A・W・トーザー 『聖なる方を知る知識』Knowledge Of The Holy)の第二章「知り尽くしえない神(God Incomprehensible)」を翻訳いたしました。

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(A.W.Tozer 1897-1963)


  知り尽くしえない神 
(God Incomprehensible)



子どもも、哲学者も、宗教家もみな共通した一つの問いを持っています。

それは「神とはどのような方か」という問いです。

この本はその問いに答える目的で書かれています。しかし初めにことわっておきたいことがあります。それは、神は何かや誰かにそっくりそのままなぞられるような方ではないということです。

私たちは何かを学ぶ際、自分たちがすでに知っているものを橋として、未知の領域へ渡っていきます。

私たちの知性は、突如として既知のものからまったく未知のものへと突き進むことはできないのです。

もっとも強健にして勇敢な知性といえども、想像力を働かすという自然の行為によっては無から何かを生み出すことはできません。

神話や迷信の世界に住まう、かの物珍しい生き物たちは、純粋な意味における創造の産物ではありません。

それらは、大地や空や海に住むありきたりの居住者を素材に、それらなじみの型を越境・拡大させたものか、もしくは、二つか三つのもともとあった型を混ぜ合わせて何か新しいものを作り出したか、そのいずれかです。

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それらがたとえどんなに美しく、あるいはグロテスクであっても、その原型(プロトタイプ)はいつも特定できます。それは私たちがすでに知っている何かに似ているのです。

言葉で言い表しがたいものをなんとか表現しようとした聖書記者たちの努力は、聖書の思想の上にも、言語の上にも、相当の緊迫感をもたらしました。

それらは、自然界を超えた世界の啓示である場合が多かったのですが、その一方において、そういった書の読み手の知性は自然界の一部でありました。

そのため、聖書記者たちは、読み手に分かってもらうため、「~のようなもの」という語をさかんに使わざるをえなかったのです。

御霊が私たちの知識の領域を超えたところにある何かを私たちに知らしめようとされる時、御霊は、それが、「私たちがすでに知っているものに似たなにかである」ということをおっしゃいますが、いつもご自身の描写を言い表すのに注意深くあられます。――陳腐な直訳主義に私たちが陥ることのないようにするためです。

例えば、預言者エゼキエルは天が開かれるのを見、神の幻を目の当たりにしましたが、そこで見たのは、どんな言語でも表現できないようなものでした。

エゼキエルが見ていたものは、彼がそれまで知っていたどんなものとも全く異なっていました。だから彼は「~のようなもの」という言葉に頼らざるをえなかったのです。

「それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、、」

火のようにみえる王座に近づけば近づくほど、エゼキエルの言葉は不確かな響きを帯びてきます。

「彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった、、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた、、それは主の栄光のように見えた。」

こういった言葉は何か奇妙な感じがしますが、しかしそれでも非現実的な印象は作り出していません。

ここから推測できるのは、全光景は非常にリアルだったのですが、にもかかわらず、この地上に住む人間の知るいかなるものとも全く異質なものだったということです。

ですからエゼキエルは自分の見たものについて伝達する上で、「~のようなもの」「似たもの」等の表現を使わなければならなかったのです。

王座でさえも、「何か王座に似たもの」となり、その上に座しておられる方は、人のような姿に見えはしたものの、同時にそれとは全く似ていないもののようにも見えたため、「人間の姿に似たもの」と表現するより外に法がありませんでした。

「人が神のかたちに創造された」と聖書は言っていますが、その際に、私たちは自己流の思想をそこに投入して、「全く同じかたちに」という意味合いをもたせるようなことはしないでしょう。

そんなことをするなら、人間を神の複製品にしてしまうことになり、それはとりもなおさず神の独自性を失わせることを意味し、最終的にはそれは神でも何でもなくなってしまいます。

それはまた――〈神であるもの〉と〈神でないもの〉とを隔てている――無限に高い壁を打ち壊すことを意味します。

被造物と創造主のことを、本質的に似た存在であると考えることは、神の属性のほとんどを奪うものであり、神を被造物の地位に貶める行為です。

それは例えば、神の無限性を奪い取るものです。宇宙には二つの無限の実体は存在しえないからです。

また、それは神の至上権をはく奪するものです。――宇宙には、二つの、絶対的に自由な存在者というのは存在しえません。

もし存在するようなことがあれば、完全なる二つの自由意志は遅かれ早かれ衝突を起こしてしまいます。

ですからこういった属性が属すべき対象はただ一つをおいて他にないのです。

神がどのようなお方であるかを想像する際、私たちはやむを得ず、〈神でないもの〉を、思考の働きのために用いることを余儀なくされます。

従って、私たちの思い描く神というのは何であれ、神ではないのです。なぜなら、私たちは神の造られたものによって自分たちのイメージを作り出しており、神の造られたものというのは神ではないからです。

