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女性であることが何を意味するのかを学ぶためには、
まず、私を創造してくださった
このお方を知ることから始めなければならない。

-Elizabeth Elliot



Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 17, Masculine and Feminineの中の一部をご紹介いたします。(私訳)

☆☆☆


女性解放論者たちは「女性であること」から解放されたいと思っているのでしょうか。

「いいえ。」と彼女たちは言います。「女性はこうこうあるべきという社会のステレオタイプから解放されたいんです」と。

彼女たちによれば、男性と女性に根本的な差異はないというのです。すべては環境および条件づけによるものだと。

最近、科学者たちによって次のような非常に興味深い発見がなされました。―それによると、両性それぞれの行動様式の要因を、社会要因だけに帰すことはできない、というのです。これに対してフェミニストたちはよくよく考えてみるべきではないでしょうか。

あらゆる社会において、男性がこれまで常に治め、これからも治め続けていくだろうその理由として、強い生理的要因(ホルモンのこと)が存在します。

また、家母長制(matriarchy)という考えは、神話的なものにすぎないということを私は学んでいます。というのも、そのようなものがかつて存在していたという記録は一つだに存在していないからです。

男性が治める(male dominance)というあり方が、ただ単に社会的条件づけにすぎないのなら、なぜ、それがこれまでずっと普遍的なものであったのでしょう。おかしくありませんか?

、、私たちをそれぞれ異なる風にお造りになったのは神であり、神は御目的をもって、そうなさったのです。

、、神は男と女を創造され、男性には、呼びかけ、導き、先導し、治めるよう、そして女性には応答し、つきしたがい、順応し、従うよう仰せられたのです。


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たとい私たちが「種の起源」に関して異なる理論を持っていようとも、女性の肉体的構造をみれば、女性というものが元来、受け入れ、産み、補い、はぐくむように造られているということがよく分かります。

、、フェミニストによる議論の中に非常に多くみられる、根本的そして――私にとって理解に苦しむ欠落は――彼女たちが、女性らしさについてほとんど何も語っていないことです。

それはおそらく、服従すること、そして結び合うことの要素が、女性らしさそれ自体に包含されているものであり、それらは、文化的に定義された概念よりもずっと永続的かつ普遍的な重要性をもっているからだと思います。

これについて考えるのであれば、まず肉体そのものの事から考察していくべきでしょう。

人間の体というのは、肉体、精神、霊で構成されています。

精神が肉体の健康に及ぼす影響を否定する医者はだれもいないことでしょう。患者の心理的問題が肉体的にも影響を及ぼしている可能性があることを精神科医は知っています。霊的な問題が、肉体的、精神的な次元にも及びうることを牧会者たちも一様に認めています。

精神と肉体、そして霊の境界線を明確に区分できる人など誰もいません。

それにもかかわらず、今日、――あらゆる人間の特徴の中でも最も強力かつ否むことのできないものである――セクシュアリティーについては、これが単なる肉体的なものに過ぎず、肉体の領域を超えた重要性など何もないとみなすよう、私たちは求められているのです。

初代教会を悩ませた異端の一派がいました。

彼らは、物質を無視するようクリスチャンに説いてまわりました。物質というのは、それ自体にあってただひたすら悪なのだと主張する人たちがいるかと思えば、物質が存在するというその現実さえ否定してかかる人たちもいました。

またある人々は人間の中にある霊的な性質だけが唯一価値あるものなのだと主張しました。―だから、肉体のことなど忘れ去ってしまいなさいと。

しかし、こういった部門化は、危険な試みです。聖書は、私たちが――霊、魂、肉体ともに――それらすべてを従順に導くよう教えています。


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あなたの持しているのは、女性のからだです。これは何を意味しているのでしょう。

その目に見える特徴――やわらかさ、なめらかさ、(男性と比べて)軽い骨格および筋肉の構造、胸、胎――の中に、不可視的な意味をみることはできないでしょうか。

こういった特徴は、あなたという存在とは全く無関係のものなのでしょうか。

あなたのアイデンティティーは、こういった肉体的なかたちとも分かちがたく結びついていませんか。

人格を理解するという私たちの探求の過程で、いったいどうしてこういったものを無視することなどできるでしょう。

、、あらゆる正常な女性は母親になるよう造られています。もちろん、すべての女性がその肉体的機能を実際に用いるようには召されていません。しかし、より深い意味において、母親であるという属性は、女性の本質です。

、、母親であるということは、自己をさしだすこと、犠牲、苦しみを要求します。

いのちを与えるために、死へと下っていくという――、偉大な霊的原則をあらわした、偉大な人間のアナロジーです。(パウロはこう書いています。『こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。』)

女性であることは召命です。

これは神の下で、私たちが応答していくべき使命(vocation)です。

―もし、それが文字通りに、子どもを産み、はぐくんでいくことなら、喜びをもち、

さらに、より広い意味において言うなら、結婚していようとシングルであろうと、子どもを産むことのできる体であろうと、不妊の体であろうと、

すべての女性が――処女マリアに表わされているような無条件の応答、そして、苦しむこと、受け入れること、宿すこと、いのちを与えること、はぐくむこと、そして他者をいつくしみケアすることへの意思――これらに参与すべく召されていることに感謝したいです。

この召しに答えていく力は、私たちが自分たちを創造した「愛なるお方」を仰いでいく時、与えられます。

、、こうして私たちがこの愛なるお方の要求に自らを従わせていくにつれ、私たちはより謙遜な者に、そして――主に対しても、お互いに対しても――より寄り頼んでいく者、、、そしてさらに言うなら、より生き生きとした存在へと造り変えられていくのです。



Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 17, Masculine and Feminineより一部翻訳抜粋


バックナンバー記事:
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