その後何が起こったのか――エピローグ 

フェリクス・マンツの溺死刑が行われた翌年、彼が自らの死をもって証ししたその信仰は、スイス全体ばかりでなく、近隣諸国まで拡がっていった。そしてついにそれは北方のオランダとベルギーの低地にまで達したのである。ほぼ全地域において、アナバプテストは迫害に直面し、殉教者の数は増す一方であった。

しかし、運動の誕生地であるチューリッヒ市自体、そしてゾリコン近郊では、教会が再び回復することはなかった。

ヤコブ・ホッティンガー翁について言うと、彼は、ツヴィングリの国教会を非難したかどで、もう数回、投獄を経験した。

しかし驚くべきことに、マンツの死後6カ月経った、1527年の6月、五人の元ゾリコン・アナバプテストが、投獄されている二人の囚人に話をしに、グリューニンゲンまで足を運んだのである。投獄されていたヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンに対し、再洗礼のかどで、死刑判決が出されようとしていた。ゾリコンからの五名――ヤコブ、ヘイニー、ウリ・ホッティンガー、キーナスト、ヤコブ・ウンホルツ――は、自分たち自身は転向していながら、牢にいる二人の指導者には、死に至るまで忠実であるよう激励したのである。

一方、グリューニンゲンでは、厳しい迫害にもかかわらず、長年にわたって、運動は強固さを保ち続けていた。1528年9月5日、ヤコブ・ファルクとヘイニ・レイマンはチューリッヒにて溺死刑に処された。つづく数年の間に、グリューニンゲン出身のもう三人の指導者たちが処刑された。

しかし、ゾリコンからはただの一人もアナバプテスト殉教者がでなかった。

ゲオルグ・ブラウロックは鞭打ち刑を受け、チューリッヒから追放された後、ベルン州で伝道を続けた。その地で彼は幾つかの公開討論に参加した。ウルリッヒ・ツヴィングリは1528年1月に行われた討論会に参加するため、チューリッヒからやって来たが、ブラウロックおよびベルンの信者たちを説伏することはできなかった。その後すぐに、ブラウロックはベルン州から追放された。

このベルン州――特にエンメンタルと呼ばれる農業を営む渓谷地――において、アナバプテストの信仰は、最大かつ、後世にまでも残る実を結んだ。エンメンタルから多くの難民がヨーロッパの他地域に避難し、後にはアメリカに渡った。それゆえ、今日、アーミッシュおよびメノナイト信者の大部分は、歴史的遺産をこの渓谷にたどることができるといえよう。

ベルン州から、ブラウロックは新たな場所に向かった。彼は数カ月の間に、四つの異なる州から公的に追放処分を受けており、どこに行っても彼は追われる身であった。ついに彼はスイスを離れ、オーストリアのチロル地方に移り、そこで彼の生涯中でも最も実り多い働きを始めたのである。

1529年9月、その地で、ゲオルグ・ブラウロックは、惨たらしい拷問と数週間に渡る獄中生活の後、ハンス・ランゲゲルという名の兄弟と共に、焚刑に処された。ブラウロックは最後まで信仰に固く立ち、確信に満ちており、死ぬ直前まで人々に聖書の御言葉を説き続けた。

このようにして、アナバプテスト運動の誕生から四年弱の間に、最も影響力をもった三人の指導者たちが死んだのである。

ゾリコンにおける傑出した初期指導者の一人であった、ヨハン・ブロトゥリーは、1525年初旬に、チューリッヒを離れ、シャフハウゼン州のハラウで忠実に奉仕を続けた。この地において彼は目覚ましい成功をおさめ、多くの村人が洗礼を受けるにいたった。1528年、彼は焚刑に処されたが、The Martyrs’ Mirror (『殉教者の鏡』)という本の中には、彼の殉教の記録が記されている。なお、『殉教者の鏡』の中では、ヨハン・ブロトゥリーの名はHans Pretleと記されている。

一方、ウィルヘルム・ロイブリーンもまた福音のメッセージを広めた。ワルドシュトで、フープマイアー博士に洗礼を授けたのは他ならぬロイブリーンであり、ホルブの教会を導かせるべく後に、あの高潔なミカエル・サトゥラーを任命したのも、彼であった。

