第一章 ことの始まり

夕暮れ


フリードリー・シュマッヘル家に向かおうと、村通りを行く青年マルクス・ボシャートに、チューリッヒ湖からの凍てつくような風が、まともに打ちつけた。マルクスは一月の空の、おぼろで薄暗い落陽をながめ、外套の襟をぎゅっと内に引き寄せた。

フリードリー義兄さんはきっと家にいて、こつこつと靴を作っているはず――。フリードリーは、いつも忙しかったが、それでも話す時間がないほどの忙しさではなかった。

マルクスはガスタッド通りを大股でさっそうと歩いていき、それから、靴屋への坂道を上っていった。フリードリー・シュマッヘルはゾリコン村随一の靴職人であっただけではなく、名の通った市民の一人でもあった。彼は皆に好かれていた。

マルクスは、トントンと軽くノックした後、ドアを押し開け、中に入った。革の匂いが濃くたちこめていた。「ごめんください。」マルクスは声をかけた。窓際で働いている義兄の姿を、店の薄暗い光の下に見分ける事ができた。
「やあ、マルクス。」

暗い店内に目が慣れてくるにつれ、もう一人の男が、縫い針と突き錐を手にせっせと靴を縫っているのが見えた。村教会の元牧師である、ヨハン・ブロトゥリーだった。ヨハンは牧師職を辞し、今や普通の職人同様、自分の手で働いているのだった。「やあ、ヨハン。入ってきた時には、君の存在に気付かなかったよ。」マルクスは謝った。

「こんばんは、マルクス。」元牧師は、低くて張りのある声で答えた。
「まあそこに掛けて、僕らの話に加わりなさいな。」 高い三本脚の腰掛けを指しながら、フリードリーは誘った。
「話だって。一体何を話していたんだい。」

「多分、推測できると思うけど。」フリードリーは微笑して答えた。しかしそれからもっとまじめな調子で続けた。

「実のところ、マルクス。状況はあんまりはかばかしくないんだ。ねえ、明日の公開討論のことはきいているだろう。」

「ああ、少し。」マルクスは答えた。「それでここに立ち寄ったんだ。もうちょっといろいろ知りたくてさ。」

彼はヨハン・ブロトゥリーを見て、そして続けて言った。「爺さんが今日の午後、チューリッヒから帰宅途中に、僕の所に立ち寄ったんだ。爺さん、かなりがっかりしてた。ウルリヒ・ツヴィングリにひどく失望したらしいんだ。」

「その気持ち、分かるな。」ヨハン・ブロトゥリーは言った。虚空を見つめる彼の声色には悲しさがにじんでいた。

「僕もツヴィングリにはがっかりした。それはコンラード・グレーベルやフェリクス・マンツにとっても同じだった。僕らは皆、同じ失望感を味わったんだ。一年前まで、僕らはツヴィングリに多大なる信頼を置いていた。彼は偉大な教師だったし、他でもない彼を通して、僕らは聖書を学ぶようになったんだ。

「ツヴィングリは当初、カトリック教会と袂を分かち、その代わりとなる新しい教会――そう、神の教会を建て上げることにひたすら情熱を注ぎ込んでいる感じだった。すごくいい出だしを切っていたんだ、ツヴィングリは。もし彼が一貫性をもって、自分の信条に忠実に生きてさえいたら、今頃彼は立派にやり遂げていたはずだよ。」

コツコツ叩いていた指を止めて、フリードリー・シュマッヘルは、ヨハンを見た。「つまり、ウルリヒ・ツヴィングリは、自分の主義に従って生きていないってことなのかい。」彼は尋ねた。

元牧師は、立ち上がった。「残念ながら、まさに、その通りなんだ。」と彼は言った。

「幼児洗礼が神の前に忌むべきことだって、ツヴィングリは内心、知っていると思う。彼はミサが偶像礼拝に他ならないことを知っている。それなのに、彼は相も変わらずミサを執り行い、赤ん坊に洗礼を授けているんだ。」

マルクスはうーんと頭をかしげた。彼には全く理解できなかった。何が何だか訳が分からないのだ。
「もし、あんたの言う事が本当なら、、」フリードリーは声を上げた。「なぜツヴィングリはミサをやめないんだ。」

