第ニ十七章
   つぶされた希望


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帰ってきた夫をみて、レグラは驚き、そして大喜びした。彼女は赤ん坊を腕に抱きながら、ベッドに横たわっていた。こんなに美しい妻をみたことがない、とマルクスは思った。

彼はベッドの傍に腰をおろし、わが息子を見た。赤ん坊は静かに寝入っていた。

「抱っこしてみたい?」毛布にくるまれた小さな赤子をマルクスの方にさし出しながら、レグラは尋ねた。

「うん、でも今はダメだよ。」マルクスは言った。「牢獄から出てきたばかりで、僕の体は汚れているから。まずお風呂に入らなきゃ。それから、小さなコンラード坊やを抱っこするとしよう。」

レグラは夫に微笑みかけた。

その晩、マルクスがシャワーを浴び、清潔な服に着替えた後、レグラは言った。「どうやって牢から出てきたのか、教えてちょうだい、マルクス。」

でも彼は返事を拒んだ。
「また今度言うよ。」彼は約束した。「でも今晩は、どうか勘弁してくれ。僕には言えない。ねえ、それはそうと、僕の留守中、家はどうだった?」

こうして二人は夜遅くまで語り合い、そうして後、マルクスは寝床についた。粗末な牢獄のベッドとはなんという違いだろう!再び自分のベッドで寝ることができる!わが家とはなんといいものだろう。

しかし、どんなに眠ろうとしても、マルクスは眠ることができなかった。この数時間というもの、神経を高ぶらせるような出来事があまりにたくさん起こったため、彼の気は立っていたのである。

それに加え、頭痛もした。それはなにか重い荷が彼をぐいぐい圧迫しているかのような痛さであった。

この重荷というのは、重苦しく、煩悶する感情であって、――喜ぶ妻と赤ん坊のことにしばし思いを寄せていたにもかかわらず――、依然として、彼の心から消え去らなかった。それはマルクスに絡みつき、片時も忘れることのできないものであった。

チューリッヒ湖の向こうでは、暗雲が垂れこめてきていた。雷のゴロゴロという音がマルクスにもきこえた。黒雲がゾリコンにたちこめるにつれ、稲妻の閃光はどんどん明るくなり、その頻度も数を増していった。

マルクスは寝がえりをうった。獄中でも、眠れない夜はあったが、それは今夜のようなものとは種を異にしていた。――彼は、ゲオルグ・ブラウロックがわが家に宿泊した晩に体験した苦悶のことを思い出していた。

そして洗礼を受ける決意をしたことで、いかにして最終的に平安を得たかを。あの時は、善悪を巡っての葛藤があった。しかし今夜はそのような葛藤は存在せず、あるのはただ重くのしかかる荷で、それがベッドに横たわる彼を窒息させようとしていた。

ああ、あの平安をもう一度得ることができたら!

嵐はごうごうと村を襲っていた。暴風が外の木々を激しく打ちつけている音がきこえ、屋根は雨水であふれかえっていた。下の湖岸では、荒波が漁師たちの波止場を強打していた。

稲妻の白い光線が一瞬、闇を切り裂いたかと思うと、次の瞬間には、耳をつんざくような雷鳴がそれに続いた。

まんじりともせず、マルクスは、ベッドの上で寝がえりをうち続けた。丘の斜面にあるブドウ園一帯が、暴雨によりかなり浸食されてしまっただろう。雷鳴は東の方に消えていったが、バタバタ打ちつける雨の音は続いていた。ようやくマルクスは眠りについた。

☆☆☆

翌朝、マルクスは半病人のような状態で目を覚ました。獄中での過酷な日々、粗末な食べ物、精神的ストレス――それらが全て原因していた。マルクスは自分が衰弱しているのを感じた。目まいがし、熱もあるようだった。ブドウ園に行く予定であったが、まずは休養をとるべきだと思った。

しかし午後に彼はブドウ園に歩いていった。彼の足取りは初子が産まれたばかりの若い父親というよりはむしろ、老人を思わせるものだった。自分は痩せたのだ、と彼は思った。

マルクスはブドウの木々を見て回った。やらなければならない仕事の量の多さを見て取った彼は一瞬たじろいだ。しかしほとんど顧みられてこなかった割に、ブドウはまずまず育っていた。雇い人ヴァレンティンは夏が始まるや追放され、その後、マルクス自身、二週間、グリューニゲンに行っていた。

そして、さらに一カ月の投獄期間がそれに続いたわけだった。身重でありながら、レグラは本当によくがんばってくれた、とマルクスは思った。実際、数日前に彼女が立ち働いていた形跡が今もって見受けられた。

