神の証人としてこの地上で生きていくことについて、J・C・ライルがすばらしい文章を書いておられます。その一部をここでご紹介させていただきます。

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また、神とともに歩く人は、神の証人のひとりである。

その人は、進んで主の側に立つことを決してためらわない。単に自分の心を神に明け渡すだけで満足することなく、自ら進んで公に、義と真理の進展のために自分の証言を発する。

その人は、自分がどなたのしもべであるか人に知られることを恥じたりしない。

その人は、人の感情を逆撫ですることを恐れて罪に反対の声をあげることを尻込みしたりしない。そのような者がエノクであった。
彼は邪悪な時代に巡り合わせた。

だが彼は大勢に与しただろうか? 罪人たちの道に歩んだろうか? 口をつぐんで、「私にはどうしようもないことだ」、などと云っていただろうか? 

とんでもない! 彼は、自分の隣人たちが何を好むかなど意に介さず、自分の主が何を求めておられるかを考えた。

彼は、世を喜ばせることを求めず、神を喜ばせることを求めた。

それゆえ、罪と腐敗のただ中に生きていながら、彼はそこから分離していた。彼はそれに反抗する証人であった。

彼は地の塩であった。暗闇の中に輝く光であった。

しかり、そして彼は、歯に衣着せずに語った。彼は、若さと誘惑を理由に大目に見ることなど全くしなかった。

彼は、愛がないと思われたくないばかりに人々を地獄に向かわせるようなことはせず、彼らにその危険を公然と告げた。

そして彼は、彼らが神も悪魔もないかのように、よこしまで無頓着な生き方をしているときに、使徒ユダが語っているように、こう云った。

「主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさい……について、彼らを罪に定めるためである」、と。

疑いもなく彼は、人々から厄介者だとみなされ、つきあいにくい人間だと思われたに違いない。

しかし彼は証人であったため、絶えず、「主は来られる」、と宣言していた。あなたが耳を貸そうが貸すまいが、やがて精算の日がやって来る。

罪はいつまでも罰されないままではすまない。----悔い改めよ。主は来られるからだ、と。

これが彼の証言の要旨であった。彼は神とともに歩んだ、それで彼は忠実な証人であった。


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しかし私はさらに云いたい。神とともに歩むとは、神の道を歩むことである。

私たちを導くために神が与えてくださったおきてに従うこと、神の戒めを私たちの規則とも、助言者ともみなすこと、いかなる場合にも神の命令をみな正しいとして尊重すること、神が私たちの前に敷かれた狭い道から一瞬たりともそれるのを恐れること、何もかもうまく行かないように思えても、神が私たちに希望を持たせるため与えてくださったことばを思い出しつつ、正しい道を行くことである。

また、神とともに歩むとは、神の御顔の光の中を歩むことである。

自分が弁明すべき相手たる神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されていて、この神にとっては暗闇も暗闇ではないことを覚えている者として生きること、そしてこのことを覚えつつ、心を探りきわめられるこの偉大なお方の御前で恥とするようないかなることも決して考えたり、口に出したり、行なったりしないことである。

そして神とともに歩むとは、御霊に従って歩むということである。

----聖霊を私たちの教師とみなし、力を求めて御霊により頼み、肉にはいかなる頼りも置かず、上にあるもののことを思い、地に属するものには嫌気をもよおし、御霊による思いをいだくことである。

しかし、愛する方々。実際、私はここで一日中あなたがたに語り続けたとしても、神とともなる歩みに関することの半分も語ることはできまい。

神とともに歩むとは、へりくだって歩むことである。

自分は神のあらゆるあわれみのうち、いかに小さなものにも全くふさわしくない者であると告白し、自分には自分を助ける何の力もないこと、自分に絶えざる足りなさがあること、常に後退しつつあること、自分が役に立たないしもべであり、神の恵みがなければ確実に堕落していく者であることを認めつつ歩くことである。

それは用心深く歩むこと、自分にからみつく罪と誘惑のことを常に忘れず、それらの襲撃を招くであろうような、あらゆる場所とつきあいと仕事を避けることである。

それは、神に対すると人に対するとを問わず、すべての者へののうちに歩むことである。

私たちの天の御父のうちにある思いと同じ思いに満たされ、あらゆる人に対して親切で、愛情深く、優しく接し、しかり、恩知らずで、よこしまな人に対しても、そのようにふるまうことである。

神とともに歩むとは、習慣的に絶え間なく神に仕えることである。

日曜日だけ神に仕え、平日には神を忘れるなどということがあってはならない。公の場では神とともに歩み、私的には神とともに歩まないなどということがあってはならない。

牧師や善良な人々の前でだけ神とともに歩み、家族や使用人たちの前では神とともに歩まないなどということがあってはならない。

そして最後に、神とともに歩むとは、常に前進し、常に進歩を続け、決して停滞せず、決して自分はよくやっている、自分は多くの実を結んできたなどと自賛せず、恵みにおいて成長し、力から力へと進み、後ろのものを忘れ、もし恵みによって何かを達成できたとしても、ますます満ちあふれる者となることである。


(J・C・ライル 『天国をめざして』より 一部抜粋)

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