もし私たちがそれでも、神を視覚化しようとあえて主張し続けるなら、最終的に偶像をこしらえてしまうことになります。――その偶像とは、手で作られたものではなく、思想で作られたものです。

そしてそういった知性によって生み出される偶像というのは、手で作られた偶像にもひけをとらない位、神にとって不快なものなのです。

クサのニコラスは言いました。「知性はそれが汝(神)について無知であることを知っています。」

「なぜなら、知りえないものが知られるところとなり、不可視のものが見え、近づきえないものに到達しない限り、汝は知られざる存在であるということを知性は知っているからです。」

ニコラスは続けてまたこうも言います。

「もし誰かが、汝を把握することのできるという概念を打ち立てたとするなら、、私は知っています。その概念は所詮、汝の概念ではないということを。なぜなら、すべての概念はエデンの園の壁に終わってしまうからです。

ですからまた、もし誰かが、神理解のための手段を提供しようとの意図から、汝に対する理解について語ったとしても、その人は依然として汝から遠いところにいるのです、、なぜなら、汝は人が構想することのできる概念すべてを絶対的に超えた上におられるからです。」

自分たちだけで放っておかれるや、私たちは瞬く間に、神を御しやすい術語の中に押し込もうとする傾向にあります。

私たちは自分たちが神を利用できるところにおいて神を得たいと思っており、あるいは、少なくとも、神を必要としている時に神がどこにいるのか知りたいと欲するのです。

ある意味、自分たちのコントロール下に置くことのできる神が欲しいのです。

「神がどのようなお方であるか」ということを知っていると思うことからくる安心感を私たちは必要としており、神がどのようなお方であるかということは、もちろん、私たちの見てきた宗教的絵画、自分たちの知っているあらゆる偉人、自分たちの抱いてきたあらゆる崇高な思想などという複合要素によって構成されています。

こういったことが現代人の耳に奇異に聞こえるとしたら、それは他でもない、私たちがここ半世紀というもの、神を軽視し続けてきたからです。

神の栄光は、この世代の人間には啓示されてきませんでした。

――「(キリスト教の)神は弱く頼りない存在である一方、古代の神々は少なくとも力は持っていた」という点で、実際には神はそういった神々よりも劣っていないとしても――現代キリスト教の神は、ギリシアやローマの神々よりほんのわずかに勝った存在にすぎないような印象を与えています。

もし私たちが神だと考えているものが実際には神をあらわすものでないとするなら、私たちは神のことをいったいどのように考えていけばよいのでしょうか。

もし神が信条でも宣言されているように、本当に知り尽くしえず、パウロが言うように近づくことのできない存在なら、私たちクリスチャンはいったいどのようにして、神を切望するこの思いを満たすことができるのでしょうか。

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。」(ヨブ22:21)という希望に満ちた言葉は、何世紀経った今でも依然として立っています。

しかし、しかし私たちの側のあらゆる懸命な知性的、心的努力を「お避けになる」方と、いったいどのようにして和らぐことができるのでしょうか。

知りえないことを知ろうとすることに対し私たちはどれほど責任を負わされているのでしょうか。

「あなたは神の深い事をきわめることができるか。」とナアマ人ゾパルは問いました。

「全能者の限界をきわめることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか(ヨブ11:7,8)」と。

「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」と主は仰せられました。

ヨハネによる福音書は、神という大いなる奥義を前に、人間の知性がいかに無力であるかを啓示しています。

またコリント人への第一の手紙の中でパウロは、聖霊が自らを顕示する行為として、神を求める心のうちに働いてくださることを通してのみ、私たちは神を知ることが可能であることを説いています。

知りえない方を知ろう、知り尽くしえない方を理解しよう、近づくことのできない方に触れ、味わおうと切望する心は、人間本性の中に存在する「神のかたち」によって生み出されるものです。

深淵は深淵を呼び起こし、――神学者たちが(人類の)堕落と呼んでいる、大規模な災害によって、汚染され陸に閉じ込められてはいても――魂はその起源を感知しており、その源へ立ち帰ろうと切望しているのです。