「僕は家を守らなければならない、そして家庭の責任を果たさなければ。」マルクスは厳かに自分に言い聞かせた。

この間、妻が一人で家の仕事をこなさなければならなかったことに対し、少し羞恥心を感じざるをえなかった。とはいえ、たとい家にいたところで、どのくらい役立っていたかは彼にもよく分からなかった。

昨晩の嵐のせいで、土地が浸食されていたが、被害自体は小さかった。こうして彼がブドウ園を歩き回っているうちに、一本のブドウの木の下に打ちつけられている白い杭がはたと彼の目にとまった。

――そうだ、傷んでいた枝に印をつけておこうとしてレグラと一緒に、ここに差し込んでおいたものだった。彼はこの枝をよく調べようと、枝葉をかきわけた。

「ああ、かなり傷んでいる。」誰も聞いている人はいないにもかかわらず、彼は大声で叫んだ。枝は折れ、一片の樹皮でかろうじて垂れ下がっているような状態であるのは一目瞭然だった。昨晩の強風でやられたのだった。マルクスはそっと枝を手に取ると、念入りに調べ始めた。

葉は青々としていたはずだった。できたばかりの、小さく緑がかったぶどうの房さえ以前見かけたが、今や葉は枯れかけていた。枝は木から切り離されてしまっていた。そして、いのちを与える甘い樹液は、もはや葉の先に流れていかなかった。そう、枝は枯れていたのだ。

でもブドウの木は他にもごまんとあるじゃないか。その中の枝の一本が枯れたからってどうだというのだ――とマルクスは自分を叱った。しかし、にもかかわらず、彼の脳裏からは枯れた枝のことが離れなかった。そう、あの枝は単に一本の枝以上の意味を有していた。それはある象徴だった。

マルクスはこういった考えを頭から振り払おうとしたが、だめだった。自分、マルクス・ボシャートはイエス・キリストというブドウの木につながる枝だった。

しかしこの枝はポキンと折れ――迫害という名の嵐によって、木から切り離されてしまったのだ。そして実り始めていた果実は、風や日照りで台無しになってしまった。

良心の呵責と苦悶に耐えかね、マルクスはブドウの木々の間にひざまずいた。「もし、私があなたに対して罪を犯したのでしたら、赦してください、主よ。」そうして彼は泣いた。

しかし、憐れみと赦しを求めた切実な祈りもむなしく、彼の求めてやまなかった平安はついに戻ってこなかった。

マルクスは立ち上がり、ゆっくりと家路についた。ホッティンガー爺やコンラート・グレーベル等、誰でもいいから、自分の失ってしまった平安を取り戻すのに助力してくれる人と話がしたくてたまらなかった。

しかし日はだいぶ傾いており、おまけに彼はめまいを感じていた。自分は病気に違いないと彼は思った。おそらく明日の朝、爺さんの家に行き、キリスト者としてのあり方や、教会を建て上げること、実を結ぶ枝となること等について、爺さんとじっくり話すことができるだろう。

☆☆☆

しかし翌日の朝、マルクスが病気であることは疑いようもなくなった。熱で、頬や額は真っ赤にほてっていたが、その一方で、呵責に苦しむ良心の重さに、彼の心は焼けんばかりであった。

レグラは動揺していた。彼女自身、まだ体が元に戻っておらず、夫の看病ができなかったのである。そこで、姉であるフリードリーの妻が来てくれ、二人は誰か助けてくれる人はいないかと互いに話し合っていた。

シュマッヘル夫人は、マーガレット・ホッティンガーを勧めた。マーガレットはホッティンガー爺の末娘で、マルクスの叔母にあたった。マーガレットは初夏に洗礼を受けており、二十代の敬虔な信者であった。

こうしてマーガレットが来ることになったのだが、彼女は病人の介抱に、そして産婦と新生児との世話に一生けん命だった。彼女は手際が良く、しかも働き者だった。

マルクスの熱は三日間下がらなかった。その間、ホッティンガー爺さんが見舞いに来てくれたのだが、マルクスはあまりに弱っていて、自分の胸の内の重荷を爺さんに打ち明けることができなかった。

そんな中――マルクスはまだ病に伏していた――、チューリッヒ参事会はゾリコンに官憲を遣わし、指導的立場についている兄弟たちのうち三人を逮捕しに来たのだった。その内の一人は他ならぬ爺さんだった。

