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(Esther Z, The Headcovering as a Symbol of Submission、エスターさんから許可をいただいた上で、2015年8月、翻訳いたしました。)

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(↑エスターさん自作の愉快なポスター。【私は教養のある女性です、、以下のエッセーは、恭順および被り物との私の出会いを綴ったものです。】というような内容が書かれてあります。)


私は現在、大学の博士課程に在籍していて、みこころなら、将来的に大学で教えることになるかもしれません。

それなので、私が初めて「女性の恭順 Submission of women」という言葉を聞いた時にどんな反応をしたか、みなさん、容易に想像できると思います。

最初の反応――それは、「え、えっー、それって〈搾取〉じゃない!!」でした。

でも私はその時知らなかったのです。そういう思い込みこそが、現在私たちの生きている「バビロン体制」下で、私の頭に刷り込まれている(偽りの)要塞だったのです。

でも主はほむべきかな、こういう要塞に阻まれていたのにもかかわらず、その後、私の目は開かれていったのです。

そして女性が――神様がお造りになられ、よしとされた場所――にとどまるということの美しさを見るようになったのです。そうです、恭順の場です!

そして1コリント11章を通して、恭順することと被り物との相関関係が、まるでパズルが合わさるかのように、私の前に開かれました。突如として、「女のかしらは男であり」(1コリ11:3)のような聖句が今までとは違った意味と美しさをもって私に臨んできました。

そして恭順するという行為は、私を劣った存在にするわけではない、いいえ、実際にはその反対に、私の価値を高めてくれるものである――ということを主は私に啓示してくださいました。

聖書には、「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければならない。マタイ23:11」と書いてあります。

さらに、主イエス・キリストによる服従を通して、私たちに救いがもたらされたということに気づきました。史上もっとも偉大な行為が、服従という行為をとおしてなされたのです。それほどまでに服従(恭順)とは非常にインパクトのあるものなのです。そこから私はさらに学びました。つまり、女性が恭順しなければならない理由―。

1)神様がそうおっしゃったから。
2)女性が恭順することを通してこそ、完全に成し遂げられうる主の偉大なご計画がそこに存在するから、なのです。


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それでは、恭順のシンボルである被り物について、これから少し書いてみようと思います。

1コリント11:10には「ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。」と書いてあります。

被り物というのは恭順を表す重要なシンボルです。

ある人々は言います。「恭順だけで十分ではありませんか?なぜわざわざシンボル(被り物)にこだわるんですか」と。

神様は聖書の中で数多くのシンボルを用いておられます。Biblegatewayによれば、聖書の中には実に約1670個ほどのシンボルが存在しているそうです。その一例を挙げてみますと、、、

Ⅱ歴代誌34章―ヨシヤ王は、律法のことばが読まれた時、自分の衣を裂きました。ヨシヤ王は、イスラエルがどれだけ神の律法から離れてしまったのか、そしてその結果、彼の民がどのようにひどい状態に陥ってしまっているのかに気づいたのです。

王は心から悔い、嘆いていました。そして彼は心から嘆いていただけでなく、「自分の衣も裂いた」のです。これは深い悲しみや衝撃、悔い改めなどを表すしるし(sign)です。

それに対し神様はどのように応答なさったのでしょう。Ⅱ歴34:27を読むと、神様はヨシヤ王にこう言っておられます。

「あなたが、この場所とその住民についての神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。」


神様はしるし(sign)と心の悔い改め、その両方に目を留められ、その結果、ヨシヤ王の治世の間は、イスラエルに災いはもたらされませんでした。

つまり何を言いたいのかといいますと――「パプテスマ」や「救い」や「被り物」を、「恭順」から引き離して考えることができないように――私たちは「シンボル」を「実体そのもの」から乖離させることはできないのです

これに関し、私の友人のジェシカ姉妹は次のようにコメントしています。

恭順(Submission)。恭順というのは私たちの嫌うものですが、でもこれはきわめて大切なものです。私たちはイエス様を救い主として受け入れ、主として従っていきます。そこから全てがスタートします。

この旅路は、私たちが主の掟に従っていく中で、その恭順を通して前進していきます。恭順というのは私たちを卑しめるものではなく、その反対に、主の目に誉れをもたらすものです。それによって主は喜ばれるからです。

また、おっしゃる通り、シンボルというのは、それが表しているもの(真理)から切り離し得ないのです。

私たちは肉体を持ち、ビジュアルかつ触知することのできる存在です。そして神様もそれをご存知です。なぜなら、神様ご自身が私たちをそのようにお造りになったからです。そして主はシンボルというものを用いて、私たちのビジュアルな性質に語りかけます。

シンボルにはまた、ある程度において、私たちの知性を飛び越し、心に直接働きかける という可能性も持っています。その際、その意味は知性というよりは、心の内的理解によって解かれます。

モーセは荒野で青銅の蛇――卑しむべき生き物――を上げました。そしてもし誰かが蛇にかまれても、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、その人は癒され、生かされました。

後に、私たちは十字架の上に上げられたイエスを見ます。その十字架とは恥辱のシンボルでした。主は私たちの代わりに呪われたものとなってくださったのです。ご自身は罪のないお方だったのに、主は私たちの卑しさを負ってくださったのです。

「この主が、自分たちを毒している罪から私たちを解放し、いやしてくださる」という信仰を持ってこの主を見上げる時、救いという奇跡が起こります。

もちろんこれは、理性的にも分析され得ますが、にもかかわらず、このシンボリズムはまず私たちの心にインパクトを与え、そして魂に直接働きかけていきます。これを「得るために」高い教育がなくてはならないということもありません。それがシンボルのすばらしいところであり、美点です。

同じように、被り物というのも、非常に明瞭に恭順について語っており、それに関しての、言葉による説明はほとんど必要ないほどです。そのメッセージは直接心に入ってくるのです。

だからこそ、と私は思います。だからこそ、祈りのベール(被り物)はこれほど人々に拒絶されているのだと。なぜなら、私たちの文化全体が、恭順を忌み嫌っているからです。しかし、私たちクリスチャンは、この世の文化潮流とは異なった選択をし生きていくことができると思います。



もし神様が私たちの霊の目を開いてくださるなら、従順な女性が、祈りのベールを被って祈るその行為にどれだけの霊的インパクトがあるのか、私たちは驚くはずです。

神様が召してくださっている場所――主の御言葉に恭順する場所――に女性がとどまる時、私たち姉妹は、より効果的に機能していくことができると私は信じています。


読んでくださってありがとうございました。



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