「健全な聖書信仰に立つ」ある著名な牧師先生が、他の女性と婚姻外の関係をもっていたことが理由で数日前に辞職したということを聞きました。

そして、この知らせをもたらしてくださった方は、次のような祈りの申請を出しておられました。

辞職したこの牧師は、神学的に健全であっただけでなく、相補主義に立つキリスト者でもありました。このような不祥事を聞くと、『その人の教え(神学)がどんなに正統であっても、人は倒れる可能性がある』ということを認識させられます。

私も指導者として立っていますが、みなさんにお祈りを申請します。どうか私が聖く生き、主に近く歩み続けることができるよう祈ってください。そして私が罪に陥ることがないよう祈り支えてください。



これを読んだ時、

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。1コリント10:12


の警告のみことばを思い出しました。

私たちクリスチャンは現在、自分の属する宗派や教理の体系などによって、何百にも、何千にも細分化されています。

でも私は思います。――この「罪」という問題を前にしては、クリスチャンに宗派も境界線も存在しないということを。

オーソドックスであろうが、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、福音派であろうが、聖霊派であろうが、牧師であろうが、信徒であろうが、男性であろうが、女性であろうが、「罪」というこの怪物を前にした時、私たちは皆、おそろしいほど「平等」ではないでしょうか。

皮肉なことかもしれませんが、その意味において、私たちは真に「超教派」ではないかと思います。

自分の罪を甘やかし、それを明るみに出さず、悔い改めず、ひそかに隠したまま生きるなら、私たちは遅かれ早かれ死にます。

みなさんはどうか分かりませんが、私の頭には、そして心には、常に四六時中、罪深い考えや思いが「よぎろう」としています。

でも私はそうしたくないのです。いつも聖い思いに満たされて主を見上げて生きていきたいのです。

それなのに、汚らわしい思いや肉の思いがスルスルと蛇のように私のうちに侵入してこようとします。

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。ローマ7:21



身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。1ペテロ5:8、9a



そのような時、私はつとめてイサク・ワッツのWhen I survey the wondrous cross (聖歌159 さかえの主イェスの)の歌詞を黙想します。

3.あおげや 茨を いただきたもう 主をみてより 
足より 血しおの したたる



私の罪というこの汚らわしく不潔で醜いものを取り除くために、極限の痛さや恥辱に耐えたこのお方を深く想う時、その時、御霊は私のうちで勝ってくださり、汚らわしい思いを亡きものにしてくださいます。

そして新たなる決意と意志を与えてくださいます。

心の中で、あるいは行ないにおいて
あなたに対して不忠実かつ不従順になるよりは、
むしろ、
この身の血を最後の一滴まで流すほど戦います。

魂の友なる主よ、
今こそわたしは完全にあなたのものです。
花嫁の清い愛をもって 常にあなたを慕います。

あなたの霊がわたしを決して去ることがありませんように。
あなたのゲッセマネの苦闘がわたしを支えますように。
然り、アーメン。

  ゲルハルト・テルステーゲンの祈り 1724年



主よ、どうか私たちのうちに巣食うどんな小さな罪の芽も見過ごさず、容赦しないでください。

それらをすべてをあなたの光の下にさらし、明るみに出してください。そしてその罪を悔い改め、断固としてその罪と縁を切る恵みを与えてください。

罪の誘惑に陥りそうになるその瞬間に、私たちが十字架につけられ血まみれになって苦しまれたイエス様を目の前にみることができますように。私たちが倒れず、立ち続けることができるように助けてください。

そして聖く生きることに対する熱烈な願いを私たちのうちにお与えください。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。






私は悲しみを知っている―エリザベス・プレンティスの信仰詩

ギリシア人青年ミハリス君の救いの証し(テサロニケ市)