第ニ十八章
   コンラート、マンツ、ブラウロック、決死の伝道集会を行なう



sakura3.jpg

赤ん坊の洗礼後、マルクスとレグラは、自分たちの生活が――1年前とほとんど変わらない――元の日常に戻ったのを感じた。初めのうち、村の教会にまた戻って、ビレター牧師の説教を聴くのは変な感じがしていたが、次第にそれにも慣れ、また昔の時と同じようになった。

週を経るごとに、マルクスの良心の呵責は、前ほど執拗ではなくなっていった。マルクスは自分の思いをできるだけブドウの収穫に向けようと努め、――今まであったこと、そして今も自分の胸にくすぶっているかもしれないこと――から、あえて目をそらそうとした。

それでも時々、日常生活のふとした事がきっかけで、夏の間の伝道、兄弟たちとの親密なクリスチャンとしての交わり、教会のビジョンのことなどを思い出すことがあった。

そうすると、良心が再びうずき始め、マルクスはみじめな気持になった。沈黙を保つことにした事で、自分は神に、そして聖霊に対して罪を犯したのだろうか。もちろん、神は理解してくださるだろう、そして自分の弱さを大目に見てくださるだろう。

しかしグリューニゲンから時折は入ってくる知らせ――アナバプテスト運動の成長している様子や、そこで多くの人々が洗礼を受けている――といった便りほどマルクスの心をかき立てるものはなかった。

ゾリコンではすでに日が沈んでしまったのかもしれないが、グリューニゲンでは日光がまださんさんと輝いていた。

マルクスはグリューニゲンに行きたくて仕方がなかった。――そこで兄弟たちと共に礼拝を捧げ、コンラート・グレーベルの説教を聴きたかった。

しかし彼は躊躇した。というのも、自分がグリューニゲンに赴くなら、チューリッヒとの間で問題が起こるのではないかという懸念があったからだ。しかしそれ以上に彼をとどまらせている深い理由があった。そう、彼はコンラート・グレーベルに合わせる顔がないと思っていたのである。

「とはいえ、いい機会が訪れ次第すぐに、僕は向こうに行こうと思っている。」マルクスは妻に話していた。

☆☆☆

その機会は十月の初めに訪れた。

その月の七日目のことであったが、予期せぬことが起こったのだった。なんとフェリクス・マンツが釈放されたのだ!その知らせはすぐにゾリコンに入ってきた。

ある人の言うところによれば、参事会のある有力な一派がアナバプテストに対してより寛大な処置を取るよう取り計らったという。この一派は他ならぬヤコブ・グレーベル議員――コンラート・グレーベルの父親――に率いられていた。

マルクスは驚き、そして歓喜した。彼の心は希望でふくらんだ。
「ねえ、聞いたかい?」家に駆けこみながら、彼はレグラに叫んで言った。

「フェリクス・マンツが釈放されたんだって。そして聞くところによれば、彼はグレーベルに合流するため、グリューニゲンに行ったらしい。」

それを聞いたレグラもある程度は興奮していたが、しかし夫ほどではなかった。
「そ、、、それが私たちにとって何か意味を持つのかしら。何か影響があるのかしら。」

「あるかもしれない。もしかしたら、グリューニゲンの兄弟たちは、僕たちが挫折してしまった点を、うまく乗り越えてくれるかもしれない。それに参事会は僕たちに対するより、彼らに対して、もっと寛容であるしね。」

レグラはまだ腑に落ちない顔をしていた。「でもグリューニゲンは私たちの村よりチューリッヒから離れているわ。そのせいで、参事会は措置により時間がかかるんじゃないかしら。」

「でもフェリクス・マンツは釈放されたんだ!信じられないよ。」

「もしかしたら、参事会はマンツにもう一度機会を与えたいだけなのかもしれないわよ。もし彼が今後も説教や洗礼式を続けるなら、それこそ参事会に、彼を処刑する口実を与えてしまうことになるじゃない。」

「レグラ!」マルクスは彼女を叱った。

「物事をそういう風にいつも悪くとるもんじゃない。参事会議員の内の何人かは兄弟たちに対し、より寛容な姿勢をみせているってことを僕はかなり前から知っているんだ。

ヤコブ・グレーベル議員はアナバプテストじゃなく、息子のしている事に反対もしているけど、彼は『火あぶり刑や打首刑を行ったって、参事会にとって何の得るところがあろうか』と言って反対しているんだ。そしてだ、ヤコブ・グレーベル議員はね、影響力のある人物なんだ。」

