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今回の記事は、Sanaeさんと共同執筆しました。前半はSanaeさんによる記事で、後半は私の書いた記事です。

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「日本の教会には男性が少ない」とよく言われます。女性2対男性1と言われ、クリスチャン女性の結婚難もよく聞かれます。

様々な教会で女性たちが多くの役割を担い、熱心に奉仕しておられています。

教会のバザーや催し物での女性の方々の貢献を目にすると「本当にすごいなぁ。」と尊敬の念が湧いてきます。こういったイベントだけに限らず、日本の教会は普段から女性たちの働きに多くを支えられているように思います。CSの先生にも女性が多いとお聞きします。

聖書の教える創造の秩序を重んじ、男性と女性は本質的な価値は全く平等であれども、異なる役割が神様から与えられている。

男性はかしらであり、女性は助け手である。夫たちが神に求められているものと、妻たちが求められているものは異なる。このような信仰が「相補主義complementarianism」と呼ばれている事を、Kinukoさんのこのブログを読んで初めて知りました。

そしてその相補主義のクリスチャンたちの多くが(女性宣教師・伝道師を認めておられたとしても、)公同の礼拝で説教を行う牧師職は男性にのみ開かれているとの理解に立っておられ、その事を公に述べられています。

伝統的に相補主義を固く信じる教会、祈りのベールの伝統を残す教会でもそのような理解がなされています。

ブレザレンや再洗礼派・・地域や国によってはベールの習慣が殆ど廃れていますが、カトリック・正教会もそれに当たるでしょう。

日本のプロテスタント教会には、何人もの女性牧師の方がおられます。

無牧の教会が増えつつある現状のある日本で、彼女たちの存在は多くの教会にとってもはや欠かせなくなっているのかも知れません。

「女性牧師を認めるか」という問題が、欧米で現在もなお激しい論争を引き起こしているのに対し、日本ではあまり多くの論争が見られないように思えます。

男性メンバーが絶対的に少なく、男性教職はさらに少ないという現実の前に、女性たちが教えざるを得ない状況があるのでしょう。

妻の救いを願う信者の夫の声よりも、夫の救いを願う信者の妻たちの声が圧倒的に大きく聞こえてくるのが日本の教会です。

「男性が牧師であるべきだから」という理由で、彼女たちがもし牧師を辞めてしまったとしたら、立ち行かなくなる教会もあるのではないかと思います。

「日本で毎日曜日に礼拝に出られるような働き方が出来る男性は、よほど恵まれた職業の人か、一部の工場労働者だけ。」との声を聞いた声があります。

会社経営者のご主人がお客さんへの接待などで教会になかなか行けないというお話を、奥様からお聞きした事があります。単身赴任を命じられたり、現場から現場を渡り歩く仕事のために礼拝に来れなくなる方もおられます。

家族や自分を養うために、顧客や会社に求められれば日曜日も出なければならない。でもそうすると教会には行けない。

この日本の厳しい労働環境が、多くの男性を教会から遠ざけているのかも知れません。

余談になりますが、日本で男性クリスチャンがしばしば「知的なエリート」若しくは「稼ぎの少ない頼りない人」というイメージを持たれがちなのにも、同じ背景があるように思います。

日本では現在「結婚後も男女両方が働き、育児や家事を平等に分担する」というライフスタイルが一般化するのが望ましいとする流れが作られつつあります。(男性が育児や家事に関わることや共働きそれ自体は悪いものではありません。)

これに関してある方が日本は国策として男性一人が500万稼いで家族を養う社会ではなく、男女が250万円ずつ稼いで世帯収入を同じにする社会を目指しているのではないかというような内容を書かれていました。(うろ覚えなので、数字は違っているかも知れませんが、男女が半分づつ稼ぐのを目指すという内容ではありました。)

このような生き方が国策として推進されつつある背景には、労働人口の確保や税収の問題、国際競争力維持のための人件費抑制などの理由があるかと思われるのですが、男女が同じような生き方を目指すのが当たり前という社会の流れの中で生きていく私たちにとって、今後ますます聖書の教える相補主義は観念的でピンと来ないものになっていくのかも知れません。

聖書の原則に立ち返り、創造の秩序の回復を願う祈りが世界中で起こされていると言われます。個人的な信仰から祈りのベールを付け始める姉妹たちも、現在各地におられます。

創造の秩序の回復。この点に関しては女性の従順が多く説かれる傾向にありますが、男性のリーダーシップの回復もまた大きな課題であると思います。

祈りのベールは創造の秩序を知ることなしにはありえません。

日本の教会の男性不足を憂う声は数多く聞かれます。

日本の教会で男性のリーダーシップが回復されていく時に、現在欧米でそうなりつつあるように、祈りのベールに関する議論もまた起こされていくのかも知れません。

主の御心が、日本の教会の上にありますように。
アーメン。

ー終り―

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私は日本に住んでいませんので、日本の教会のことについてはよく知らないことが多いです。

