第三十一章
   再び脱獄、そしてコンラートの死


何か胸騒ぎがして、マルクスは目を閉じ、眠ることができなかった。傍らでは、レグラと赤ん坊がすやすやと寝入っていた。おそらく、今晩の興奮で寝付けないのだろう。マルクスは、ルドルフ・ホッティンガーが語った獄中生活のことを思い巡らしていた。

マルクスにとって――ゾリコン出身の者が誰ひとりとして獄中生活に耐えられなかった――その事が彼の心を煩わせた。結局、いつもゾリコンの村人たちは転向してきた。それに比べ、他の州のアナバプテスト信者は実にしっかりしていた。彼らは信仰を否んだりしていなかった。それなのに、これまでのところ、ゾリコンの囚人は皆、いやいやながらではあれ、とにかく相手の条件を飲み、中途半端な約束をさせられた上で、釈放されていた。

しばしの間、マルクスはヨハン・ブロトゥリー――マルクスの心に幼児洗礼に関する疑問をはじめて植えた牧師――のことを思い出していた。ブロトゥリーこそ、重圧がひどくのしかかってきた時でも屈しない唯一の人だった。マルクスはその事に関し、確信があった。でも、ヨハン・ブロトゥリーもやはりゾリコンの生まれではなかった。おそらくそうだからこそ、彼の信仰は強いのかもしれない。

みぞれがカタカタと家に打ち付けているなか、マルクスは、未だにあの冷たい魔女塔に閉じ込められている囚人たちのことを思い、彼らが不憫でならなかった。
ゾリコンのホッティンガー家の者たちは、暖炉のそばで家族とだんらんしている。しかしその一方で、イエス・キリストにある信仰を否まなかった囚人たちは、――今も塔の中におり、おそらく寒さに震え、わらの中でお互いに身を寄せ合っていることだろう。

ええい、とマルクスはこういった考えを締め出そうとした。もう寝なくては。そうじゃないと、明日の仕事が手につかなくなってしまう。もうすでに夜半を過ぎている。彼はあくびをしながら、体を伸ばし、あれこれ考えまいとした。

でもダメだった。いろんな思いが彼の頭の中を駆け巡りつづけた。――石造りの高い四角の塔、狭く仕切られた窓。そして、窓にはみぞれが冷ややかなリズムで打ちつけていた。次に彼の脳裏には、獄中生活を語るルドルフ・ホッティンガーの苦悩に満ちた顔が浮かんだ。乾パンと水。床の上のわら。軒のまわりをキーキー金切り声をあげながら吹きすさぶ風。マルクスは羊毛のかけ布団を顎の下にぎゅっと引き寄せた。

と、その時、戸口の方で音がした。最初は小さな音だったが、次第にはっきりしてきた。「変な風だな」とマルクスは思い、寝返りを打った。「いや、待てよ。これは風の音なんかじゃない。」

そう、それは誰かが戸を叩いている音だった。誰かが家に入れてもらいたくて玄関口に立っているのだ。こんな時間に、それもこんな悪天候の中にやって来るとは、いったい誰だろう。マルクスはベッドから飛び出した。彼は廊下を通って玄関へと素足のまま急いだが、足の裏は寒さにヒリヒリした。

彼はすばやく戸を開いた。風とみぞれがもろに彼の顔に吹き付けてきた。一瞬、彼は外の暗闇の中に誰をも見出さなかった。「なんだ、夢だったにちがいない。」
 しかし次の瞬間、二つの影が夜の暗闇からすっと現れ、すばやく玄関の間に滑り込んできた。マルクスは驚愕した。こんなことがありえようか。フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックのはずがないではないか!いや、しかし目の前にいるのはまがう方なく、彼ら二人であった。彼は戸を閉めた。

薄暗い灯りの下で、二人がブルブルと体を震わせているのがみえ、歯のガチガチ鳴る音も聞こえた。ちゅうちょなく、マルクスは二人を暖炉のある客間に連れていった。そして下火になっていた暖炉に火をくべた。炎はパチパチと燃え始め、やがて部屋全体が暖炉の火で明るくなった。

そうして初めて、マルクスは、マンツとブラウロックが凍雨でずぶぬれになっているのに気付いた。それに二人とも上着を着ていなかった。ブラウロックの服は肩のところで破れており、そこから血がにじんでいた。

マルクスはよろめきながら寝室に駆け込み、レグラを起こした。「二人に何か温かい食事を作ってあげておくれ。」そして彼は二人のところに戻っていった。

暖炉の火はさらに燃え盛り、その熱で二人の震えはおさまっていった。マルクスは押し入れからシャツを二枚探し出し、マンツとブラウロックに差し出した。二人はすぐさま着替え、その結果、だいぶ心地良くなったようだった。