レグラは、夕食の準備のためニンジンを洗いながら、黙々と仕事を続けていた。

マルクスは続けて言った。「明日は日曜だ。明日グリューニゲンに行って、様子を見てこようかと思う。今向こうで何が起こっているのかすごく知りたいんだ。馬に乗って、朝早く出発すれば、向こうに遅くならないうちに着けるだろう。グレーベルもマンツもあそこにいる、それにおそらくブラウロックも、、、」

「でも危なくないの。」レグラは尋ねた。
「いや、大したことはないよ。それに少々の危険を冒したって行くだけの価値はあるよ。」

☆☆☆

翌朝、マルクスは馬に乗って着々とヒンウィル村へ向かっていったが、低地の牧草地には白霜の筋が残っていた。丘の斜面のモクマオウの木々は紅葉していた。リスは木をちょこちょこ上り下りし、口にドングリをくわえて、石垣の間を走り回っていた。

朝の新鮮な冷気で、馬は力を得、元気に走った。紅葉に敷き詰められた丘の道を、上に下に走っていったが、時には、急にガクンと大きく揺れることもあった。それで馬を急かせる必要は全くといっていいほどなかった。

ゴボゴボいう山の泉に近づくと、マルクスは馬を止めた。そこで馬は頭をかがめ、水を飲んだ。マルクスは馬から降り、自分も水を飲んだ。それから彼は再び馬に乗り、岸を駆けのぼって進んで行った。

ヒンウィル村に近づくと、道は村に向かう男女でごったがえしていた。大部分は徒歩だったが、中には馬に乗っている者もいた。農民たちの集団の横を通り過ぎながら、マルクスは彼らに会釈した。

村はもう、そう遠くないようだった。馬を御して角を曲がると、別の集団がみえた。背の高い男がすぐにマルクスの注意を引いた。この男の歩き方には何かしら見慣れたものがあった。あ、あれはゲオルグ・ブラウロックだ!

馬を急がせ、マルクスはすぐにこの集団に追い付いた。そう、確かにそれはブラウロックだった。マルクスは皆と一緒に話そうと、馬から飛び降り、勒でもって馬を引いていった。

ゲオルグ・ブラウロックは一目でマルクスを見分けた。

歩みを進めながら、ブラウロックはこの日の予定について話した。

「今日は後にまでも記憶に残る日曜になるだろう」と彼は断言した。「コンラートとマンツは村のどこか向こう側にある牧草地で今朝、野外集会を開くと皆に呼び掛けている。二人がそこで集会を開く間に、僕はヒンウィルの教会堂で少し話をするつもりだ。」

これを聞いてすぐにマルクス・ボシャートは、例の日曜日――うららかな春の日だった――にゲオルグ・ブラウロックとゾリコンの教会に行ったことを思い出した。あの日の記憶は心地よいものではなかった。

ゲオルグ・ブラウロックはそんなマルクスの不安を和らげようとするかのように重ねて言った。

「ゾリコンの教会で説教しようとした時とは状況が違うんだ。ここの人々はこぞって僕たちの教えに好意的なんだ。それにこれまでのところ、僕たちの働きを阻止しようという行政官側の動きもほとんどなかった。もし急げば、牧師が到着する前に向こうに着ける。それも僕たちにとって好都合だ。」

マルクス・ボシャートはその件に関し、大丈夫だろうかという不安感を完全には払しょくできないでいたが、とりあえず黙って、様子をみてみることにした。

彼らは村に入っていった。村教会のドーンドーンという鐘の音がきこえてきた。――ヒンウィルおよび周辺の人々に礼拝の時間を知らせているのであった。マルクスはあえて歩みを緩め、人々の後ろから教会に向かった。

彼は馬をつないだ。ブラウロックはすでに教会の中に入っていた。ためらいつつマルクスは戸の方へ歩いていった。ヒンウィルでは彼はよそ者であったが、それでもあちこちになじみの顔――六月にコンラート・グレーベルとここに伝道に来た時に出会った人々――をみつけた。

何人かは彼に気付き、会釈してきた。皆、親切だった。人々の心はすでに期待感に沸き立っており、マルクスは、「ブラウロックは前もって自分のやろうとしている事を予告しておいたのだろうか」と思った。