「父がこの先、生きて釈放されることはないと思います。」マーガレットは言った。「父は去り際に、『今度こそ、信仰のために死ぬ覚悟ができている』と母に話していました。」

もう二人の囚人は、それぞれリッチ・ホッティンガーとヨルグ・シャドであった。

☆☆☆

マルクスは、三人の囚人が己の信仰に忠実であり続け、自分のように挫折するようなことがないようにと切に願った。
しかし決断を迫られているのは、獄中にいる三人だけじゃないのだということを彼はすぐに思い知らされたのだった。

病が回復し、ブドウ園に再び行けるようになった日のことであったが、マルクスは道端で村役人ウェストに出会った。

「お前さんは父親になったってな、マルクス。」ウェストはにこりともせずに言った。
「はい。神様が僕たちに元気な男の子を授けてくださいました。」

「で、子供に洗礼を受けさせるために教会に連れていったのかい。」
「いいえ。まだです。」

「法律は何といっているか君は知っているだろう、マルクス。それに君は法を遵守するって約束もしたしな。いつ赤ん坊は八日目を迎えるんだ。」
「月曜です。」

「それでは、月曜の夜までに、子供は洗礼を受けねばならない。」
マルクスは口をつぐんだ。そしてその場に落ち着かなく立ち続けていた。

「おい。何か言いたいことはあるか。」
「いいえ、ありません。」マルクスはどもりながら言った。彼はあたかも急ぎの用事があるかのように、去りかけた。

「じゃあな、マルクス。」そう言うと、村役人は湖の方角に向かって道を下っていった。

マルクスは打ちひしがれる思いで畑の方に急いだ。ここにまた、下さらねばならない重大な決断が立ちふさがっていた。それがいつかは来るということを彼は知っていたはずだった。

正しい道を選び取ることは、つまり――投獄と苦しみ、持てる一切合財の喪失――を意味した。その一方で、誤りの道を選ぶなら、表面的な平安は得られるかもしれないが、内面的には拷問を受けるに等しかった。

どうしてこういう風にしかなりえないのだろうか。いつも、そこには魂の葛藤があるように思えた。自分の心はこの葛藤によってバラバラになってしまうんじゃないかとマルクスは恐れた。

洗礼のために、わが子をビレター牧師の所に連れていくべきだろうか。そうはしたくない。「それは間違っている!」と彼の良心は叫んでいた。

しかし他に何ができるというのだろう。今となっては、もう取り返しがつかなかった。彼は百ポンドの保釈金をもって、今後従順な市民となり、政府ともめ事を起こさないという約束をしてしまっていた。

いったい、この約束は何か意味を持つのだろうか。もちろん、そうであった。というのも、キリスト者には約束を忠実に守る義務があり、それを破ったりしてはならないからだった。彼の言葉は軽々しく発せられたものではなかった。それならば、どうして約束をした直後に、それを破ったりできようか。いや、彼にはできなかった。

マルクスの体調はまだ元に戻っていなかった。すぐに発汗し、昼前にはもうぐったり疲れ切ってしまった。それで彼は家路に向かったのだが、帰りながら、彼は、レグラが赤ん坊コンラートの洗礼のことで何と言うだろうかと考えていた。

もちろん彼女は――夫は自分たちにとって何が最善かを知っているという確信があったので――何であれ僕の決断することに同意するだろう。とにもかくにも月曜までの三日間のうちに、洗礼を受けさせるか否かの決断を下さなければならないのだった。

しかし、驚いたことに、当のレグラは、赤ん坊に洗礼を受けさせるべきじゃないと考えていた。「休養している間に、私なりにいろいろ考えてみたの」と彼女は言った。「そしてマーガレット叔母さんと私はその事を話し合ったわ。で、叔母さんも私も、赤ん坊のコンラードは洗礼を受けるべきじゃないって思っているの。」

「僕もそう思っているよ。」重苦しくマルクスは言った。

「でもこの件に関して、僕たちに選択の余地はあるだろうか。ウェストは今朝僕に、『赤ん坊は月曜までに是が非でも洗礼を受けなければならない』って言ってきた。獄中での約束があるので、僕たちは窮地に追い詰められているんだ。ああ、今爺さんと話すことができたらなあ、、、」

「お爺さんは、私たちが赤ん坊に洗礼を受けさせることにぜったい反対なさるって、マーガレットは言っているわ。」

☆☆☆

しかし、土曜日の午後、こともあろうに、三人の囚人が再びゾリコンに戻ってきたのだ。マルクスはその知らせを聞いた時、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からなかった。