「なぜかって?」ヨハン・ブロトゥリーは答えた。

「それには訳があるんだ。ツヴィングリは自分が新しいスイス教会の指導者になるなら、己のなすことに気をつけなくちゃいけないことが分かっているんだ。つまりチューリッヒ市の参事会とうまくやっていく必要があるんだ。だから、彼はゆっくりと改革を進めていかなくちゃならない。そうしないと人がついてこないからね。」

ブロトゥリーは指でトントンと打ち、続けた。

「ツヴィングリがカトリック側と盛大に討論を戦わせて、もうかれこれ一年以上経つ。当時すでに、教会の中に聖画を置くのがどんなに間違っているか、なぜミサが取り止められなければならないのか皆口々に言っていた。『チューリッヒ参事会は即効、ミサを廃止するだろう』とツヴィングリは見込んでいたはずだ。ところがだ。参事会がまだその段階に至っていないことに気付いた彼は、一転して、彼らと歩調を合わせ始めたんだ。」

「コンラード・グレーベルが初めてツヴィングリと意見が合わなくなったのは、その時だったのかい。」フリードリーが尋ねた。
「そうだ。コンラードが立ち上がって、『これ以上ぐずぐずすることなく、ミサは廃止されるべきだ。』と言ったのを今でも鮮明に覚えているよ。」

「それじゃあ、君もその場にいたのかい、ヨハン。」マルクスは尋ねた。
「ああ、僕もいたよ。あの日の討論は、そうすぐに忘れられるようなものではないよ。」
「それで、ツヴィングリは何て言ったの。」一段と興味をもったマルクスは尋ねた。

「ツヴィングリが何て言ったかって。ああ、彼は立ち上がって、こう宣言したんだ。『ミサについては、参事会が決断を下すことになっている。』とね。

「ただそれだけだった。でも、僕らの良心が、ツヴィングリの決定に同意することを許さなかった。それで、シモン・スタンフが大声で言った。『ウルリヒ師よ。市参事会にこの問題を決定させるままにしておくのは間違っています。この件に関してはすでに決定がなされているのです。そう、神の御霊が決定されるのです』とね。」

しばしの間、靴屋にいた三人の男は黙っていた。そうして後、マルクスは尋ねた。
「シモン・スタンフはその後どうなったんだい。彼はまだ一緒にいるのかい。」

「いや。」ヨハンは答えた。「彼は州から追放処分を受けたんだ。その後彼がどこに行ったかは定かじゃない。」

フリードリー・シュマッヘルは槌を取り上げた。「それじゃあ、ウルリヒ・ツヴィングリは未だにチューリッヒ参事会がミサ廃止法案を通過させるのを待っているっていうことかい。」

「そう。未だに待っている。」
「その討論以来、ミサは間違っているって教えていながら、彼は相も変わらず、チューリッヒの自分の教会では、ミサを執り行い続けているってわけか。」
「その通りだ、フリードリー。」

フリードリー・シュマッヘルは背筋をのばした。「俺は一介の靴職人にすぎないし、読み書きさえできない。でも、やっぱり、人は自分の信じているところに従って、一貫性をもって生きるべきじゃないかって思うよ。」

マルクス・ボシャートは同意してうなずいた。「僕自身、あんまり宗教的な男じゃないし、そういう事に関して、これまで宗教的だったためしがなかった。でも僕の爺さんはそうじゃない。そして僕はそういう点で、爺さんを尊敬しているんだ。ホッティンガー爺が、自分の教える事とは裏腹な生き方をしているとは誰もいえないと思う。」

「まさしく、その通り。」ヨハン・ブロトゥリーはうけあった。
「ヤコブ爺さんは、いい人だ。そして、それはゾリコン村の皆が知るところだ。でもまあ、正確に言えば、ほぼ全員かな。」と微笑しながら言い直した。「ツヴィングリとの不一致の件で、彼はコンラード・グレーベルやフェリクス・マンツの側についただろう。それ以来、あんたの爺さんは何人か友人を失ってしまったからね。」