これは普通の日曜礼拝の集まり方とはわけが違う――会堂に入ってすぐに、マルクスはこう察した。まだ早い時間だったが、教会堂はすでに満員で、さらに人々が入ってこようとしていた。空席が見つからなかったので、マルクスは壁際に立った。辺りを見渡してみたが、牧師のハンス・ブレンワルドはどこにも見当たらなかった。

と、気がつくと、ゲオルグ・ブラウロックが説教壇に立って、話し始めた。彼の堂々とした体格とよく鳴り響く声は、会衆の注意を引いた。ヒンウィルの教会堂はシーンと静まり返った。

「この会堂は誰のものか?」ブラウロックは大声で言った。「ここは、神の御言葉の説かれる神の家であるか?もしそうなら、私は主の御言葉を宣べ伝えるべく、御父から遣わされ、ここに立っている。」

そう前置きしておいて、ブラウロックは説教を始めた。マルクスは熱心に聴いた。この大男はもとよりすばらしい説教者であったが、今日はまた格別だった。火のような言葉と情熱の限りを尽くして、彼はヒンウィルの人々に、罪を悔い改め、義なる神の怒りから逃れるよう警告した。

マルクスは、会堂の片方の側に立っていた。と、会堂の後方で何やら少しざわめく音がしたような気がした。振り向いた彼の目に見えたのは、牧師の姿だった。

牧師は今しがた到着したものとみえ、戸の内側に立っていた。ブレンワルド牧師はどういう行動に出るだろう。一瞬、牧師は会衆と共に、この雄弁な説教者のメッセージにわれ知らず引き込まれたようだった。

講壇からは言葉がよどみなくあふれ出ていた。会衆は静まりかえり、じーっと説教に耳を傾けていた。

やがてブラウロックは洗礼について話し始めた。大胆にも、彼は幼児洗礼のことを「悪魔のこしらえた巧妙なでっちあげだ」と言って論駁した。まだ物心のつかない赤ん坊に洗礼を授けなさいなどと述べている箇所は聖書のどこにもない、と彼は言った。そうではなく、洗礼というものは常に、《信じる》という行為に結びついているのだ、と。

ブレンワルド牧師がどんな反応をしているのだろうかと、マルクスは後方をちらっと見た。牧師はかなり動揺しているようだった。ブラウロックが息を継ぐ合間に、ブレンワルドは手を上げ、声を出した。

ゲオルグ・ブラウロックの説教はまだ終わっていなかった。彼は牧師の声に気付き、ブレンワルド牧師に質問を投げかけた。「あなたは幼児洗礼を擁護し、それを正しいとするのか。」彼は強い口調で尋ねた。

「そうだとも!」ブレンワルドも叫び返した。
「それなら、あなたは反キリストであり、人々を惑わしているのだ!」ブラウロックは強い口調で言った。

しばしの間、会衆は驚愕していたが、その後、ざわざわし始めた。でっぷり肥った男が牧師と何やら話し合っていたが、この男は断固とした様子で、群衆を押しのけ、前方に進んでいった。村役人に違いない、とマルクスは思った。この男のやろうとしている事は明白だった。彼はブラロックを逮捕するつもりなのだった。

人々はいやいやながら道を譲った。「同胞市民の方々に協力をお願いする。」役人は叫んだ。

しかし彼の受け取った答えは、反対の意を表するつぶやき声だけだった。
「この人を逮捕する権限があなたにあるのか?」誰かが叫んだ。

もう一つの声もそれに加わった。「そうだ、言ってくれ。彼を逮捕する権限があるのか?」

村役人は歩みを止めた。彼は額から汗をぬぐった。彼を囲んでいる二百人近い村人の間で、自分を助けてくれる者はただの一人もいないのか。人々の同情がゲオルグ・ブラウロックに寄せられているのは明らかだった。

村役人は動揺し始めた。急いで彼は回れ右をした。こぶしを打ちながら、彼は人々の間をかき分け、牧師の所に戻った。二人は一言、二言、言葉を交わすと、共に教会から出て行った。