「ど、、、どうやって監獄から出てきたの?」マルクスは尋ねた。
ゲオルグ・ブラウロックの目は輝き、彼の顔には笑みがこぼれた。「なんだか僕たちの周りには、不思議な仲間がいるようなんだ。実をいうと、僕たちも、君と同じくらい、驚いているんだ。」

そして彼はすぐに説明をはじめた。「数日前に、僕たちは鍵の掛かっていない窓があるのに気づいたんだ。――塔の上の方にね。でも、僕たちはてんで注意を払っていなかった。というのも、まず、自分たちは死ぬまで獄中にとどまるって覚悟を決めていたからね。それに、仮に逃げたかったとしても、窓から下に降りる方法がなかったし、仮に降りることができたとしても、跳ね橋を渡る方法がなかった。ところが、今夜、例の不思議な友人たちの介添えで、ロープが僕たちの目の前に降ろされてきたんだ。さらに驚くべきことに、跳ね橋はちゃんと下におりていて、門にも鍵がかかっていなかった。それで、僕たちは一人ずつ窓台によじ登り、ロープをつたって下に降り、橋を渡って、自由の身となったんだ。」

「話はそう簡単じゃなかったよ。」マンツは訂正した。「何人かは少しケガをしたし、降りる際に、壁にバンとぶつかりもした。シャツが破れた人たちもいた。」そう言って彼はブラウロックを見た。「そういった問題に加え、どこへ行けばよいのか、こんな短時間の間に、誰ひとり決めることができなかったんだ。」

「それもそうで、三十分前には、暗い嵐の吹きすさぶ外の世界に逃亡するなんて、誰も夢にも思っていなかったんだから。」ブラウロックは言った。
「ゲオルグは、『みんなで海を渡って、アメリカ大陸の原住民の所へ行って、彼らと一緒に暮らそう』とまで言っていた。おそらく原住民は僕たちを歓迎してくれるだろうからって」とフェリクス・マンツは言った。「でも彼は本気じゃなかったと思う。」
「まあね」とゲオルグは認めた。
「この先、どこに行く予定なの。」マルクスは訊いてみた。
「そうだな。まだ本決まりではないが、そろそろ出発しようと思っている。ここに立ち寄った理由は見ての通り、僕たちは寒さでほとんど凍死しそうだった、、、それにもっと服が必要だったんだ。」

「上着やあたたかい服をもっと持ってくるよ。」すぐにマルクスは申し出た。「遠慮なく使ってほしい。なにか役に立てれば本当にうれしいよ。」

二人の必要品をそろえるのに、レグラも来て、加勢してくれた。二人の訪問者はすぐに支度ができ、――より安全な場所へ避難すべく――再び夜の闇路へと突き進んでいく用意ができた。

いとまを告げる中、フェリクスは口をつぐんだ。何か言いたい事があるらしかった。「ここゾリコンの教会がつまずいてしまったと聞いて、僕の心は痛い。」彼はマルクスに言った。「これほど悲しいことはなかった。でも、もしや今でもまだ遅くないのかもしれない。御霊は今も嘆願しておられると僕は信じている、、、」

ゲオルグ・ブラウロックが言葉を挟んだ。「マルクス。」ありったけの思いを込めて彼は言った。「今日、弟子であることの代価は非常に高い。しかし、天にある栄冠はそれだけの価値をそなえている。そして最後まで忠実であり続ける者が救われるんだ。」
フェリクス・マンツは再び、助言して言った。「たしかに今まだ御霊は嘆願しておられるが、それが今後も続くとはかぎらない。御霊を消してはならない、マルクス。これ以上御霊を消してはいけない。」

二人は闇夜に歩み出した。ややあってゲオルグ・ブラウロックが振り返った。「最後にもう一つ。ホッティンガー家の者たちは家に帰ってきたのかい。」
「ええ。」
「彼らはあともう数時間待っていればよかったのに。そうしたら、清い良心をもって自由の身となることができたろうに。」

こうして二人は暗闇にすいこまれていったが、ブラウロックの言葉は今も空中に漂っているかのようであった。自由!いったいどういう意味なんだろう、とマルクスは思った。今晩見たフェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックははたして自由な人間だったろうか。――隠れ家を求めて、嵐の中を急いで去っていた彼らが。

その一方でルドルフ・ホッティンガーと息子ウリはどうだろう。彼らは自由な人間だといえるだろうか。彼らの苦悶に満ちた表情をマルクスは未だに覚えていたし、彼らの心情がマルクスには自分の経験からよく理解できた。