爺さんをはじめ、二人の奉仕者が自分たちの所に戻ってきたのは結構なことだったが、でも、どういう条件で彼らは釈放されたのだろう。マルクスはそれが知りたくてたまらなかった。

そうこうするうち、一人の村人がマルクスの所にやってきた。今晩、ヘイニー・ホッティンガーの家で開かれる集会に出席するように、との伝達だった。そしてマルクスは、今晩そこでいくつかの決定がなされるとの爺さんの言伝も聞いた。

こうしてマルクスは出かけたが、レグラは赤ん坊と家に残っていた。ヘイニーの家の方に向かい、丘を登りながら、マルクスは考えた。爺さんはどんな事を言うつもりだろう。ゾリコンの教会の今後についてどんな決定を下したのだろうか、と。

ヘイニーの家に入ると、そこはもうほぼ満員だった。彼は腰をおろし、頭の中で集まっている人の数を数えたが、総勢三十人はいた。指導者や信者のほとんどはそこに集っていた。今晩、今後どうするかについての決定がなされるのだろう。マルクスは集会が始まるのを待っていた。

しばらくして、爺さんが立ち上がり、会衆に向き合った。爺さんはマルクスがこれまで見たことがないほど老いてみえた。――顔のしわは、灯りの下でくっきり浮き彫りにされており、白髪混じりだった顎ひげは、今やほとんど真っ白だった。

「このような形で信者の皆さんと共に集まるのは、これで最後になるかもしれません。」おぼつかない声で爺さんは話し始めた。

振り返ってみると、――最初の者が洗礼を受け、神をお喜ばせするべく、ここゾリコンに教会を建てようと願った――あの時から、まだ八カ月と経っていないのであります。

苦しい八カ月でしたが、にもかかわらず、我々には感謝できることが多くありました。主の御霊が我々と共にあり、我々の取っている経路は正しいのだと、確信していました。しかし、、、」爺さんの声は詰まった。

しかし、夏がやって来、時が経つにつれ、我々独自の教会を持つことは、現時点では不可能であることが、さらに明らかになってきたように私には思われました。おそらくいつの日かそれは可能なのかもしれません。

でも今の時点では、我々に敵対する勢力はあまりに強いのです。払うべき代価も、我々の力量を越えています。私は、、、私はもう諦めようと思っています。」こう言うと、ホッティンガー爺は頭を垂れ、むせび泣き始めた。

前に立つ老人の泣き声の他、部屋は死んだように静まりかえっていた。部屋にいる多くの人々の頬にも涙が流れていた。
しばらくしてヤコブ爺はやや落ち着きを取り戻し、リッチ・ホッティンガーに話すよう合図した。

リッチは立ち上がった。「今回、獄中でどんな事が起こったのかと、おそらく皆さん考えていることでしょう。」静かに彼は言った。「まったく根も葉もないことで私は告発を受けました。噂がたち、それによれば、我々は『罪を犯すことなく生きることができる』と主張しているというのです。

「この噂には尾ひれがつき、しまいには、私が『殺人や、姦淫、盗みでさえも罪ではない』と発言したといわれる有様でした。我々がやめるよう教えてきた、そういう罪を、我々が逆に奨励していると言われようとは!こういった罪は我々の教会に入り込む余地がなく、我々はいつも罪と戦ってきました。

しかし、こともあろうに、自分たちがやめるよう徹底して教えてきた、まさにそういう罪のことで、告発を受けたのです。」リッチは鼻をかんだ。

「私もヤコブ爺と同じ意見です」と彼は続けた。

「新約聖書が説いている教会を建て上げられるようになる後の日まで、我々は待つべきだと思います。現在、我々に敵対する勢力はあまりにも強いのです。ツヴィングリに反旗を上げるのは、自滅行為も同然です。

今、自分たちにできる最善のことといったら、良きキリスト教徒としての生活をし、当分の間、ビレター牧師の礼拝に出席し、とりあえずの平安を保つということではないかと思います。もしかしたらいつの日か、信者で構成された教会を建て上げ、自分たちの信仰に生きることができるかもしれません。」そう言って、リッチは着席した。

「ヨルグ・シャド。」ホッティンガー爺は、獄中にいたもう一人の奉仕者の方を向いた。

シャドはいつものように、抑揚のある声でそそくさと話し始めた。

「二人の言った通りだと思います。こうやって自分たちを潰されるがままにしていたって何の得るところがあるでしょう。村の教会堂で四十人の人々に洗礼を施したあの日――去年の春でしたが――、我々の信仰はゾリコンにたちまち広がり、誰もそれを止めることはできないように思われました。