ブラウロックは少し待ったが、その後、前よりも静かな口調で、再び説教を始めた。説教は、ブレンワルド牧師によって中断させられた箇所から、再開した。

牧師と村役人はどこに行ったのだろう。それは言わずとも明らかだった。二人は馬に乗って、五マイル離れた所にあるグリューニゲンの行政官のいる城へ援助を求めに行ったにちがいなかった。

もしそうだとすると、彼らは一時間以内に、ベルゲル行政官を引き連れて戻ってくるだろう。ブラウロックはその時までに集会を終わらせ、安全な場所に逃げることができるだろう。うん、きっとそうに違いない。

しかし相も変わらずゲオルグ・ブラウロックは御言葉を説き続けていた。そして聴衆は熱心に聴いていた。教える必要のあることが山ほどあったのである。

マルクスの不安はさらに募ってきた。ベルゲルは今にも現れかねないのに、依然として礼拝は続けられていた。

しかしついに、馬の足音が聞こえてきて、それはどんどん教会に近づいてきた。「ゲオルグ、命がけで逃げろ!」マルクスは叫びたかった。しかし言葉は一言も出てこなかった。ブラウロックは説教を続けていた。

今や行政官は戸口に立った。彼の傍には助手がおり、この二人の後ろには牧師と村役人がいた。ベルゲル行政官は、剣を高くふりかざした。説教は止んだ。

会堂はぎゅうぎゅう詰めだったため、この群衆を押し分けて前方に進んでいくのはとうてい無理だと行政官は見て取った。それで彼はより手ごろな方法を選んだ。「おい、前の方にいるお前たち」と彼は会衆に命じた。「あの詐欺師に手をかけろ。」

誰も動かなかった。会堂にはますます緊張が高まっていった。

ベルゲルの顔は怒りで真っ赤になった。「私はお前たちに命じているんだ。」彼は再び叫んだ。「あの男を捕まえろ。」

前方にいる、痩せた、しかし風格のある老人が答えた。「キリスト教徒として、我々が誰かを捕まえたり、暴力に訴えたりするのは、正しい事とは思えません。あなたがたには、ちゃんと部下がいるわけですし、それはあなたがたの責務で、私どものすべきことではありません。」

ベルゲル行政官はもう何も言わなかった。彼は戸口の所で待とうと後ろに下がった。

礼拝はすでに三時間近く続いていたため、ブラウロックはついに集会を閉じた。人々は列をなして後方の戸に向かい始めた。マルクスも外に出た。しかしそのまま家に帰ろうとしている人はほとんどいなかった。皆ブラウロックがどうなるのかと見守っていた。

会堂ががらんとなるや、行政官と助手は前方につかつかと進み、説教者を逮捕した。彼らがブラウロックの手を鎖でつなぎ、外に連れ出すのがマルクスにも見えた。てきぱきとベルゲルは、囚人に、助手の馬に乗るよう指図した。助手はブラウロックの脇を歩いたが、彼の持つ長い剣はほとんど地を引きずらんばかりだった。

ヒンウィルの街道を通り抜け、行列は進み出した。囚人の、牢城までの道のりは、孤独なものではなかった。大勢の人々が行政官たちの馬の後に続き、こうして彼らは町を抜け、田舎道を抜け、ブラウロックの後についていった。マルクスは自分もついていこうと決心した。

彼は行政官と囚人の方へもっと近づこうと前の方に押し進んだ。ブラウロックは背筋をまっすぐにして馬に乗っており、時折、彼の後についてきている人々に話しかけていた。近づくにつれ、ブラウロックがこう言っている声が聞こえてきた。「パウロとシラスが獄中で鎖につながれていた時、二人は主に賛美を歌ったんだ。」

そう言って、囚人は声高らかに讃美歌を歌い始めた。ほとんどの歌詞がマルクスにも聞きとれた。

     「やがて神は正しい裁きをなさりたもう。
     何人といえども、それを覆すことはできぬ。
     神の御心を無視する罪びとは、
     主の正しくも恐ろしい裁きを聞こうぞ。

     汝は慈愛に満ちておられる、ああ、神よ。
     汝はすばらしく、我々に対して
     まことに寛大であられる。

     この地で汝の御心に従う者を
     汝は御自分の子となしてくださる。

     キリストの内にあって我々は感謝の思いにあふれ、
     汝を褒め称える。
     汝は我々のいのちを永らえてくださり、
     すべての悪より我々を守り給う。」