ホッティンガーの人々は逮捕される恐れなく、朝起きることができるだろう。しかし真の意味で、彼らには自由があるのだろうか。たった今闇夜に消えて行った二人は、魂において自由であり、良心の呵責からも自由であった。これもまた、自由といえよう。いや、おそらくこちらの方がより大きな自由なのかもしれない。

☆☆☆

マルクスとレグラはこの深夜の訪問客について一切誰にも言わないように気をつけていた。一つには、彼らを助けたという事自体、重大な犯罪行為とみなされ、それが発覚したなら、マルクスの投獄は確実だったからである。それに、二人がゾリコンにいたということが当局の知るところとなれば、逃亡の形跡を残すことになり、それによって彼らをさらなる危険に陥れることになりかねなかったからである。

二人は迅速に州を脱出しただろうとマルクスはにらんでいた。「コンラード・グレーベルはどこに行ったのだろう」と彼は思った。フェリクスの言ったところによれば、コンラードの健康状態はさらに悪化しており、長い獄中生活によって極度に衰弱している、とのことであった。彼はいったいどこに逃げたというのだろう。

マルクスはコンラードのことを気の毒に思った。――距離的な意味だけでなく、信仰の上でも、妻と子どもたちから引き離されている彼のことが。それに加え、コンラードは親からも勘当されていた。しかしコンラード・グレーベルは地上の家庭や幸せ以上に価値あるものを持していた。そう、それは内なる平安、そして――福音宣教を通し、神の御心を行っているのだ――という確信であった。

☆☆☆

その後何カ月もの間、アナバプテストの指導者たちについての音沙汰はなかった。しかしさまざまな証言から明らかだったのは、彼らが州を脱出し、どこか他の地域で福音伝道に従事しているということだった。

やがて春は過ぎ去り、夏となった。そしてあたたかい気候と共に、グリューニンゲンには再び霊的覚醒がもたらされた。かつて意気消沈していた兄弟たちは再び新たな希望と勇気を得た。こうして夏の間、――安全を確保するべく――さらなる秘密裏のうちに、彼らは集った。兄弟たちは畑や森の中、また時には洞窟の中で集会をもった。また時には、街道からかなり奥まった所にある農夫の納屋の中に集まった。

六月の下旬になって、――フェリクス・マンツとゲオルグ・ブラウロックがグリューニンゲンに戻って来ていて、そこで伝道している――という噂がゾリコンに流れてきた。マルクスは彼らを探し出し、話がしたくてたまらなかった。そしてフェリクス・マンツが別れ際に言った言葉――「まだ手遅れではないのかもしれない、マルクス。でもこれ以上、御霊を消してはいけない」――の意味を尋ねたかった。そう、あの日以来、この言葉はマルクスの脳裏から離れなかったのである。

しかしその後、二人がグリューニンゲンの地区を再び離れた、という知らせが入ってきた。聞くところによれば、彼らはあちこちを転々とし、一日かそこらの滞在中に、その地にいる兄弟たちを激励し、その後、また移動をつづけているとのことであった。それゆえ、当局が彼らの存在に気付いた時には、二人はすでにその地を去った後だった。

また同じ時期に、ホッティンガー爺が、小さな小冊子をマルクスに手渡した。「人に見つからないように大事に隠し持っておれ」と彼は警告した。「これを所持しているのが発見されたなら、大ごとだからな。」

マルクスはいそいで家に戻ると、戸の閉まる部屋に入った。そして誰ものぞいていないことを確認すると、例の小冊子を開いた。一目でそれは、洗礼に関するコンラード・グレーベルの――獄中で書き上げた――作品であることが分かった。そうか、危険を承知で、このトラクト冊子を印刷してくれる出版社がついに見つかったんだな、とマルクスは思った。
「これを読み終わったら、次の人に回してくれ」と爺さんは提案していた。

マルクスは小冊子を慎重に読み進めていった。そこには、コンラードの説教で語られていたのを同じ教えが盛り込まれていた。
グリューニンゲンでコンラード・グレーベルと過ごした、あの忘れがたい数週間から、一年が経過していた。この一年、コンラードは変わっていなかった。彼は同じメッセージを語り続け、今も、自分の命の危険を冒して、福音を宣べ伝えていた。

「それに比べて、、、僕は変わってしまった!」マルクスはそう認めざるをえなかった。「僕は、もはや一年前のような、イエス・キリストの弟子ではない。ぼ、、、ぼくは、御霊を消してしまったんだ。」
この現実を前に、彼は厳粛になり、かつ恐れおののいた。彼はがくりと頭を垂れ、手で頭を抱えた。「ああ、主よ」と彼は叫んだ。「もう手遅れでしょうか。」

