第三十章
   迫りくる迫害の嵐


チューリッヒでの一大討論会が終わって一カ月もすると、本格的な冬に入った。

風の激しいある午後、ふいに戸口に旧友ウリッヒ・ライヘネールが現れ、マルクスは驚いた。二人はあの日――マルクスの出頭命令をたずさえ、ウリッヒがフィンステルバッハの家にやってきた日――以来、会っていなかった。

「さあ、寒い中、立ってないで、中に入って」とマルクスは彼を家に招き入れた。「今晩は、ぜひともうちで夕食を食べていっておくれよ。」

それに対し、ライヘネールは全く遠慮する様子なく、どっかりと腰をおろした。「グリューニンゲンから来たんだ」と彼は説明した。「それで正直にいうと、僕はもうくたくたで、体もかじかんでいる。あったかい食事にありつけるなら、実にありがたいね。」

しかし、彼の来た本当の理由は、何か話すためであることをマルクスは知っていた。

「グリューニンゲンは、まだ混乱をきわめているよ。」ウリッヒは話し始めた。
「あわれなベルゲル行政官は、心労でかなり参っているよ。夜もほとんど眠れないらしい。」

「それじゃあ、討論会を開催したけど事態が良くなったわけじゃないんだね」とマルクスは尋ねた。レグラが入ってきて、赤ん坊をひざに、腰をおろした。

「そう、良くはなっていない。当然ながら、アナバプテスト信者は満足おらず、参事会のやり方が不公平だったって言っている。」
「でも、、、兄弟たち、、、つまりアナバプテスト信者の数は今も増えていると思うかい。」

「もちろんだ!洗礼は未だに執り行われている。もっとも、ごくごく秘密裏にね。集会も開かれているけど、たいてい、見つからないように、夜間、丘の背後で行われているよ。」

「それに対して、ベルゲルはどういう対応をしているの。」マルクスは訊いた。

「うん、彼はアナバステストを片っぱしから捕えていて、牢城は囚人でほぼ満員状態だ。先週のある一日、彼は新しく裁判を開き、一人一人、牢から引っ張り出してきたよ。でも転向したのはその内でたったの13人だった。残りの90人は相変わらず、服従する気がない。」

「そういう情報をいったいどこから手に入れているの。」レグラは尋ねた。
ライヘネールはいたずらっぽく笑った。「コネですよ。ちなみに僕は昨夜、城内で寝たんですよ。」

「えっー、本当に!」マルクスもレグラもびっくりして叫んだ。

「そう、ライヘネールは僕のことをかなり買ってくれているんだ。まあ、彼は人を見る目があるってところかな。」ライヘネールは得意そうに胸を張って見せた。

「でも、君は、囚人を捕まえたりはしていないんだろうね。」友の方をじっと見ながら、マルクスは言った。
「いや、そういうわけじゃない。僕は、両陣営の友とつながりのある、いわゆる仲立ち屋だから。」彼は笑った。

でもマルクスにとって、それは冗談ではなかった。「君のいる立場って、かなり恥ずべきものじゃないだろうか。」彼は冷ややかに尋ねた。

「待って、そういう目で僕を見ないでくれよ」とライヘネールは反論した。「そういう君こそ、どっちの側に立っているんだ、マルクス・ボシャート。まずそれを僕に言ってくれ。」

マルクスはたじろいだ。どう答えてよいか分からなかったし、今はウリッヒに自分の気持ちを打ち明けない方が賢明なような気がした。

「昨晩、僕はベルゲル行政官と話したけど、彼はかなり参っている様子だった。

彼は僕に、『毎日、法廷を開くのは無理だ。でも、事態を処理するためには、そうせざるをえない。アナバプテストの連中の頑固さのせいで、白髪が増えていく一方だよ』と言っていた。彼は、非合法の集会にいったかどで、義理の弟さえも尋問しなきゃならなかったらしい。」

