤ん坊は。

赤ん坊に洗礼を施せという、村役人ウェストの脅しに、レグラは屈してしまうのだろうか。実際、夏の間に、ゾリコンの兄弟数人が、――幼児洗礼は聖書的ではないと知っているにもかかわらず――、生まれてきた自分の子供に洗礼を受けさせていた。

わが子に洗礼を授けないことは、そのまま罰金徴収や投獄につながった。そのため、単にこれら一切をあきらめ、牧師がわが子に洗礼を授けるがままにすることはむしろ容易なことであった。

レグラも泣き寝入りするのだろうか。それとも、教会の皆で同意したように、あくまで信仰にとどまり、幼児洗礼を拒むだろうか。

何時間も何時間も、何もすることなく牢の中にいるのは耐え難かった。もし新約聖書を持参してきていれば、何かしら価値あることができたはずだった。

しかし、腰を下ろし、立ち上がり、狭い独房の中を歩き、また腰を下ろし、考え、立ち上がり、歩き、腰を下ろす、、、何の日課もなく、あるのはただ空虚な、いつ終わるともしれない日々だった。

フェリクス・マンツと話せたらどんなにいいだろうと思った。フェリクスなら、僕の気落ちしている心を引き立て、勇気と信仰が与えられるよう鼓舞してくれたにちがいない。でもそれは所詮、無理な話だった。フェリクスは、ウェレンベルグの古い牢獄にいたからである。

キーナストやフリードリー・シュマッヘルと話せたら、それも励みになったはずだ。でも看守は三人の囚人が互いに話せないよう、厳重に見張っていた。人との唯一の接触は、おかゆと水を一日に二回運んでくる守衛とだけだった。

ある朝、気がついてみると、マルクスは、自由の身となった自分のことをうっとりと心に思い描いていた。彼は愕然とした。こういった楽しい期待を前に、自分の決心がぐらぐらしてきているのを感じた。

これまで、釈放のため、己の信仰を否むことなど、一度だって真剣に考えたことはなかった。しかし突如として、暗い、じめじめした独房での、わびしく、むなしい未来が耐え難くなった。もうこれ以上耐えられないと思った。もしここから出られないなら、しまいに自分は発狂してしまうんじゃないかと彼は恐れた。

ここから出るためには何をする必要があるんだろう。――その答えはきわめて単純なものだった。自分が間違っていたということを認め、今後、善きツヴィングリ主義者になり、兄弟たちのことなど忘れ去ります、ということを約束しさえすればよいのだった。

あとは、罰金と、投獄にかかった費用を支払わなければならないだろう。おそらくこういった約束を裏付けるための保釈金も必要になるだろう。

いや、ダメだ!そんな事はできない。間違ったことはしていないのに、どうして「私が間違っていました」などと言う事ができるだろう。

兄弟たちの教えは聖書の教えであり、新約聖書に倣って教会を建て上げることが、――それが政府のお気に召さないという理由だけで――誤りとみなされるなんてありえないことだった。

マルクスは自分が学んだ聖書の御言葉を思い出そうとした。今朝も、聖書の教えを思い出すことで、彼は信仰を撤回してしまいたいという誘惑に再び打ち勝つことができた。使徒たちも同じような問題に直面していたのだ、とマルクスは思った。

彼らは、政府のご機嫌をとろうとせんがばかりに、神の御心を放り出すようなことはしなかった。いつも、そこにはまず、神に対する従順があり、その次に、――神の御心と対立しない全てのことにおいて――、政府に対する従順があったのだ。

コンラート・グレーベルもその点に関し、確信を持っていた。彼曰く、この世のあらゆる事柄に関して、キリスト教徒は政府に従い、敬意を払い、為政者のために祈るべきである、と。

しかし宗教的な事柄については、あくまで教会が取り扱うべきであって、政府が干渉すべきではない。それゆえに、忠誠を誓う上で、両者間に衝突が起こるのである。人間の作った法律が神の法律と食い違う場合、人よりはむしろ神に従うことが正しいのだ、と。

その夜、床につきながら、マルクスは落ち着かなかった。たとえ、数分のことであったが、転向について真剣に考えてしまったことを彼は恥じた。しかし、羞恥心以上に、彼を恐れさせたのは、――次に襲ってくる誘惑は今以上に激しいものになるのではないか、もしくは、自分はさらに弱くなってしまうのではないか――という懸念であった。

☆☆☆

転向への恐れや誘惑があることへの自覚があったにもかかわらず、マルクスは自分がどんどん弱くなっていくのを感じた。

レグラは自分を必要としているだろう。もしかしたら、今この時にも彼女は初めての子供を出産したかもしれなかった。父親になるというのはどんなものだろう。そしてレグラが母親になるというのは。

でも、もしかしたら、レグラは出産中に死んでしまうかもしれない。それは稀なことではなかった。過去五年間に、自分が知っているだけでも、五人の若い妊婦が出産中に死亡していた。それはいずれもゾリコンや近郊の村でのことだった。レグラが死ぬかもしれないという想像はマルクスを震えさせた。

これは本当に耐えるに価値あるものなのだろうか。――聖書を理解する上での異なった見解ゆえに、こうやって牢に閉じ込められているというのは。ツヴィングリの教会でそれなりによい人生を送り、平和のうちに過ごすというのも、案外ありえるんじゃないだろうか。