街道を下るにつれ、人々はさらに押し寄せてき、馬や御者にぴったりと寄り添いながら道を進んだ。そして讃美歌は続いた。一行がべッツホルツという所に近づくと、マルクスは驚いて顔を上げた。なんと目の前の牧草地に、さらに大勢の人々が集まっていたのである。

「あれはグレーベルとマンツだ。」人々は口ぐちにささやいた。そうか、これが予定されていた午後の野外集会だったのだ。はからずも、行政官の一行はこれに遭遇したのだった。

集会はまだ始まっていないようだった。ベルゲル行政官はこの光景を一瞥し、すぐさま状況を把握した。彼は向こうの、より大規模な人々の群れに向かって、馬を急がせた。こうしてすぐに、二つの群れは一つに溶け合った。

行政官は「静粛に!」と注意を促した。皆、彼の方を向いた。

「わが州の法の名の下に、命ずる。」ベルゲルは告げた。「今日の午後、ここでいかなる説教ないし洗礼式が行われることを禁じる。ただちに集会を解散し、各自は家に戻るように。」

マルクスはコンラート・グレーベルを見つけた。コンラートの横にはフェリクス・マンツ――長い獄中生活のため青ざめていた――が立っていた。

グレーベルは行政官の近くに歩み寄り、話せる距離まで近づくや、大声で言った。

「洗礼に関し、私たちは誰をも強制しません。しかし、もし誰かが私たちの所にきて、それを望むなら、彼を退けることは、自分たちにはできません。そして誰かが神の御言葉から、私たちに、より良い方法を示してくれるまで、私たちはこれを続行していくつもりです。」

ベルゲルは返答しなかった。自分の下した命令に人々が従うのかどうかと、彼は群衆をざっと見渡した。しかし彼の言ったことを誰一人きかなかったようだった。というのも、人々の去る気配は全くなかったからである。それどころか、フェリクス・マンツの指示に従い、人々は彼の前に集まり、芝生の上に腰を下ろし始めた。

コンラート・グレーベルはベルゲル行政官の元を離れ、マンツの所に戻っていった。そして説教を始めようとしていた。

行政官は――多くの男女に囲まれていたにもかかわらず――ひどく孤独で置いてけぼりにされたような気がした。我こそはこの地区の長官であり、人が投獄されるのも、釈放されるのも自分の言葉一つにかかっているのだ。それなのに今日、自分は完全に無視された状態にある。

グリューニゲンの農民たちはあえて行政官に不服従の態度をみせていた。コンラート・グレーベルとフェリクス・マンツはといえば、やるなと命じた行政官の面前で、落ち着いて説教や洗礼式の準備を始めていた。

この騒ぎのさなか、馬の上の囚人ブラウロックはほとんど忘れられていた。彼は同胞の兄弟たちに呼びかけ、二人は大声で彼に激励の言葉を送った。

ヨルグ・ベルゲルはえいっと馬を急がせた。彼の顔はこわばっており、群衆の間を抜け、道を抜けて近郊の村に向かう彼の動向には、ある決意のようなものが感じられた。二番目の馬にまたがっていたゲオルグ・ブラウロックは、両手を縛られていたため、体で鞍にしがみついた。

こうしてマルクス・ボシャートとヒンウィルからやって来た人々は、この日、二番目のアナバプテストの説教を聴こうと腰を下ろした。

neustadtgasse Felix born and raised
(↑フェリクス・マンツの生まれ育った通りです。グロスミュンスター教会の近くにあります。マンツたちの聖書研究会もここで始まりました。)

☆☆☆

こうして集会は始まった。

コンラート・グレーベルが最初に説教し、その次にフェリクス・マンツが説教したが、マルクスはヨルグ・ベルゲルのことも、囚人のこともほとんど忘れて一心に聴き入った。昼さがりであったが、豊かな霊的祝福が礼拝者の間に流れていた。

説教を聴きながら、マルクスは心の中で、「これこそ真理だ」と認めずにはいられなかった。自らも聖書の学びをしていたため、彼は、この説教が新約聖書から直接語られているものであることが分かった。

グレーベルは敵を愛することについて語っていた。「キリスト教徒は善をもって悪に答えるのだ」と彼は言った。

迫害の最中にあっても喜んでいなさいという事を語った際に、彼はゲオルグ・ブラウロックの名前を挙げ、彼が獄にあっても忠実であり続け、くじけることのないよう祈りましょうと会衆に呼び掛けた。