先日のコメント欄のところで、Sanaeさんが日本の教会の現状をふまえた上で、「男性のリーダーシップの回復が望まれていると思う」と意見を寄せてくださいました。そこで私は彼女にそのテーマに関する原稿の執筆をお願いしました。

1コリント11章の祈りのベールに関する議論が現在、欧米で白熱しているのは、そこに神のデザインされた「創造の秩序 Creation Order」における聖書的男女のあり方・役割に対する真剣な求めがあるからだと思います。

また、その背後に、60年代以降、急速に福音主義教会内に浸透してきた現代フェミニズムとの対決(あるいは宥和・迎合)があるのは言うまでもありません。

女性牧師問題はこの線上にあるものであり、この是非をめぐり、egalitarian(対等主義的な立場、女性牧師認める)とcomplementarian(相補主義的な立場、女性牧師認めない)との間で現在もさまざまな議論がなされています。

その意味で、Sanaeさんが記事の中に書いておられるように、祈りのベールの議論は、まず神の創造の秩序を知ることなしにはありえないものなのだろうと思います。

「なぜ日本の教会にはこれほど男性が少ないのか?」これはSanaeさんが具体例を挙げて説明しておられたように、本当に切実な問題だと思います。

私はギリシアに住んでいますが、こちらの教会には男性も多くいます。中東移民で構成される教会にも多くの熱心な男性クリスチャンがいます。

彼らの中では、「信仰を持つ=宗教にはまる」といったマイナスの見方よりもむしろ、敬虔に神を信じる男性は「かっこいい」「勇ましい」「信頼できる」といった肯定的な見方をされているように思えます。

日本の教会における「男性のリーダーシップの回復」。これを私たちはもう一つの祈りの課題にしていきたいです。

「現在、日本の教会でこれほど男性が少ない現状があるのを知りながら、あなたはなぜ女性牧師が非聖書的だと反対しているのか?」と反論される方がおられるかもしれません。

それに対しては、私はこうお答えしたいと思います。

日本の教会における男性の少なさは、今に始まったことではありません。女性牧師への門戸が開かれる「前」にも「後」にも、この問題は常に存在していたのです。

ですから、日本では教会に男性がいない→だからやむを得ず女性に牧師になってもらうより道がない→だからそういった厳しい現状に追いつめられる形で女性牧師が誕生した、という構図は成り立たないのです。

女性牧師の誕生の起源は、全く別のところにあります。

そしてこれは私の経験から申し上げますが、女性が霊的リーダーシップをとる時、その教会における男性の数(比率)は「ますます減る」傾向にあります。

そうすると、「ますます」敬虔な独身姉妹たちは結婚することがむずかしくなり、そこから言葉では表現できないようなさまざまな苦悶が生じてくるようになります。

むしろ、私たち姉妹がシンプルに神の言葉を信じ(1テモテ2章)、信仰をもって、「牧師」という――本来男性に対してのみ許されている役割――を元の位置にお返しする時、その空位(vacancy)を主は、ご自身の方法で満たしてくださると私は信じます。

そして「男性のリーダーシップの回復」も、そういったプロセスと共に進んでいくのではないかと思います。

Sanaeさん、すばらしい提言をありがとうございました。
そして、読者のみなさん、この記事を読んでくださってありがとうございました。


追記)
下のVTRは、相補主義の立場に立つクリスチャンに向けて語られたメッセージです。

クリスチャン・フェミニストから相補主義クリスチャンに対してなされる批判に次のようなものがあります。「あなたがたは、女性牧師を認めない理由を、1テモテ2章の聖句における創造の秩序にあると主張しています。しかし、そう言いつつも、同じ線上で説かれている、1コリント11章の祈りのベールの掟に関しては、これを「文化的なもの」として片付けています。これって矛盾ではありませんか?あなたの姿勢には、一貫性がないではありませんか!」

たしかにこの批判は的を射ています。もし祈りのベールを文化的解釈で片付けるのなら、1テモテ2章の聖句も文化的に片付けてよいということになり、従って、女性が牧師になってもOKということになります。

こうした相補主義クリスチャンの矛盾点を指摘しつつ、ジェレミーさんが祈りのベールのことを説いておられます。興味のある方はぜひご覧になってください。

(Inconsistent Complementarianism, How the cultural view of headcovering undermines biblical manhood and womanhood=一貫性のない相補主義―いかに「祈りのベールの文化的見解」が聖書的男性像・女性像をむしばんでいるか)★このVTRとほぼ同じ内容の記事を以前に日本語訳しました。日本語でお読みになりたい方は日本語訳をクリックしてください。





すべてが ふさわしい場に―ゲルハルト・テルステーゲンの詩

天にある礼拝