しかしその日から今日に至るまで、我々は厳しい現実に直面し続けてきました。二回目に投獄された時以来、我々に勝ち目はないように、自分には思われました。我々を縛るロープはどんどんきつくなっていきました。

我々は一挙一動、監視され、リッチ兄弟が言ったように、今や我々は、まったく根も葉もないことで責められているのです。だから私の場合も同様で、まったく身に覚えのないことで告発を受けたのです。」

爺さんは再び話し始めた。

「私の人生の中でも、こんな悲しい日はなかったように思います。一週間前に逮捕された際、たとえ自分の命を失うようなことになっても、信仰に忠実であろうと決心していました。しかし獄中で、私はいろいろと考え直してみました。そして今、そういう考えを持っていたこと自体そもそも間違っていたのだと分かりました。」

爺さんは咳払いをした。「実際、ツヴィングリは洗礼に関する彼の理解を聖書からはっきりと示してくれたのです。それで私は、『彼は正しいのではないか。そしてもしかしたら私たちの方こそ、この間ずっと間違っていたのではないか』と考えるようになったのです。

そこで私は自分の影響力を用いて、今後洗礼問題に関し、ゾリコンで問題が起こらないよう努めると約束したのです。」

マルクスは自分の耳を疑った。爺さんは本当に転向したのだろうか。洗礼は信じた者のみに限るのであって、まだ自分で考えることのできない赤ん坊に授けるべきではないことを、爺さんは早晩、再び悟るに違いない。マルクスは魂の底まで揺さぶられる思いがした。

「それじゃあ、今後、ビレター牧師の礼拝に出席するのでしょうか。」誰かが尋ねた。

爺さんは答えた。「それについては今後話し合うこととしましょう。ご存知のように、今回、これが私に対して投げかけられた主たる非難でした。――私は国教会に出席せず、他の者をもはばんでいる、と。私に国教会への参加を強要することだけは堪忍してほしいと当局に言いました。

というのも、神の真理があそこで語られているという確信が私にはないからです。しかし彼らは我々が出席すべきだと言い張りました。そして私に言ったのです。『もし牧師が聖書に反する教えをした時には、礼拝後に、彼の所に話しに行くように』と。しぶしぶ私はこれに同意しました。皆さんはどう思いますか。」

マルクスは自分の考えをまとめ、整理することができなかった。

釈放されてからというもの、彼の良心は一時も休まることがなかった。頭の中がいろいろな考えで一杯で、夜更けまで眠れない夜も多くあった。良心の呵責は常に彼を苦しめた。――時にはひどく、時にはやや穏やかに――、しかしそれはいつも彼にまとわりついて離れなかった。

今や彼はどう考えてよいのか途方に暮れていた。レグラと彼が赤ん坊に洗礼を受けさせないことで同意した時、彼の中での精神的混乱はいくぶんおさまったように思えた。しかし何という事であろう!もしゾリコンの信者がこぞって諦めるなら、自分だって諦めないわけにはいかないだろう。それに自分には参事会に対する約束もあった。そして百ポンドという保釈金も。

最前列から始まって、一人ひとり、集まった信者は、今後の身の振り方について自分の意見を述べた。一人一人、爺さんの提案――集会を中止すること、国教会に通うこと、従順かつ静かにすること――に同意するのをマルクスは聞いた。

ついにマルクスの番になった。「ぼ、、、ぼ、、、ぼくは、わかり、、ません。」頭がくらくらしていた。マルクスは頭を垂れた。

まだ病がまだ完全には回復していないのかもしれなかった。「分かりません。」

爺さんの声はやさしかった。「我々が教会として、沈黙を保つということに、同意してくれるかい、マルクス。」

沈黙を保つ!沈黙を保つだって!この言葉自体がマルクスの苦悶する脳裏にガンガンと響き渡った。しかし皆自分の答えを待っていた。決めなければならない、何か言わなければならない。「け、、、、けっこうです。」

マルクスの隣に座っていたフリードリー・シュマッヘルが何かを言っていた。でもマルクスはほとんど聞いていなかった。質問は続き、やがて皆自分の意見を述べた。その後集会は終わり、マルクスは家路についていた。彼は額に手を当ててみた。また熱がぶりかえしてきたのだろうか。

レグラはもう寝ているだろう。もしまだ起きていたら、すぐに彼女に話そうと思った。でももし寝ていたら、朝まで待って、話すとしよう。

――そう、明日赤ん坊のコンラート・ボシャートは洗礼を受けるのだ、と。

第28章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第26章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』