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「ないがしろにされている」教えへの道案内(Ⅰコリント11章)
An Introduction To A Neglected Doctrine


祈りのベール(かぶり物)というのは、受けのいい教えではありません。実際、この教えはかなりないがしろにされています。

では、私はどうして、この教えに基づいた運動を始めたのでしょうか。私は論争好きなのでしょうか。いいえ、まったくそんなことはありません。

分派を起こそうともくろんでいるのでしょうか。いいえ、それもまったく違います。それでは、なぜ私はこんな事を始めることにしたのでしょうか。

端的に答えを言います。それはこの教えが聖書に書いてあるからです。

もしも「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(Ⅱテモテ3:16)というのがまことに然りならば、聖書はすべて、公平な取り扱いを受けるに値します。

それだけでなく、この主題は、聖書の中で言及されているだけでなく、「擁護」されてもいるのです。これは一、二の不明瞭な聖句ではなく、十五節にも渡る連続した聖句なのです。

ここの聖句でパウロが意味していたことについて議論することもできますし、この聖句が21世紀にいかに適用されるかということについて議論することもできましょう。

しかし、ただ一つ「この主題を無視し去る」――これだけはできないことです。

ダニエル・ワレス氏(Daniel Wallace)は、卓越した原文学者であり、「新約聖書写本研究センターCenter for the Study of New Testament Manuscripts」の創設者でもあります。

ワレス氏は、(私の主張している)「実際のかぶり物」という見解のことを以下のように語っておられるのですが、みなさんの多くも、同感されると思います。

この聖句が実際のかぶり物のことを言っていて、それが今日にも適用されるという見解は、ある意味、解釈学的には最も擁護しやすい見方であると同時に、現実問題としては最も受け入れがたいものだと思う。

聖書の真理に関することで良心の声に耳をふさぐことは決して安全なことではないので、私は最近までこの見解に従ってきた。率直に言って、私はこの教えが好きじゃなかった(今日、かなり受けの悪い教えだから。)

しかし、そうかといって、良心にかけて、それを無視することもできなかった。」1)



これはきわめて正直な告白ではないでしょうか。

祈りのベールというのは目に見えるシンボルなので、あなたは自分の見解を隠すことも、「後で言う」などということもできません。

それは――あなたが教会で誰かとあいさつを交わすよりも先に――あなたという人がいったい何を信じているのか人々が分かるようになるような、そんな代物です。

あなたがベールを着けているというだけで、周りの方々は自分たちが裁かれているように感じるかもしれません。(なぜなら、彼らはそうしていないから。)

そしてあなたはあなたで、こう思うかもしれません。「周りの人は、私が50年代に未だにしがみついている、時代錯誤的な人間だって思っているに違いないわ」と。

なおその上、あなたの教会の先生や兄弟姉妹は、あなたが律法主義に陥ってしまっているのではないかと心配しているかもしれません。

この「実際のかぶり物」という見解は、ただそのことを実際問題として頭の中で考えてみるだけでも、かなり葛藤を生じさせるものなのです。

ですから、ワレス博士が「今日、受けが悪い教え」とおっしゃっていましたが、これは私たちの直面するであろう現実を正確に言い表したコメントだと言えるでしょう。

あなたが祈りのベールを着けると、それによって、あなたの教会にいる皆が必然的に、この聖句に「向き合う」ことを余儀なくされ、その中の何人かは、おそらくそれに直面する用意がまだ全然できていないかもしれません。

ダニエル・ワレス氏はまたこうも言っています。

私の見る限り、本当の危険というのは、多くのクリスチャンが、この聖句が言っていることを無視し去っているという事実ではないかと思う。

――なぜなら、この聖句に対する従順は、それがどんな形であれ、なにかと都合が悪いからだ。2)