これはいかにして実現可能なものとなるのでしょうか。

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聖書の示す答えは、ただ単純に「私たちの主イエス・キリストを通して」です。

キリストにあって、そしてキリストによって、神は完全なる形で自己を啓示することをよしとしてくださいました。ただし、主はご自身を理性にではなく、信仰と愛に顕してくださいます。

信仰は知識の器官であり、愛は経験の器官です。神は受肉と贖いの中で私たちの元へ来てくださいました。

主は私たちをご自身と和解させてくださり、信仰と愛によって私たちは入り、主をとらえるのです。

「まことに神は計り知れない偉大さを持しておられる」と、天の喜びにあふれキリストの抒情詩人リチャード・ロレは言いました。

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「私たちが考えることのできる以上に、、、造られし物によっては知られることのないもの。そして神それご自身としては、私たちは決してこの方を理解することができない。

しかし今この時にあってさえも、心が神への切望によって燃え上がり始める時はいつでも、非被造的な永遠の光を受けることができるようになり、聖霊の賜物によって感化され満たされ、心は天国の喜びを味わうようになる。

その人の心は、目に見えるあらゆる物を超越し、永遠のいのちの甘美さのうちに引き上げられる。この中にまことに全き愛が存在する。知性のあらゆる意図、精神の秘かな働きの一切合財が、神の愛の中に引き上げられる時である。」

「神は、愛情のこもった個人的経験の中にあって、魂に知られうる存在でありながら、他方において、理性の好奇な目からは頑として離されている」というパラドックスは、次の句によってもっともよく描写されているでしょう。

    知性にとっては暗闇 

しかし心にとっては太陽の輝き  (フレドリック・W・ファバー)


『未知の雲』という高名な小作品の著者であるファバーは、全書に渡ってこのテーマを展開しています。

彼は言います。神に近づいていく過程で、探求者は――聖なる方が、未知の雲のうしろに隠れるように不明瞭さのうちに宿っておられること――を発見します。

しかしここで私たちは意気消沈してはならず、神に対する明白な決意をもって意志を据えるべきだと。

この雲は探求者と神の間に存在するため、悟性の光によってははっきり神をみることができず、また感情のうちにあっても主を感じることができません。

しかし、神のあわれみにより、もし探求者が御言葉を信じて、強く求めるなら、信仰は雲を突き破り、主のご臨在のうちに入ることができるのです。

スペインの聖徒であるミゲル・デ・モリノスも『霊の導き』の中で同様のことを説いています。

曰く、神は御手で魂をとらえ、純粋な信仰という道を通して魂を導かれ、「知性をしてあらゆる考察や推論を後にせしめることで、主は魂をさらに引き寄せる、、、よって、神は、魂が――単純にして不明瞭な信仰の知識――という手段によって、ただひたすら愛の翼の上におられる天の花婿を求めるように働きかけるのである。」と。

こういった教えを説いたため、モリノスは異端審問所によって異端として弾劾され、終身刑を言い渡されました。投獄後まもなくしてモリノスは死にましたが、彼の説いた真理は不滅です。

キリスト者の魂についてモリノスは言いました。

「魂よ、知っておきなさい。この世のすべて、そして最高の知識人たちによって打ち立てられた最も洗練された概念であっても、魂に語るべき何をも持たないことを。

そして魂の愛するお方のすばらしさと美しさは、それらすべての知識をはるかに凌駕するものであることを。すべての被造物は配慮を欠いているため、神についてのまことの知識を魂に知らしめることもせず、導くこともしない、、、

それゆえ、魂はすべての悟性を後にし、愛とともに前進しなければならない。魂よ、想像のこしらえた神像ではなく、神をそれご自身として愛しなさい。」

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「神はどのようなお方でしょうか。」もしその問いが、「神そのものが、どのようなお方か」を意味するのでしたら、そこに答えはありません。

しかしもしそれが、「敬虔な理性が理解することのできるように、神がご自身について何を明らかにされたのか」という意味でしたら、十分に納得がいき、また満足のいく答えが存在すると私は考えています。

なぜなら、神の名が秘められており、神の本質的な本性は知り尽くすことのできないものではあっても、主は遜った愛の中で、啓示によって、主ご自身についての真実を反映するようなある種の事柄を明示しておられるからです。

こういったものを私たちは神の属性と呼んでいるのです。


――第2章部分 おわり――



書くということについて

何を知るか、どう知るか(an east windowのMiyasaka氏のメッセージから学ぶ聖書の真理)