☆☆☆

「コンラード・グレーベル死去」

八月、衝撃的な知らせがゾリコンに届いた。
報告によれば、コンラードはグリソンズ州、マイエンフェルドにある妹の家に身を寄せていたらしかった。そしてそこにいる間に、ペスト菌に侵されたのであった。すでに獄中生活で衰弱していた彼の体は、この病にとても太刀打ちできなかったのである。

マルクスは友コンラードの死を深く悼んだ。スイスの至る所で悪戦苦闘しているアナバプテストの教会は今後どうなっていくのだろう。その第一人者が死んでしまったのである。

「少なくともマンツとブラウロックがまだ活動している。」マルクスはレグラに言った。「彼らが指揮をとってくれるだろう。そして神は、コンラード兄弟にかわる他の兄弟たちを起こしてくださるかもしれない。」
「そうかもしれないわ。」レグラは同意した。「でも。フェリクスや、ゲオルグ・ブラウロックが再びチューリッヒに戻ってきて、そして捕まったら一体どうなるかは、あなたも知っているでしょう。」

「ああ、知ってるよ。」不安げにマルクスは言った。「参事会は、彼らを溺死刑に処すって宣言している。でも、一つ、慰められることもある。そういった極刑を望んでいない有力議員が、参事会の中にいるんだ。」
「誰の事を言っているの?ヤコブ・グレーベル議員のこと?」
「そうだ。彼を差し置いて、他に誰がいよう。ツヴィングリはこの状態をあまりおもしろく思っていないようだ。三月のあの夜、マンツとブラウロックが牢獄を脱走して、ここに立ち寄ったのを覚えているだろう?あれに関しても、ツヴィングリは、ヤコブ・グレーベルおよび仲間たちのたくらみだったって、非難しているんだ。」

「じゃあ、ツヴィングリ卿といえども、いつも自分の思い通りにすることはできないわけね。」レグラは考え考え言った。
「ああ、完全にはね。少なくともヤコブ・グレーベルが参事会にいる間はだ。なんといってもグレーベル議員は皆に好かれ、尊敬されているからね。彼の影響力はたいしたものだよ。」

☆☆☆

――ヤコブ・グレーベル議員はチューリッヒで影響力のある人物だ――とマルクスは言ったが、それはある意味正しかった。しかし、それに関し、ウルリッヒ・ツヴィングリ卿が何もできないでいると考えた彼の見方は甘かった、といえた。

ヤコブ・グレーベルは全くもってアナバプテストではなかったが、彼は、人間には各々良心の自由が与えられている、ということを堅く信じていた。そして何を信じるべきか政府にとやかく指図されるべきではないと考えていた。それゆえ、彼は、何を信じているか、という事で、誰かを迫害することに反対の意を唱えていた。またヤコブ・グレーベルは勇敢な人物でもあった。ある時など彼はウルリッヒ・ツヴィングリにこう言った。「いっそのこと福音伝道に専念したらどうですか。そして、これ以上政治にからんでくるのをおやめになったら。」

しかしツヴィングリ卿に負けがあってはならないのだった。彼は明確に物事をみていた。――自分流の教会改革を成功させるには、アナバプテストの連中を自分のコントロール下に治めなくてはならない。そしてアナバプテストに対処するためには、参事会は一つにまとまっていなくてはならない、と。そういう訳で、ヤコブ・グレーベルとその周辺の人々をなんとか片づけなくてはならなかったのである。

こうして高圧的なやり方で、ヤコブ・グレーベル議員は逮捕され、政治的犯罪のかどで告訴された。そして11名から成る特別委員会が、陪審員として任命されたのである。恐怖におののき、町全体がこの成り行きを見守った。数日間というもの、チューリヒの市門は閉ざされ、異常な緊張状態にあった。

ツヴィングリの強い要求により、ヤコブ・グレーベルに死刑判決が言い渡された。事の成り行きが信じられないままに、この白髪老人は、処刑場に引いて行かれ、すぐさま首をはねられた。

こうしてウルリヒ・ツヴィングリは自分がただ者ではないことを世に実証したのであった。反対勢力は、恐怖でちぢみあがった。今や、彼は、自分流の教会企画を心おきなく推し進めることができ、しかもこの先、参事会から疑問の声が挙がることも皆無だといってよかった。アナバプテストを対処するにあたっての道はこれで明確になった。

こうして舞台は整い、今や、チューリッヒ全体が、アナバプテスト指導者の逮捕を固唾をのんで待っていた。

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第32章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

第30章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』 

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