「ところで、ヨハン。」マルクスは言った。
「爺さんはグレーベルやマンツのことをしきりに話しているんだけど、僕はまだ一度も会ったことがないんだ。実際、彼らはどんな人達なのかい。」

「二人は、ごく普通の若者だよ、そして教養人だ。コンラードの父親は知っての通り、参事会の議員だ。グレーベル家というのはかなりの名門なんだ。コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツは、一年ほど前まで、ツヴィングリの忠実な弟子だった。でも彼への信頼を失ってしまって以来、二人は聖書をさらに学び、教会がいかにあるべきかについて教えたり、説教したりしているんだ。」

☆☆☆
夕暮れ時の家

日がとっぷり暮れかかっていた。フリードリー・シュマッヘルはランプに灯りをともそうと腰を上げた。彼は暖炉に切りたての薪をくべ、そこから赤々と燃えたそぎを取り出し、それでランプを灯した。部屋は、くすぶった灯心の鼻を突く匂いでいっぱいになった。

「さっきまで話していた、例の公開討論のことだけれど」とマルクスは言った。「明日、開かれるんだったかな。」

「そう。」ヨハンは答えた。「グロスミュンスター教会っていう、チューリッヒにあるツヴィングリの教会で開催されるのさ。」
「今回は何についての討論なんだろう。またミサについてなのかな。」

「いいや、今回は洗礼についてなんだ。」とヨハンは説明した。

「チューリッヒ参事会が言うには、新生児は皆、生後八日以内に洗礼を受けなくちゃならないと。でも、そんな事は聖書のどこにも書かれていない。それで、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツは、『人は道理をわきまえる年齢に達し、自分の罪を悔い改め、新生するまでは洗礼を受けるべきではない』ということを示そうとしているのだ。

「幼児が洗礼を受けるべきなどと、キリストは一度たりとも仰せられたことはない。そうではなく、神のために新しい人生を歩み始めた者だけが、洗礼を受けるべきだと聖書は教えているんだ。」

マルクスは額にしわを寄せた。
幼児に洗礼を施さないという考えは彼にはまだ新奇なものだったが、ヨハンにはすでに、その事に関するかなりの確信があるようだった。幼児が洗礼を受けるべきという教えは本当に聖書にはないのだろうか。

「もし聖書がそれほど明瞭に言っているのなら、、」マルクスは思い切って言ってみた。「グレーベルやマンツは幼児洗礼が間違っているって、参事会側に示せるはずだ。」

「ところがね、参事会はそう示してもらいたくないのだよ。」ヨハンは言った。

「実際、最近までウルリヒ・ツヴィングリは、幼児洗礼が聖書では教えられていないこと、そして信じた男女だけが洗礼を受けるべきだってことを認めていたんだ。ところが、この点でも彼は自分の信念に従って生きることをしていないのだ。」

「明日、チューリッヒに行くのかい、ヨハン。」フリードリーは尋ねた。この時までに彼は靴を脇の方に置き、会話に全神経を集中していた。

「行きたいと思っている。」ブロトゥリーは言った。
「爺さんは、グレーベルもマンツも雄弁な人だって言っている。」マルクスはまたもや言い始めた。「多分、参事会はツヴィングリの側に非があるって気付くんじゃないかな。」

ブロトゥリーは、希望無しといった風に手のひらを上に向けた。

「君はまだ若造だね、マルクス。」彼は言った。
「これから、いろいろ学ばなくちゃなるまい。そうさね、参事会は何が正しく、間違っているかで決めるわけじゃないんだ。そうじゃなく、何が彼らにとって一番都合がいいのか否か、で決めるんだ。つまり御都合主義だ。『もし幼児洗礼が行なわれなくなったら、チューリッヒはどうなってしまうのだろう』というのが、彼らの懸念している事であって、『聖書はどう教えているか。』ということは、実のところ問題じゃないんだ。」

マルクスが何も答えないでいると、ヨハンは続けて言った。
「まだ私の言わんとしていることが分からないかな。新約聖書の言っている教会は、僕らが慣れ親しんでいる国教会とは違うんだ。教会は、罪を悔い改め、聖い生活をしている信者から成り立っていなければならない。その他の人々は誰といえども、キリスト者の教会に属することができないんだ。」