「ということは、指導者たちを投獄したところで、何ら解決にはならなかったってことだな。」

「そう。この運動の拡がる速度を落とすことはできるかもしれないけど、止めることはできないよ。」ライヘネールは同意した。
「この問題は結局、どういう風に落ち着くのかしら。」レグラはつぶやいた。
赤ん坊がクックといって喜んだ。

「どういう風に落ち着くか、ですか?」ウリッヒ・ライヘネールはためらうことなく答えた。

「この洗礼騒ぎのことを皆が忘れてしまうまでは、どこにも落ち着きはしませんよ。皆がこの件をすっかり忘れる、これしか問題解決の方法はありませんよ。アナバプテストはここらへんの現実をわきまえた方がいいと思います。」

「でも、この運動は成長しているんだ。」マルクスは反論した。

「グリューニンゲンをごらんよ。あそこじゃ、たいした騒ぎだ。大半の人は洗礼を受けたか、あるいはアナバプテスト支持者ときている。もしもかなりの人が、、」

「そういう可能性はゼロだね」とライヘネールは言った。

「そこまで数が増える前に、参事会は何らかの手立てを打つに決まっている。もしアナバプテストが全く武力を行使しないのであれば、数が増えたところで、何の益があるだろう。

銃を持った一人は、――応戦するのは正しいことじゃないと信じている――百人を支配することができる。だから、たとえ州の大部分がアナバプテストになったところで、何も事態は変わらないって僕はみているね。」

「まあ、そうだろうな。」力なくマルクスは認めた。

「でも、武力行使のことが念頭にあったわけじゃないんだ。いや、決してそういうつもりで言ったんじゃない。僕の考えていたのは、『もし、人々がツヴィングリについてきていないのに気がついたら、彼はあるいは方針を変えるかもしれない』ってことだったんだ。」

「そんな事あるわけない!」ウリッヒはうなるように言った。

☆☆☆

冬は相変わらず続いていた。チューリッヒ州にあれほどの激動をもたらした1525年という年は暮れ、1526年が新しく幕を開けた。一月の末が近づくにつれ、マルクスとレグラは、前の年に起こった出来事を思い出さざるをえなかった。

――最初の洗礼が執り行われ、教会の土台が据えられた、二月のあの興奮に満ちた週。牢での九日間。そしてゾリコンの農民たちの釈放後に起こった霊的覚醒の日々、、、

一年という間に、本当にいろんな事が起こった。

しかし今や、三人の指導者たちはいずれも獄中におり、釈放される見込みはまずないといってよかった。ゾリコン村の冬は、おおよそ静かだった。

唯一の例外は、ホッティンガー家の者が四人逮捕された日であった。どういう訳で捕まったのか、マルクスには見当がつかなかった。しかし聞くところによると、村役人ウェストがチューリッヒに通報したとのことであった。――この四人が未だに心の中ではアナバプテストなのではないかとウェストは疑ったのだった。

そういうことをしたために、村の中での彼の人気はさらに落ちてしまった。

マルクス自身も、幼児洗礼に反対するような言葉は一切誰にも言わないのが唯一の安全策だということを悟り始めていた。この題目はすでに御法度となっていたのだ。

官憲たちが家に来た時、爺さんは家を留守にしていた。マーガレットは捕えられ、彼女の兄弟であるルドルフとヘイニー、それからルドルフの息子ウリも逮捕された。

伝えられたところでは、彼らは塔の中の獄に監禁され、裁判を控えているのだという。同じ塔には、グリューニンゲンを始め、各州から連れてこられた囚人たちがいるともきいた。

日は経っていったが、チューリッヒからは何の音沙汰もなかった。ゾリコンでは何カ月かぶりに、静けさと安穏が村に戻っていた。チューリッヒ湖を横切る風は、丘陵に吹きつけ、雪の結晶は空を舞っていた。晴れ渡った日には、日光が明るくキラキラと輝いていた。

マルクスは、薪用に木を切り、それをそりに載せて、森林に被われた丘陵の下へ運んでいった。刺すような寒さのせいで、彼の足取りは弾んだが、心が弾むことは決してなかった。