マルクスは三か月前の自分の獄中生活のことと、その結末を思った。激しい後悔の涙があふれ、頬をつたって流れ落ちた。

とその時、「やって来たぞ!」という叫び声が起こった。マルクスは見上げた。

――馬に乗った五、六人の官憲たちが、銃や剣を片手に、群衆を包囲し、説教者たちの立っている座の中心に突き進もうとしていた。叫び声を挙げながら、馬に乗った官憲たちは前進してきた。人々は彼らの前に追い散らされた。

「あいつだ。奴を捕えよ!」コンラート・グレーベルの方を指さしながら、官憲の一人が叫んだ。

一瞬にしてグレーベルは捕縛された。彼の両手は後ろ手に固く縛られた。騎手たちは群衆の中にフェリクス・マンツを見つけ出そうとしたが、彼の姿はすでにどこにもなかった。

フェリクスのことでマルクスはほっとした。なにしろ、フェリクスはつい昨日釈放されたばかりなのだから。しかし今日起こったことを思った時、彼の心は沈んだ。グレーベルもブラウロックも囚人となってしまった。

――もしや今後、チューリッヒは兄弟たちに対し、もっと寛容な処置を取るようになるのではないか――という彼の望みはこなごなに砕けてしまった。

行政官のおこなったことは明白だった。近郊の村オティコンで、彼は自分に忠実な男たちをかき集め、アナバプテストの指導者たちを捕まえるべく、彼らをこちらに送り出したのだった。

コンラート・グレーベルはグリューニンゲンの城内にある牢獄へ連行されるべく、馬に乗せられた。こうして一日のうちに二回も、マルクスは自分たちの指導者が牢獄へと引かれていくのを目撃したのだった。

打ちひしがれ、また疲れ切って、彼はヒンウィルの方へ戻って行った。彼の感情はほぼ限界点にまできていた。説教を聴いたことで、「何が正しい事で、僕はいったい何をなすべきか」という彼自身の魂の葛藤が新たに呼び起こされたのだった。

あれほどまでに多くの人々が救いを求めているという驚異的な現実を目の当たりにし、彼は感動した。しかしその一方で、そのうちでどれだけの人がツヴィングリおよび参事会に立ち向かい、最後まで忠実であり続けられるだろうかと思った。

彼の馬はヒンウィルにおいてきてあった。村に着いた頃には太陽はだいぶ沈んでいた。少なくとも馬は休息をとり、家までの距離を走るに充分、元気になっていた。長い道のりであったが、幸い、今夜はほぼ満月で、気候も良かった。

一時間後、家に向かいつつあったマルクスは、途中、グリューニゲンの町を通過した。町はずれには、高く古びた城がそびえ立っていた。そして、その城は、前方の西空を背景に浮かび上がっていた。

太陽はすでに丘の向こう側に沈んでしまっていたが、光の筋はまだ残っていた。マルクスの後ろには、まん丸い月がのぼっていた。

ほの暗さの中で、城は不気味なほど巨大にみえた。マルクスは馬を止め、かなり長い間、石とモルタルでできた城壁を見つめていた。父親が行政官だったコンラート・グレーベルはこの城の中で、なんの屈託もない少年時代を過ごしていたのだった。

そのコンラートが今、城のどこか奥まった所にある、暗い独房の中に閉じ込められているのだ。その隣の独房には、おそらく、ブラウロックがいることだろう。

去ろうとしたマルクスは、城の正面側の部屋から光がこうこうと洩れているのに気付いた。そこはベルゲル行政官の公務室にちがいない。

ものうげに、マルクスは馬に触れた。馬はゆっくりとしたペースで走り始めた。

マルクス・ボシャートは最後にもう一度城の方を振り返った。だが、今、城の中で実際、何が起きていたのか、それは彼の知るところではなかった。

――そう、ヨルグ・ベルゲルはまさにこの瞬間、チューリッヒの上司宛に手紙をしたためていたのだった。そして、今日、ヒンウィル教会で起こったこと、グレーベルおよびブラウロックの逮捕のことなど一部始終を書き記したのだった。

「まことに、格別な一日でありました」とベルゲル行政官は手紙を締めくくった。

スポンサーサイト

第29章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第27章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。