「それは、自分たちの生まれ育った国教会とは確かに違うね。」フリードリーは言った。

「ああ、違う。」と元牧師は続けた。「カトリック教会、そして今はツヴィングリの教会もそうだけれども、彼らは政府と一緒になって、民衆を強制的に教会に所属させている。赤ん坊、泥棒、酔っ払い――みんな教会に所属しなければならない。そしてそういう教会を運営していくには、参事会が法令を作ったり、施行したりする必要がある。そして幼児洗礼を授ける必要もね。」

フリードリーは再び口を開いた。「それで、去年の六月に子供が生まれた時、その子に洗礼を授けないでいたら、僕は裁判所に引っぱっていかれて、すぐに洗礼を施すように言い渡されたんだ。」

「覚えているよ。」マルクスは言った。それから義兄の方を向いて、からかい調子で言った。
「それで君はどうしたんだっけ。おとなしく降参して、子どもに洗礼を施したんじゃなかったかい。」

フリードリーは目を伏せた。「も、もちろん。」彼は認めた。「それ以外に何ができたっていうんだ。」
「フリードリー。」ブロトゥリーは温かくも、断固とした調子で言った。「僕が君に望んでいたように、君は洗礼を拒むこともできたはずなんだよ。」

店内に続く居間のドアが開き、シュマッヘルの奥さんが現れた。
彼女は血色の良い三十代の女性だった。片方の手に彼女はお盆を持ち、もう片方の手で赤ん坊を抱えていた。彼女は夫の前のテーブルにお盆を置くと、湯気の立ったホット・ミルクを三つのカップに注いだ。

フリードリーはカップをヨハンとマルクスにそれぞれ手渡した。そして彼はゆっくりと自分のマグから飲んだ。そうするうちにも、赤ん坊の足に手を伸ばし、ふざけて引っ張った。赤ん坊はきゃっきゃっと笑った。

「ルディー坊、大きくなったなあ。」そう言って、喜ぶ赤ん坊を見ながら、マルクスは笑った。
「たった今、自分のことが噂されたって分かったのかな。」

赤ん坊は伯父マルクスの声のする方を向き、恥ずかしそうに伯父に笑いかけた。それから顔を母親の肩にうずめた。

シュマッヘル夫人はお盆を手にして立っていた。「レグラは元気にしていますか。」夫人は尋ねた。

「ああ、彼女は元気だよ。」マルクスは答えた。「それにあなたのお父さんもお元気だ。お義父さんは明日チューリッヒに行かれる予定だ。」
「えっ、父が。」
「そう。昨年の秋に売ったブドウの勘定書のことか何かで行かれるらしい。」
「あら、そうですか。」そう言い残して、フリードリーの奥さんは中座し、部屋を出て行った。

ヨハン・ブロトゥリーはミルクの泡を口からぬぐい、言った。
「さっきから言っているように、コンラード・グレーベルやフェリクス・マンツといった人にとって先行きはあまり明るいものじゃないだろうな。いや、僕自身にとっても。僕らはツヴィングリのことで心底失望したんだ。彼がやがて僕らの群れに加わり、指導者となって、新約聖書の教会を始めるって、皆期待していたんだ。でも、彼がそうしないとなったら、、、じゃあ、僕らはどうすればいいのだ。シモンのように僕らもみんな、州を去らなくちゃならなくなるかもしれない。ただ、、、ただ、、、」ブロトゥリーはためらった。

「ただ、何なんだい。」フリードリーが尋ねた。
「ただ、私らがあきらめない限りにおいては、なんだ。」
「もちろん、あきらめるわけないさ。」フリードリーは反論したが、そういう自分自身、つい最近、泣き寝入りしてしまったことを思い出し、ランプの明かりの下に彼の丸顔は赤くなった。