しかしここでことわっておきたいことがあります。それは人々がかぶり物の教えを受け入れない理由、その全ての全てが「恐れ」であるわけではないということです。

ある方々は他の解釈に納得しておられるのかもしれず、その場合、聖句によって確信さえ与えられれば、あるいは考え直されるでしょう。

私はそれがあなたであることを願います。

そして聖書が言っているすべてのことを正しく理解し、それに従うようになりたいという私の願いをあなたと共有できると思います。

でも私が懸念しているのは多くの方がⅠコリント11章を読んで、こう考えることです。

「どうもこの聖句はかぶり物を実際に着けるよう言っているように思える――でもそんなわけないよね?だって、ほら、祈りのベールをかぶってる人なんて誰もいないじゃない。それに私たち皆が皆、間違っていることなんてありえないよね。」

そうしてあなたは「この問題についてはまた後で考えることにしようっと。」と考えながら、そそくさと次の十二章へと移っていきます。(でも正直な話、この「後で」というのは、ほとんどあてにならない言葉です。)

みなさん、今が恰好の時です。私たちはこの聖句を深く検証していき、皆で力を合わせながら一緒に取り組んでいこうとしているのです。

このサイトは学者のために書かれたものではありませんからご安心ください。私が対象としているのは、一般の信者のみなさんです。

次につづく四つの記事の中で、私は女性たちが教会内で実際のかぶり物を着けることを支持する論拠を挙げようと思っています。

同様に、同じ文脈の中で男性たちがかぶり物を取るよう命じられていることについても言及します。これらを論じるにあたり、私はパウロが1コリント11章で出している四つの理由を挙げるつもりです。

こういった四つの理由を説明するにあたり、私は異論や反論にはあまり触れないつもりです。(反論については別箇の記事で取り扱っていきます。)

その後、なぜ地域教会が共に集うときのみ、かぶり物の実践が必要とされているかということについて書きます。そして最後に、あなたの質問やよく出される反論などに答えていきます。

肝心な点

この記事を書き終える前に、私はもう一つだけあなたに申しあげておきたいことがあります。それは「心の準備をしてください。」ということです。

おそらく、今、この記事を読んでくださっている方のほとんどは、1)祈りのベールに反対している、もしくは2)それについてどう考えてよいのかよく分かっていない、のどちらかだと思います。

だから、今、おそらくあなたの警戒心はアップしているでしょう。そのお気持ちよく分かります。私があなたの立場なら、私だってそうしていただろうと思いますし、警戒することはあながち悪いことだともいえません。

現に私たちはいつも、偽りの教えや偽教師に対する戦いの中におかれています。ですから、警戒心を持ち、すべてを神の御言葉を通して吟味することは良いことです。

ただ一つお願いがあります。かぶり物に関する従来の反論を――そんなはずはないという思い込みから――鵜呑みにするようなことだけはしないでください。

「主人(もしくは妻)はどう思うだろう?」「教会のみんなはどう思うだろう?」「僕(私)がこの教えを信じているということを知ったら、相手は結婚を承諾してくれるだろうか?」などなど、、、

人への恐れというのは私たちを圧倒しえますが、私たちは人以上に、神を畏れ、主の掟を畏れなければなりません。

私たちは聖書の御言葉に自らを結びつけ、たとえどんなに不都合な結果がもたらされようとも、それに従う必要があります。

ですから、もしもあなたの心がまだ準備できていないのでしたら、ここで読むのをやめて、次に進む前に、ます祈りのうちに主を求めてください。

その後、心の準備ができたら、Ⅰコリント11:2-16をじっくり読んでみてください。そしてゆっくり読み進めながら、内容に親しんでください。

かぶり物の習慣に関して、命じまた説明している聖書の章は唯一ここだけですので、良きべレヤの人々のようになるべく、熟読・吟味なさってください(使徒17:11)。

(執筆者 ジェレミー・ガーディナー)

参照
1.
↑ Daniel Wallace – What is the Head Covering in 1 Cor 11:2-16 and Does it Apply to Us Today? (2004)
2.
↑ Daniel Wallace – What is the Head Covering in 1 Cor 11:2-16 and Does it Apply to Us Today? (2004)


純潔を求める若い姉妹の祈り

神の忠実な証人として生きる者にさせてください