ロイブリーンは獄中にいる間に信仰告白文を書いた。その中で彼はこう書いている。「我々の経験から言えることは、あなたがたの説教者たちはお粗末な大工のようだということです。というのも、確かに彼らは教皇の教会を打ち倒しはしましたが、キリスト者としての秩序をもった教会はまだ建て上げるにいたっていないからです。それゆえ、彼らの召しは神よりのものではなく、神聖なものでもなく、あくまで地上的なものだということです。」

しかし、ウィリアム・ロイブリーンは殉教者としての死をもって信仰を全うしたわけではなかった。その反対に、後になって、彼はアナバプテストの信仰を離れ、「嘘つきで、不誠実かつ裏切り者のアナニヤ」として破門されたのである。お金に対する愛着が彼の失墜の原因だったらしい。彼はその後カトリック教会に戻ったとされており、心身ともに衰弱する中、80歳近い高齢で亡くなった。

コンラード・グレーベルの未亡人バーバラは夫の死後数年して、再婚した。コンラードの三人の子どもの内、結婚する年齢まで生き残ったのは、ヨシュア一人であった。ヨシュアは父の親戚に引き取られ、ツヴィングリの改革派信仰の家庭で育てられた。コンラード・グレーベルの孫コンラードは、1624年市の財務担当官となり、この孫の孫は(彼も名をコンラードといった)1669年、市長になった。1954年、子孫にあたるハンス・フォン・グレーベルは、チューリッヒにあるグロスミュンスター教会の牧師を務めた。

さて、スイスの有名な宗教改革者ウルリッヒ・ツヴィングリは、フェリクス・マンツの死後、引き続き政治的影響力を増し加えていった。チューリッヒ市民によって選任される二百人大参事会は、――ツヴィングリを主要メンバーとする――秘密評議会によってますます支配を受けるようになった。

ツヴィングリの計画は野望に満ちたものであった。彼は従来のスイス同盟を破棄し、それに代わって、オーストリアからデンマークにひろがり、フランスをも含めた新しく強力な連合国を形成しようともくろんでいた。1529年、ツヴィングリは、スイス国家を再形成する時期がきたと判断した。チューリッヒは戦争の用意ができていた。そしてツヴィングリの軍隊は大胆不敵にも、スイスの北東地域の大半を奪取したのである。――敵は戦いを交えることなく、降伏した。

しかし1531年は、ツヴィングリおよびチューリッヒにとって、厄年となった。カトリックの五州が連合して、コッぺルの戦場にてチューリッヒと戦ったのである。数の上で一対四と劣勢だったため、ツヴィングリ卿自身、カトリック軍に対し自軍を率い、戦った。

その結果、チューリッヒは惨敗した。戦が終わるまでに、五百人以上のチューリッヒ市民が戦場に倒れた。その中にはウルリッヒ・ツヴィングリも含まれていた。彼は怪我をして梨の木の下に横たわっているところを、敵に襲われ、――ツヴィングリだと知られる前に――殺されたのだった。

その日ツヴィングリと共に戦死した者の中には、チューリッヒ参事会の議員26名、また25名以上もの牧師が含まれていた。ゾリコン教会のニコラス・ビレター牧師もその一人であった。

当戦場には他に三名の死体が横たわっていたのだが、その名は我々にとって興味深いものである。すなわち、キーナスト、ヘイニー・ホッティンガー、ハンス・ミューラーである。元ゾリコン・アナバプテストであった三人は、ウルリッヒ・ツヴィングリおよびビレター牧師と共に、戦いのさなか死んでいったのである。

青年伝道者マルクス・ボシャートについて、そしてその後彼がどうなったかについては、歴史は沈黙を保っている。
このようにして、ゾリコン集会という、初のアナバプテスト教会の物語は幕を閉じることとなったのである。


                  ――終わり――

『正義の戦争?クリスチャンは戦争に参加していいのでしょうか。』公開討論会レポート

第32章 『チューリッヒ丘を駆け抜けた情熱』