八月の初めの週のことであった。一日中こういった魂の葛藤を経たのち、ふと見上げると、牢の戸のかんぬきが外され、ウルリッヒ・ツヴィングリが入ってきた。

ツヴィングリは例によって、いつもの議論を始めた。が、今やもう、議論する力はマルクスに残っていなかった。疲れ切り、病んでいたマルクスは、頭を垂れ、彼の話をきいていた。

「こういった牢の中で、君の人生を無駄にするというのは馬鹿げたことだよ。」ツヴィングリ卿は言った。

「もしこの獄中生活によって、何か得るものがあるんだったら、私だって、君を止めようとはしなかっただろう。でも、こうやって片意地を張り続けた結果、いったい何が得られるというんだい。

君がこの先粘ったところで、そこには全く希望がない。ゾリコンからの、あの二人の仲間はもう家に帰ろうとしている。だから君も彼らと一緒に帰るべきだ。奥さんもさぞかし君の帰りを待っているだろうねえ、そうじゃないかい。どうしてこんな所で衰弱していっていいものだろうか。」

マルクスは必死に、こうした恐ろしい言葉の攻撃に抗おうとしていた。

ツヴィングリの口から出てくるこうした言葉ははじめて聞くものではなかった。というのも、ここ数日の間、彼は自分自身の心の内に、まさにこうした言葉を聞いていたのであり、――これらは、《試みる者》であるサタン自身から来ているものだ――と知っていた彼は、それらに対して必死に戦っていたのである。

でももう、彼には力が残っていなかった。だから、彼はそういった言葉が次から次へと自分の上に降りかかるがままにしておいた。

「村の教会でキリスト教徒として生きていくことはできないと思うのかい?」ツヴィングリは尋ねた。「いや、君ならできる。それに我々は君のような人材を必要としているのだ。

我々は、罪や悪を回避し、ひたむきに主に仕えようとしている君のような若者を必要としているのだ。毎週日曜に教会に行き、ビレター牧師の説教を聴くことは、こんな監獄で朽ち果てていくより良いに決まっている。もしこんな所に留まり続けるなら、君は神への信仰もろとも失ってしまうことになるだろう。」

マルクスは目を閉じ、いつまでも続くこうした甘言の声を心の内から締め出そうとしていた。でも、もう駄目だった。言葉は彼の内にしみ込んでいった。

「私はね、君やコンラート・グレーベル、フェリクス・マンツと同じように、改革賛成派なんだよ。でも改革は一日にしてならず、だ。この種のことは時間を要するんだ。人々を扱う際にね、向上というのは、徐々に実現されるべきものなんだ。

「ほら、ミサ廃止のために、ここチューリッヒで我々はどれだけ忍耐し続けただろう。でも、今やついに、ミサは全教会から駆逐された。

でももし私が二年前、『ミサはただちに廃止されるべきだ』って主張していたら、どうなっていたと思うかい。参事会からは拒絶され、今日、教会はいまだにミサを執り行っていただろう。そして私も君のように獄中にいたかもしれない。分かるかい。」

マルクスはそれが理解できたが、それでいてやはり合点がいかなかった。ツヴィングリのやり方は本当により良いものなのだろうか――胸算用をし、時機を待ち、妥協しつつ、――ここから少し、あそこから少しといったように地を固めていくというやり方が。

そして、州に生まれた赤ん坊に全員、洗礼を施し、そうしておいて後、教えと説教によって、彼らをキリスト教徒にしたてていくというやり方が。それに教会が、参事会及びその国家権力ないし武力を後ろ盾に、扱いにくい非国教徒を始末するというのは、はたしてより良いやり方なのだろうか。これが聖書的やり方なのだろうか。

彼の内の何かが叫んでいた。「いや、違う。これは聖書的な教会のあり方じゃない」と。でもマルクスはすでに、どれが聖書的やり方で、どれがそうじゃないのかという一連の事がもはやどうでもいいことのように思われる、そんな段階にまできていた。

「ああ、天にいます主よ。あなたの御心を行わせたまえ」と彼は祈ろうとした。しかしその祈りも声に出ないまま、地に落ちてしまった。

今やツヴィングリは話をクライマックスに導こうとしていた。彼の声は感じのよいものであったが、にもかかわらず、そこには間違いようのない権威の響きがともなっていた。

「ゾリコンからある知らせが届いたんだ。今日、君の所にきたのもそれが理由だった。君がさぞかし興味を示すだろうと思ってね。実は、君の奥さんが昨晩、男児を出産したんだ。もし君が書類にサインし、罰金を払うなら、今晩にも、君は家に帰り、奥さんや息子に会えるんだがなあ。私が参事会とうまく取り計らってあげるよ。」

マルクスは関心をもって頭を上げた。「な、、、なにが、、、、条件なんですか。」

「参事会は君に対して寛大でありたいと言っている。それで君の罰金は一銀貨となるだろう。しかし、この先一切説教しないし、教えもしないということを条件に、百ポンドの保釈金に署名しなければならない。」

放心状態のマルクスは、物事をきちんと考えることができなかった。百ポンド!それは一財産にも値する金額だ。でも実際、支払う必要はないのだ。あくまで保釈金にすぎないのだから。約束を破らない限り、そんな高額なお金を払う必要はないのだ。もし約束を破らないのだったら、、、

「署名する気はあるかね。」問いは簡潔だった。

レグラの顔がマルクスの脳裏にちらついた。そしてもっと小さな顔、――姿かたちははっきりとしていないけれど――、ちいさな赤ん坊の顔が浮かんだ。

「家に帰る用意はできたかね。ただ一言返事してくれればいい。」

ゆっくりとマルクスはうなずいた。

第27章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第25章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』