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女性であることが何を意味するのかを学ぶためには、

まず、私を創造してくださった

このお方を知ることから始めなければならない。

-Elizabeth Elliot


真の女性が求めているのは真の男性です。そして真の男性が求めているのは真の女性です。

女性は、男性の男らしさに惹きつけられます。そして男性は、女性の女らしさに惹きつけられます。

あなたが女性らしくなってゆけばゆくほど、あなたのご主人は今以上に男らしくなっていきたいと願うようになるでしょう。

ロシアの哲学者ベルジャーエフはこう言いました。「女性解放の思想は、両性間に横たわる深い敵意、ならびに嫉妬やまねごとに基づいている。こうして女性は単なるパロディー、偽の人間存在になろうとしている。」

神の御目的を理解しているクリスチャンにとっては、敵意や嫉妬、模倣への渇望などはありえないことです。

、、私たちは自分のセクシュアリティーをある意味「克服するよう」求められてはいません。その反対に、私たちはそれを肯定します。そしてその中に喜びを見い出します。

私たちはそれを神からの賜物として用いることを求めつつ、それに対して忠実でありたいと願います。自分の性に対して不誠実であることは、すべての人に対する不誠実でもあります。

なぜなら、男性たちとの関係においても、他の女性たちとの関係においても、女性は女性である必要があるからです。

そして男性は、女性たちとの関係においても、他の男性たちとの関係においても、徹頭徹尾、男性でなければならないからです。

自分の男性性に対して誠実でない夫は、妻を欺いており、その逆もまたしかりです。ここで私がお話している誠実さとは、神の召命に対する私たちの応答のことです。

一方が男性として召され、もう片方が女性として召され、二人は一体となり、一体になることを通して、二人は神と一つになります。

in the garden

どの社会においても、それぞれの性に適応されるものとして理解されている期待というものが存在します。

もちろん、そこで期待されているものというのは、時代や場所によって異なるかもしれませんが、男性らしさ、女性らしさにおける独自性というのは、歴史を通して一貫しています。

しかし現代社会において、この独自性を亡きものにしよう、男性がしていることを女性にもさせようという試みがなされるようになりました。

男性の仕事は、それがどんなにつまらなく、おもしろくもなく、困難であっても、一般にそれは、女性の仕事よりも価値があるとみなされています。

「機会均等」という時、必ずといっていいほどそこに含まれているニュアンスというのは、「女性のしていることを男性がしたいというのではなく、あくまで、男性がしていることを女性がしたい」というものです。つまり、特権というのは、女性の仕事ではなく、男性の仕事に付随しているという前提がそこにあるのです。

女性の仕事、――特に子供を産み育てるという、創造の掟によって女性だけに託された任務――は、価値の低いものとみなされているばかりか、いやしめられ、「動物的だ」とさえ言われています。

これは真理に対するおそろしいまでの歪曲です。それは男性の基準によって女性を計り、異質な型に女性を無理に押し込め、彼女たちを本来召されているものへと導いてくれる賜物それ自体を奪う企てです。

女性らしさを、男性らしさの範疇の中に無理に押し込めることは、お肉をじゃがいもの基準で判断するのと同じくらい荒唐無稽な行為です。

、、あなたは、神の恵みによって、女性とされているのです。それはあなたに責任があることを意味します。

あなたは余すところなく完全に女性です。そしてそれは特権を意味します。

その一方で、あなたは女性にすぎません。それはあなたに限界があることを意味します。

あなたのご主人は男性です。彼は余すところなく完全に男性であり、また同時に、男性にすぎないのです。

このことを神さまに感謝してごらんなさい。そしてフルにそれに生きてごらんなさい。


(Elizabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 44, Be A Real Womanより抜粋)


私たちクリスチャン「も」フェミニズムに惹きつけられる理由について

この探究の旅は いつ終わるのだろう