ヘンリー・マーティン(英: Henry Martyn、1781年2月18日 - 1812年10月16日)
「神よ、汝のために私を完全燃焼させたまえ!」
    ――1806年4月、ヘンリー、宣教地カルカッタにて

今、手元に一冊の聖書があります。
Old Versionと呼ばれるペルシャ語聖書(1846年初版)です。

近年、すぐれた現代語訳ペルシャ語聖書が発行されていますが、原典にもっとも忠実な訳として現在でも高く評価され、各地の教会で用いられている聖書、それがOld Versionなのです。英語聖書でいえば、欽定訳(KJV)のような存在です。おどろくことに、このペルシャ語聖書(新約聖書と詩篇)は、ヘンリー・マーティンという弱冠30歳の青年宣教師によって手がけられました。コイネー・ギリシア語の原典とつきあわせてみると、ヘンリーがどれほどギリシア語に通じていたか、そしてペルシャ・アラビア語の語彙・表現にどれほど長けていたかがよく分かります。

彼は、若くにしてケンブリッジの教授としての輝かしい将来を約束されていたエリートでした。美しい婚約者もいました。しかし、ヘンリーは主の愛に捕えられ、この世のすべてを投げ打って、福音の伝わっていない異邦の地に向かう決心をしました。そして31歳という若さで召されるまで、彼はインドおよび中東の人々の救いのため、聖書翻訳のために、文字通り、いのちを注ぎ出しました。さて、本ページでは、ヘンリー・マーティンの人生について振り返ってみたいと思います。

イギリス時代

Henry Martyn

ヘンリー・マーティンは、1781年、イングランドのコーンウォールで生まれました。彼は、ケンブリッジを首席(数学)で卒業し、フェローとしての輝かしい将来が約束されていました。しかし、ケンブリッジ大にいる間、彼はある重要な人物と出会うのです。――そう、チャールズ・シメオンという敬虔な牧師にです。シメオン牧師は、1792年に初のプロテスタン宣教師としてインドへ渡った靴職人ウィリアム・ケアリーのことを熱心にヘンリーに語って聞かせました。シメオン牧師の霊的感化を受け、その後多くの若者(ヘンリーもその一人)が福音伝道のため献身していくことになるのですが、その事実をかんがみても、この方が情熱とビジョンに満ちた信仰の人だったことがわかります。

また、この頃、ヘンリーは、デイヴィッド・ブレイナードの書き物(『ブレイナードの日記』)を読み、そこから甚大な影響を受けます。(ブレイナードは、北米においてネイティブ・アメリカンの伝道に生涯をかけた人です。彼の敬虔さと魂への情熱、祈りに満ちた日記は、今日に至るまで世界中のクリスチャンの心に語りかけています。)

当時、イギリスの東インド会社は、自社の利益を守らんがために、インド等、会社の置かれていた地域への宣教師の入国を禁止していました。しかし、シメオン牧師は、ウィルバーフォースとも協力して、東インド会社のチャプレンとして宣教の情熱をもった若者たちを送り込もうと働きかけました。折しも、ヘンリーの実家は、経済的な破綻に見舞われます。本来彼は、CMS(Church Missionary Society)という宣教団の一員として宣教地に派遣されることを望んでいたのですが、自分の妹の生活費を稼ぐためにも、このチャプレン職を受け入れることにしました。

当時、ヘンリーにはリディアという美しい婚約者がいました。しかし、リディアはヘンリーの宣教へのビジョンを共有することができませんでした。多くの困難と危険の待ち構えている宣教師としての道は、リディアにとって代価が高すぎたのです。当時の彼の日誌を読むと、神への愛とリディアへの愛との狭間で苦しみもがき、そのただ中にあって、みこころに全てをゆだねていこうとするヘンリーの信仰の戦いをつぶさにみることができます。結局、1805年7月5日、ヘンリー・マーティンは愛する家族、友人、そしてリディアに別れを告げ、インド行きの舟に乗り込みます。

(その2につづく)
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ヘンリー・マーティンの生涯 その2 (19世紀 インド・ペルシャへの宣教師)

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