「現状下では、これが僕たちにできる最善のことだ。」良心をなだめようと、彼はこう言って、何度も何度も自分に言い聞かせるのだった。

「僕たちが心の中ではどんなに信仰をもっているか神は御存じだし、もしかしたら、いつの日か再び、自分たちの信仰を公に出せるようになるかもしれない。」

ゾリコンではすべてが平常であったが、グリューニンゲンでは問題が増大していた。そのためチューリッヒの参事会は、一刻も怠ける余裕などなかった。ベルゲル行政官からの手紙にはこう書いてあった。

「この連中をおだてたり、なだめすかしたりすればするほど、そして彼らに寛大であればあるほど、事態はますます悪化するように思われます。従って、今こそ、真剣かつ断固とした手立てを打つ時がきているのです。我々は寛容策をもって対応してきましたが、それは功をなしませんでした。」

その結果、ツヴィングリの提案で、参事会はアナバプテストに対する、より強硬な新政策を打ち出すことにした。今回の政策は、けっして生半可なものではなかった。

――つまり、これ以後、誰であれ、人に洗礼を施した疑いのある者は、情け容赦なく、またさらなる裁判もなく、溺死刑に処される。よって何びとも心すべし、と。

こうした厳しい新政策に沿って、コンラート・グレーベル、フェリクス・マンツ、ゲオルグ・ブラウロックは再審を受けるべく、牢から引っ張り出された。六か月に渡る獄中生活で青ざめ、やせ衰えた三人は、尋問に答え、宣告を待った。

「これらの者たちは、強情に、誤った教えに固執して離れないため」と新判決が言い渡された。「新塔に戻された後、食物としては水とパンより他一切彼らに与えてはならない。また寝具としてはわらのみが供給される。

また彼らに給仕する看守は、誓いをした上で、誰をも面会に来させてはならない。死に、朽ち果てるまで彼らはこの獄中にとどまるべし。病の際にも、誰といえども、刑務所を変更する権利を持さない。」

他の者へのしかるべき警告とするべく、この判決文は、州内の村々に伝達され、人々の前で読み上げられた。そして新たな法令が告知された。兄弟たちに対するこのような過酷な政策が打ち出されたことを聞いたマルクスは、恐ろしさに身を震わせた。

何よりもマルクスを恐れおののかせたのは、ゾリコンのホッティンガー家の四人も、指導者たちと同じ判決を受け、例の塔に投獄された、ということだった。

しかし、もし彼が、――ウルリッヒ・ツヴィングリがセイント・ガルの友ヴァディアンに宛てて書いた手紙を読んだとしたら――、さらに恐怖で縮みあがっていたにちがいない。それにはこうしたためてあった。

「誉れ高き市長閣下。今日今しがた、二百人から成る参事会はアナバプテストの首謀者どもを再度、牢塔に入れることに決定しました。そこの獄中で、彼らは死ぬまで、もしくは、助命を請うてくるまで、パンと水だけで捨て置かれます。

さらに、今後、誰であれ洗礼を受けた者は、水の下に完全に沈んでもらうこと(=溺死刑)で合意がなされました!この判決案はすでに可決されました。

こうして、長い忍耐の期間は終わりを告げたのです。あなたのお義父様ヤコブ・グレーベルは、参事会に寛大な措置を取るようにと働いておられましたが、それも無駄に終わりましたね。」


☆☆☆

3月21日。凍てつく塔の監房での二週間――パンと水だけがあてがわれていた――を経て、ホッティンガー家の者たちはゾリコンに戻ってきた。

マルクスはこの知らせをきくや、すぐさま彼らに会いに行った。ホッティンガーの家に入ると、六人の子持ちのルドルフは、一人の子をひざに乗せていた。

喜びと悲しさの入り混じった表情――マルクスはこの心情が非常によく理解できた――が未だにルドルフの顔に残っていた。そう、彼は再び家族と共に過ごせることを喜んでいたが、その一方で、そうするために自らの信仰を否んでしまったことを内的に恥じていたのである。

