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先日、ある方のお書きになった論考を読む機会がありました。今日は、それを読んで私が考えたことを少しお分かち合いしたいと思います。

聖書から引き出される女性に対する否定的な見方を修正する最も網羅的な試みのひとつ は、エリザベス・キャディ・スタントンの、「婦人の聖書」(Women’s Bible, 1895)である。

これは聖書の中で女性に関係のあるところ を抜き出して、フェミニスト神学者たちの手で訳出しなおし、注釈をつけたもので、「女性に直接言及しているテキスト箇所や章、特に、女性の存在が顕著に抜け落ちているところを改定しようとした」ものである。

たとえば「創世記」のアダムとエバの堕罪についての解釈は、スタントン自身の注に加えてリリー D. ブレークの解釈が載っているが、そこでは、むしろエバのほうがアダムよりも優れている 点が指摘されている。

「エバの振る舞いは、最初から最後までアダムよりも優れていた。知識の木からは食べてはならない、という命令は、女性が作られる前に男性だけに与えられていた。それ ゆえ、禁止は、エバには神の声の荘厳さを持ってもたらされたのではなく、彼女と対等の夫からささやかれたのである。

……女は、知恵が得られるなら死も恐れずに果物を口にする。そして、その間ずっとアダムは彼女の傍に立って、――夫は彼女と「一緒にいた」と6節に書い てある――一言も異議をさしはさまなかったのである。

もし彼が、結婚生活で神に任ぜられた代表であったならば、きっと彼自身、蛇と論じる荷を負ったであろうものを、彼は、彼らの運命を決する危機に黙っていたのである。

……その後のアダムの振る舞いは、徹底的に卑劣である。

……神ヤーウェが現れ、「なぜ命令に背いたのか」とた尋ねた時、アダムは自分がいかにも大切にしていると言っていた優しい彼女の陰に隠れて自分の身を守ろうとするのである。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が与えたので、食べました。」……このような話から、男が男性の優位を語る理論を立てたことに、われわれは驚いてしまう! 」

男女を超 えてフェミニスト神学から得られるもの



この論考を読みながら考えたことがありました。それは聖書が書かれた目的についてです。

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。ヨハネ5:39



イエス様ご自身が、「聖書はわたしについてあかしをするものである」と宣言しておられます。

ここから分かるのは、聖書が徹頭徹尾キリスト中心であり、人間中心の書物ではないということ、したがって、キリストに焦点が向けられないような聖書の解釈や読み方は、(たとえそれがどれほど知的・感情的・神学的に魅力的に映っても)退けられなければならないということではないかと思います。

冒頭の箇所ですが、創世記三章のポイントは、はたして男女の優劣云々にあるのでしょうか。

いえ、むしろ焦点は「罪が死によって支配するに至った(ローマ5:21)」という事実を示し、そこからさらに、以下のようなキリストによる罪のあがないの真理に私たちを導きいれるためではないでしょうか。

すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受け入れられなくなったおり、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。ローマ3:23-24



すべての人」です。男性だけが罪を犯したわけでもなく、女性だけが罪を犯したわけでもなく、聖書は「すべての人が罪を犯した」と明記しています。

この世のイデオロギーであるフェミニズム思想を、キリスト教と接合させようとし、新しい聖書解釈を打ち立てていこうという(リベラル派・福音派双方の)動きに対して私が懸念を抱いているのは、上のような理由によります。

デイリーは、女性の罪は、むしろ、原罪を女性に帰する社会の中にあって罪悪感を自分のうちに内在化してしまいそれにとらわれるような、「咎と罪悪感の内面化」に あると見ている。

そして、そこからの救済と癒しは、意識の中に刷り込まれた劣等感や、自己嫌悪の念を追い払い、全人的な「両性具有的」存在になることにあると考える。

「男女を超 えてフェミニスト神学から得られるもの」



罪に対するとらえ方が違うわけですから、当然、「罪からの救い」という点でもフェミニスト神学は上のように独自の救済観を打ち立てています。

罪からの救済が、劣等感や自己嫌悪の念を「追い払う」ことにあるのでしたら、それは自己救済ということにならないでしょうか。

「世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29b)」イエス・キリストの十字架上での贖罪の死と復活は、無意味だったのでしょうか。

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。

ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。

このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

Ⅰコリント1:18、22、23、24



このような十字架無しのキリスト教は、他宗教とも容易に「和解」し、手を取り合うことができます。

、、少数派に属する民族や、一方の性や、障碍を持った人たちに対する差別を批判し、多様なものの価値をそれぞれ固有のものとして認めようとする動きは、フェミニスト神学の重要な側面であり、これは、排他的な方向に向かう正統主義と逆に、キリスト教内の他の多様性や他宗教に対して本質的に開かれた態度である。

そういう意味で、これは、宗教観の寛容や宗教多元論に通じる平和的なあり方であると言えよう。

「男女を超 えてフェミニスト神学から得られるもの」



今後、ますます十字架が、私たちを真に一致させるものになるか、あるいは互いに分離させるかの標(しるし)になっていくと思います。


私たち罪人は、自分の罪を認めるかわりに、それを誰か(何か)に転嫁しようとする傾向があります。

(私以外の)誰か―ーそれは隣のAさんである場合もあるし、ある特定の国民国家である場合もあるし、「白人支配」や「男性支配」といった集合的なものである場合もありえます――が問題の元凶であり、私(私たち)の不幸の原因だと考えがちなのです。

そしてその誰かを十字架の前に跪かせようと私たちはやっきになります。

しかし、主イエスが、他でもないこの「私の」罪のために血を流し死んでくださったという福音の真理を常に心に刻み付けて生きていきたい――これが私の祈りであり、自戒を込めた決意の表明でもあります。

参考になる記事:
『神は女でもある』?

神の忠実な証人として生きる者にさせてください

書くということについて