「でも明日の討論会になにがしかの希望を見出してもいいんじゃないかな。まだ僕には納得がいかないよ。」若者らしい活気でマルクスは口をはさんだ。

「もし、どちらの側が正しいのかを決めるのがこの討論会の趣旨じゃないのなら、そもそも討論会を開くこと自体、無意味じゃないか。」

「残念ながら、まさにその通りなんだよ。」ブロトゥリーはきっぱりとした調子で言った。
「もうすでに参事会は決定を出しているのだよ。どれ、彼らの出した討論会告示を読んであげよう。そしたら僕のいわんとしている意味が分かるだろう。」

ブロトゥリーは長い指をポケットに押し込み、折りたたんだ一枚の紙を取り出した。彼は紙を開き、ランプの光の下で読み上げた。

                           参事会布告
                                       1525年1月12日
   「『幼児には、分別をわきまえることのできる年齢に達するまで洗礼を施すべきではない』と誤謬の教えを説いている   者たちがいる。この事態に対処すべく、市長ならびにチューリッヒ市参事会は、上記の者たちに対し、今週の火曜日、   市庁に出頭するよう、そして真正な聖書を基に、その見解や意図するところについて公に意見を表明するよう、ここに   公示を出す。その後、議員各位の判断により妥当とされるならば、さらにその問題を検討してゆくつもりである。


「ほらね。」紙をポケットにしまい込みながら、ヨハン・ブロトゥリーは言った。
「私らがいかさま教師だって彼らはすでに決めつけているのさ。こういう状態で討論したって、何の意味があるだろう。」

「もしかしたら、君は議論で彼らに打ち勝てるかもしれないよ。」フリードリーは言ってみた。
「さあ、その可能性はほとんどないね。」ブロトゥリーは結論付けた。

それからしばらく、三人の男は黙って、考え込んでいた。暖炉の火がパチパチ音を立てていた。と、煙突からの逆気流で、煙が勢いよく部屋に入ってき、ヨハン・ブロトゥリーはくしゃみをした。

だしぬけにマルクス・ボシャートは、腰掛けから飛び上がった。「ああ、もう家に帰らなくては。」彼は言った。「レグラが、僕の帰りが遅いって心配しはじめている頃だろう。」

そう言いながら、彼は外套を着、急いで外に出た。「おやすみ。」彼は大声で呼びかけたが、風が吹きつけ、バタンと閉まったドアの音にその声はかき消されてしまった。

マルクスは雪で滑りやすくなった所を避けながら、急ぎ足で家に向かった。

ふと湖を見下ろした彼は、その光景に息をのんだ。太陽は、かなた遠くの丘陵の後ろに滑りこんでいたが、西の空はまだ明るく照らされていた。ひとすじの雲がピンクや朱色に染まり、その全体が湖の表面に反射されていた。日々、岸から内へ内へと凝固していく氷層、そして氷層の向こうにチューリッヒ湖の波立つ水をみわけることができた。

スイス冬の日の入り


それからマルクスの視線は北の方にある、暗い雪雲に引き付けられた。
雪雲の影の黒い部分を見ると、じめじめした風が余計に寒く感じられ、マルクスは外套をぎゅっと引き寄せた。雲の真下には、チューリッヒの街が広がっていた。

薄暮の中で、四マイル離れた所にある、街の明かりがいくつか見えた。そしてグロスミュンスター教会にある塔鐘からゴーンと深く響く音がきこえてきた。

歩きながら、マルクスはさっき話していたことを思い巡らしていた。

この世の中には人を混乱させるようなことが山ほどある。でも、僕はそういうものに巻き込まれはしない。
僕は何といっても一介の農夫にすぎない。そう、ブドウ栽培に従事している、しがない一農夫だ。それに僕は、結婚してまだ三カ月目の新婚だ。女房を支えてあげなくちゃならないし、心配することはたんとある。

マルクスはもう一度、街をおおう黒雲を見た。
ヨハン・ブロトゥリーによれば、この街の上にさらに陰鬱な影が覆うようになるという。
でももし宗教の嵐がチューリッヒに吹き荒れるようになったらどうなるのだろう。

「なるようになればいいさ。」マルクス・ボシャートは思った。
「所詮、自分の人生には関係ないことだ。僕は宗教的な人間じゃないんだから。」

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 第2章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

目次 歴史小説(キリスト教) 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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