「他の囚人たちのことも話しておくれよ。」マルクスは言った。「彼らの姿勢は今も変わっていない?」

ルドルフの顔は曇った。ああ、彼は自分の経験を話したくないのだな、とマルクスはすぐに気付いた。しかし、マルクスの度重なる質問に根負けしたのか、ルドルフはとうとう話し始めた。

「一つの監房に僕たち14人が収容されていた。寒い夜なんかは、お互いにぴったりと身を寄せ合うことでしか、温まるすべがなかった。

「マーガレット叔母の他に女性の囚人もいたかい。」マルクスは尋ねた。
「ああ、6人もいたよ。」ルドルフは答えた。「その内の一人はフェリクスの母親だった。彼女はあの状況下でも平安のうちにいた、とマーガッレットは言っていた。」

「女性は、男性と同じような残酷な待遇を受けたわけじゃないよね。まさか、そんなことはないだろう。」
「いや、同じだった。全く同様の待遇を受けていた。」

「それから三人の指導者たち、、、か、かれらは、、、飢えやら寒さやらで、うちひしがれているようなことはないよね?ね、そうだろう?」マルクスはこわごわとやっとの思いで訊いた。

ルドルフの長男である、十代後半になるひょろりとしたウリが部屋に入ってきていた。そして「いいや、全く、そんなことはなかった」と答えた。

ルドルフはさらに説明を加えた。「コンラートは何か書き物をしていて、他の二人は彼を助けていた。三人とも御言葉を僕たちに読み、説明してくれ、そして最後まで忠実であるようにと励ましてくれたんだ。」

「じゃあ、ど、、、どうして降参してしまったの。」

「もうあれ以上我慢できなかった。」ほとんど怒ったように、ルドルフは叫んだ。「あまりに悲惨な環境で、、、それに妻や子供たちが恋しくてたまらなかったんだ。」彼の目には涙がいっぱいたまっていた。

「最初のうちは、まだ耐えやすかったんだ」と息子が言った。「僕たちは努めて前向きに物事を考えようとしていた。――キリストの御名のゆえに苦しみを受けているんだってね。そしてそこに一致と連帯感があったんだ。でも、、、それから、、、それから、、、」

マルクスは、同情しながら、次の言葉を待った。

「それから後、僕たちはぼそぼそと転向の可能性について話し始めた。それで残りの仲間たちは皆かなり動揺し、僕たちを叱咤した。そのせいで、僕たちにはひとときも休まる時がなかった。」そう語る彼の顔には、当時の精神的緊張の形跡がみてとれた。

「でも、、、三人の指導者たちはこれから先も信仰を否むようなことはないって君は思っているんだろう?」マルクスは尋ねた。これはぜひとも訊かねばならない問いだった。

ルドルフは答えた。

「ああ、あの人たちはぜったいにへこたれないよ。彼らは、死ぬまであのひどい牢獄にとどまり続ける決死の覚悟ができている。それに彼らの余命も、そう長いことはないと思う。というのも、ああいう悲惨きわまる環境に置かれては、どんなに屈強な男でも病んでしまう。そして、三人はすでに冬の間中ずっとあそこにいるんだからね。」

こうしてマルクスはいとまを告げた。外に出ると、激しい凍雨が打ちつけていた。用心しながらマルクスは丘を下っていった。湖の上には灰色の空がひろがっており、風はますます強く吹きつけていた。今晩は嵐になるにちがいない。

その日の晩、寝る前に、マルクスは家畜の様子をみに小屋の方に歩いていった。風が強く打ちつけ、どこもかしこも氷で表面がキラキラ光っていた。「今晩、塔のあの監房は、さぞかし冷え込むだろう。」彼はつぶやいた。

しかしその塔の中で、その時、実際何が起こっていたのか、マルクスには知るよしもなかった。

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第31章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第29章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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